催花雨 前篇
「ありがとう、京一郎くん。もう上がってもらって構わないよ。」
満面の笑みで伯父の渡してきた封筒が少し分厚いのでそっと中を覗くと、諭吉先生が少なくとも5人以上はいらっしゃるように見受けられた。
「駄目です伯父さん、こんなにいただけません。」
「いいんだよ。息子自慢ができない私に、甥自慢を存分にさせてもらったんだ。遠慮せず受け取ってくれ。」
「でも・・・」
「君が華道を習っていて助かったよ。おまけに和装も様になっているものだから、特に女性からの評判はすこぶる良かったそうだ。予定にないのに受付にまで立っていてもらったのだし、この程度のお礼では少ないくらいだと、私は思っているんだよ。」
「はぁ・・・」
彼が上機嫌で私の肩を叩いた時、秘書らしい女性がやってきて、社長そろそろ、と小声で告げた。
「そうそう、君のお師匠様にもよろしく伝えてもらえるかな。大規模イベントを企画するときは、ぜひ先生にもお力をお借りしたい。」
「分かりました。」
じゃあ、と手を振りながら、伯父は会場へ戻っていった。
私の居るのは都心のビルの高層階にある、会議室の前だ。
ここでは今まさに、伯父の会社が主催する経営セミナーが開催されている。かなり力を入れているものらしく、社長である伯父自ら関係企業の代表らにも声を掛け、参加者は錚々たる面々であるそうだ。とはいえメインはどうやら、セミナー後の懇親会にあるらしい。
そしてなぜ、そんな分不相応の場所に私がいるのかというと、私が華道を習っていると知った伯父に、受付を飾る花を作ってほしいと頼まれたからだ。
当然、始めてまだ一年足らずの私にはそこまでの技量はないと一度断ったのだが、どうやら彼は、気に入りの甥がいることを知人らに触れ回りたいようなのだった。
子供の居ない伯父夫婦は、幼い頃から私や妹のことを可愛がってくれていて、何かといっては小遣いやら服やらを贈ってくれる。いつも貰うばかりでは申し訳ないと常々思っていたところの珍しい頼みごとだったから、私もできるだけ応えたいと思い、師である千家に頼み込んで、さして難しい技を必要とはしないが見栄えのする型と花材を選んでもらい、質の良い花器を借り、教えられたとおりに生けた。
それだけのことで、謝礼をもらうほどのことはしていないのだが、伯父は満足してくれたようだった。私も日頃の恩を少しばかり返せたような気になって、階下へ降りるエレベーターの中でむやみに頬が緩んだ。
ビルを出ると、外は土砂降りの雨だった。
帰る足で、今日の報告がてら伯父の秘書から渡された菓子折りを千家の元へ届けようと思っていたのだが、ここまで悪天候だとは思わなかった。朝、家を出たときは、小雨程度だったというのに。
念の為教室に電話を掛けるが、誰も出ない。千家個人の携帯も、いつもどおり、出ない。
一度帰宅しようかとも思ったが、持たされたのは外箱から和菓子のようだから、日持ちは期待できなさそうだ。
不在だったら玄関先に置いて帰ろう。幸い今日はもう特に用事はないし、雨に濡れても帰って着替えれば済むこと。着物の裾への泥跳ねだけ気になるけれど・・・。
そうだ、折角大きなお金をいただいたから、たまにはタクシーを使ってみるか。ここからなら同じ区内だし、そこまで金額も張らないだろう。
意を汲んだように目の前に止まった黒色の車に乗り込むと、私は千家華道教室の住所を運転手に告げた。
教室につき、母屋の玄関の呼び鈴を何度か鳴らしてみたが、誰も出て来る気配がない。
引き戸を軽く叩くと、するりと開いてしまった。鍵が掛かっていないということは、千家は在宅しているのだろうか。
「ごめんください・・・伊織先生、いらっしゃるんですか?」
声を掛けてみるが、やはり返答はない。
他の家なら流石の私もここで引き返すところだが、勝手知ったる師匠の家。入っていって誰か居ても、驚かれこそすれ叱られることはないだろうと踏んで、そっと上がりこむ。
まず千家の私室を覗いてみたが、居ない。教室は今日は休みだから、おそらくそちらでもないだろう。
となると、台所に立つ人間でもないし、居間、だろうか。
「失礼します。」
襖を開けると、強い雨音が聞こえてきた。窓が開いているらしい。
「伊織先生・・・?」
縁側に千家の後ろ姿が見えた。掃き出し窓を開け放ったまま、庇の下に座り、花を生けているようだ。斜めに降る雨は、彼の周りを細かく湿らせて鈍い光を放っている。
(あれ・・・)
柔らかな声がするから、誰かと話しているのかと思ったが、どうやら彼は鼻歌を歌いながら、花をそっと、愛おしそうに剣山にさしているのである。
(珍しいこともあるものだな。)
「伊織先生、きょ――」
近づきながら声を掛けようとしたとき、折りしも稲妻が当たりを強く照らした。
白い光に照らされた千家の顔は、常の美しさを保ちながら、しかしそのあえかに湛える微笑がどこか壮絶なものを孕んでいるように思われて、私は思わず息を飲む。
「伊織せ――」
再びの私の呼び掛けは、続いて轟いた雷鳴に掻き消される。
その間も、彼は優しい声で歌い続けている。
雷雨の激しさと千家の穏やかな所作は、不気味な対比をもって私を魅了した。
私は千家の性質を基本的に温和なものだと理解しているのだが、この獰猛な光と音を従えてなお損なわれぬ彼の美しさは、彼の本質のどこかにそのような何か危険なものを秘めているのではないかと思わせる。
そして私はまた、それをどうしてか、嬉しく思うような気すらするのだ。
「京一郎。来ていたのか。」
花を生け終わった千家が、こちらを振り向いて微笑む。
雷は先程ので終いらしく、今は穏やかな細雨が、しとしとと庭石を濡らしていた。
「はい。勝手に上がってすみません。鍵が開いていたから・・・」
「例の頼まれごとは終わったようだな。作品は、うまくできたか。」
「はい!伯父にもとても気に入ってもらえました。伊織先生に助けていただいたお陰です。」
「そうか。」
千家の横に座りながら、彼の前にある花を覗く。小さな花器の中へ美しく配置された小ぶりな花の花弁は赤く、どこか迸る血しぶきを思わせた。
「ぁ、そうだ、伊織先生、これは伯父から。機会があったら次は先生にお願いしたいそうです。よろしくと申していました。」
菓子折りを渡すと、さして興味もなさそうに千家はそれを脇に置いた。
「ふぅん。出来の良い弟子を持つと、宣伝になるものだな。」
「先生の指導が良かったからですよ。・・・それから私、伯父からたくさんお礼をもらってしまって・・・」
そうだ、このお金は千家に渡してしまおう。個別の指導料も支払っていなかったのだ、我ながら名案である。きっと伯父も教室代など考えてこんなに多くくれたのに違いない。
「ここに来るタクシー代に少し使ってしまいましたが、用意していただいた花材代とか、花器のレンタル代ということで、先生にお渡しします。」
「なんだそれは、」
例の封筒を差し出すと、一瞥して千家はくすくすと笑った。
「それはおまえ宛の謝礼だろう。半人前にもならん弟子が自ら得た僅かの報酬を横取りするほど、私は困っていないぞ。」
「いえでも、評価されたのは私の力ではありませんから。それに花材と花器――」
「有名企業の代表に私を売り込んだ、それで十分元は取れている。」
これ以上その話はしない、と言わんばかりに、千家は菓子折りの箱を手に取って、つまらなさそうに裏返すなどしている。
良い考えだと思ったのだが。大金の振り方を失い、私はぼんやりと手の中の封筒を眺めた。
菓子折りを弄るのに飽きたらしい千家は、私の髪を少し撫で、それから肩を引き寄せた。
「っ伊織、先生、」
背を包む腕の感触に、息が止まりそうになる。
「その御召、やはりおまえに似合う。」
今日着付けた丁子色の単は、千家が私の誕生日に贈ってくれたものだ。初めは地味だと思ったが、意外と肌にしっくりくる色で、いまはその渋さが気に入り、気合を入れる日はこの着物と決めている。
上がった息に気付かれないように、千家の肩口で私は熱い息をそっと細く吐いた。
私は千家のことを、恋愛方面の意味で好ましく思っている。
別に男性が好きなわけではない、千家だからだ。高価な着物をくれたからでもない。・・・念のため。
もちろん、そんなこと本人に伝えられるわけもなく、つまりは私の片想いだ。
それは確かに、いまもこうして私の肩を抱く彼のスキンシップは通常のそれの範疇を超えているとは思うが、・・・だって、それだけなのだ。
千家から、好きだとかそういう類の言葉をもらったことはないし、当然、・・・キスも、したことはない。
けれど、同じ華道教室の他の生徒と彼との距離感は、いわゆる一般的な講師と生徒とのそれを超えているようには見えず、だから私は、少し特別扱いしてもらっているのだと自惚れている。少なくとも、この母屋に招かれずとも平気で入ってくる人間を、私は自分と彼の家人以外に知らない。
少し雨で湿気た薄物が冷たくて、私は千家の脇に身体をひたとつけ、その肩にほんの少しだけ、頭を預けた。そうすると、彼の温もりをより感じることができる。直接胴は触れさせない。できるだけ腕だけが接触するように気を遣う。こちらの鼓動が伝わってしまわないように。
これも師と弟子の間で守るべき距離感ではない。分かっている。しかし千家は構わない。
彼は私のことを他の生徒よりは近しく感じてくれているようだけれど、それは私の期待する親しみではなく、犬や猫など、愛玩動物に対するそれなのだ。
だから私は極力、よく懐いた猫の振りをする。彼の無頓着に付け込んで、彼の膚に触れたいという醜い欲望を満たそうとする。
濡れ縁から跳ねた雨の細かな粒子が、長い髪を薄っすら覆っている。仄かに立ち上がった蛋白質の濡れた匂いが、私の胸の中をざわつかせた。
(私がこんな邪な思いでいると知ったら、伊織先生は軽蔑するのだろうか・・・・・・。)
そっと目線だけ上げて、表情を窺う。
目が合った。
「おまえ、」
細められる紅い瞳はさながら宝石のようだ。
その唇から吐息交じりに漏れる囁きは、まるで麻薬か何かのように私を捕らえて離さない。
「・・・何を考えている。」
「!」
探るような言葉に、反射的に身体を離した。
「・・・ぇ」
まさか、な。
・・・・・・まさか私の思考を読んだということなどはあるまい。そのような、超能力などあるはずがない。
少し過敏だっただろうか。
「・・・特、段・・・・・・何も。」
言い淀む私を小首を傾げて眺め、千家は畳についた私の手の甲に、白い指を絡めるようにして掌を重ねた。
「ふ。」
いけない。
千家に触れるのは、彼がこちらを見ていないときと決めている。でないと、自分がどんな顔をしているか知れないから。物欲し気に見つめていることが知られでもしたら、なんと思われるだろう。
「ぃ伊織先生?なんです?」
極力動揺を押し隠しつつ、後ずさる。
すり抜けようとした手を、千家は畳に押し付けるように縫い留めた。
「なぜ逃げる。」
顎を引いてやや上目遣い。挑発的な瞳にかかる長い睫毛が扇情的。
手首を掴まれたらきっと高まる脈が伝わってしまう。
「っそれは、だって貴方が急に手を掴んだりするから」
千家は私の手の甲を押さえつけたまま、親指で、私の親指の付け根の内側から手首を撫ぜた。
「・・・っ!」
僅かな感覚だが、つい、息を飲む。
いけない。
おかしなことを考えてしまう。
「先程まで大人しく肩を抱かれていたというのに、手を掴んだくらいで随分と大袈裟な反応だ。」
千家の唇が、にやりと弧を描く。
「なぁ、京一郎。」
辺りが白く光る。
雨雲に抑えられていた部屋の中の色彩が一瞬、白と黒だけになって、再び千家の横顔を照らす。
「いま、何を、考えている・・・?」