私の願いは 


 雨降りの日曜の夜、京一郎は炬燵に当たりながら、バースデーカードを書いていた。
 明日は千家の誕生日で、当日の夜に食事の約束を取り付けてある。
 彼自身は明日が何の日か分かっているのかはっきりしない様子だったが、二日前に、絶対忘れないでくださいね、と念を押すと、首を傾げながらも頷いていた。

 学生には分不相応の店を予約した。
 1日バイトしても到底貯まらない額のディナー。
 自分にとっては信じられない値段でも、千家であれば付き合いなどできっとしょっちゅう行く機会があるのだろうから、京一郎は当初、手料理でもてなそうと思っていた。しかし、企画を進めるうちに、あれも作りたい、これも作りたいと、どんどんやりたいことが増えていって収拾がつかなくなってしまい、結局、涙を飲んで食事はプロの味に任せることにした。そうと決めれば、日々感じる社会人と学生の差を少しでも埋めたくて、無理して背伸びをしてみたというわけだ。
 外食の後はこの部屋へ招いて、手作りのケーキにロウソクを灯し、ハッピーバースデーと歌ってあげる、というのが目下の計画である。

 今日の昼には小さなオーブンレンジで試作品を焼き、まずまずの味を出せることを確認した。生クリームのデコレーションも、何度か絞るうちにコツを覚えた。季節外れの苺も、ちゃんと買ってある。酸っぱいかもしれないが。
 技術的な準備は万全。渡すプレゼントもラッピングして用意済みだ。
 あとは、贈り物に添えて渡すカードだけ。
「伊織先生、お誕生日おめでとうございます。またひとつ先生との距離が広がるのは少し寂しいけれど、すぐ追いつきますからね・・・って、なんだか言外に自分の誕生日を主張しているようだな。やめよう。えっ・・・と、伊織先生が生まれてきたことを思うと、本当に嬉しい気持ちです・・・って、お母さんじゃないんだし・・・」
 メッセージの内容を考えて頭を捻っていると、雨音に混ざって、コンコンと、扉を叩くような音がした。
 すでに23時を回っており、人が訪ねてくるような時間ではない。
 気のせいかと思い、京一郎は再びカードに目を落とした。
 すると、また、コンコンコン、と、今度は少し強めの音がする。
「誰だろう・・・」
 玄関には古いけれどチャイムが付いているはずだ。それを使わずに扉を叩くのは、いったい何者なのだろうか。
 不気味に思いながらも、息を潜めて覗き穴から外の様子を窺う。小さなガラスの向こうには、誰かの肩しか見えない。
「・・・どちら様、ですか。」
 インターホンを使うことも忘れ、ドア越しに声を掛ける。
「――ぅいちろぅ」
 薄い扉の向こうから囁くような声が聞こえた。
 こちらの名を知っていて、そう呼ぶ人間は限られている。まさかと思いながら、京一郎は恐る恐る細く扉を開けた。
「わ、伊織先生?!」
 外に居たのは千家だった。
 いつもの和装ではなく、スーツに細身のトレンチコートを纏っている。傘は持っているようだが、髪の毛は雨を含んでしっとりと首回りに纏わり付いていて、見ているだけでも凍えそうだ。
「ちょっと、待っててください。」
 玄関に招き入れ、急いでバスタオルを取ってくる。
 とにかく濡れたコートを脱がせて、髪を乾かさなければ。万一風邪でも引かれてしまったら、折角準備した明日を楽しんでもらえなくなってしまう。
 京一郎は一段低い位置にいる千家の頭の上からタオルを被せた。
「・・・こんな時間に、いったいどうしたんです?」
 黙って髪を拭かれている千家の目はどことなく虚ろで、京一郎は何か良くないことがあったのではと不安になった。
「またあの症状が出たんですか?左手は動きます?」
 千家に残る呪いの症状については、どんどん快方へ向かい、ここ最近はほとんど発症していないはずだった。しかし呪詛が完全に消えたという保証はなく、予断は禁物だ。
 返事がないのでそっと千家の左手に指を絡めると、握り返してきた。どうやらそちらの不調があるわけではないらしい。
 ほっと息を吐く。千家は少しだけ疲れたように微笑んで、京一郎の肩に顎を乗せた。
「・・・お前の顔が見たくなった。」
 明日会う約束をしているじゃないですか、と、京一郎は言えなかった。
 彼がこんな風に突然訪ねて来たことなど、これまで一度も無い。それに、千家の掠れた声には、どこか切羽詰まったような際どさが含まれていた。
 言葉だけ聞けば睦言のようでもあるが、そんな雰囲気でもない。
 京一郎は思った。
 これはまるで、普段弱みを見せず愚痴も言わない彼の、滅多に吐かない弱音のようだと。
「伊織先生、」
 微笑んでみせているけれど、本当はどんな気持ちでいるのだろう。怒っているのか、悲しいのか、悔しいのか、途方に暮れているのか。
・・・しかし訊いたところで、どうせ教えてなどくれないのだろうから。
 京一郎は、タオルごと千家の頭を抱き締めた。
「・・・冷えてるじゃないですか・・・」
「ん・・・」
 右腕で京一郎を抱き返して、千家は体重を掛けてくる。甘えるような仕草にどきりとするのも束の間、どんどん重みを預けてくる千家を京一郎は抱えきれなくなった。
「お、重い、あの伊織先生、倒れーーっ!」
 咄嗟に流し台の淵に手を掛けてずるずると座り込む。千家は構わずそのままのし掛かってくる。
「伊織先生ちょっと待って、」
「待てない。寒い。温めろ。」
 駄々っ子のように言って、タオルを被ったままの千家は京一郎の首元に唇を寄せた。
「っん、や、待って、・・・っ駄目」
「何が・・・?ふ」
 床に押し倒され、耳朶を甘噛みされて、京一郎は身を捩らせる。
「だ、ん!」
 首筋に触れる頬が冷たい。
「わか、分かりましたから!伊織先生、靴、脱いで・・・。」
 千家が不服そうにのそのそと起き上がり、玄関に座って靴紐を解いている間、京一郎は転げるように炬燵に戻り、書きかけのカードを引き出しにそっとしまった。

 コートをエアコン下のカーテンレールに掛け、千家には炬燵に当たるよう勧めて、京一郎はお茶を淹れる。
「とにかく、温かいの飲んでください。」
「お前が温めろと言った。」
 じとりと睨み、千家は茶碗を触ろうともしない。
「冷たい手で触られるのは嫌ですよ、私も冷えてしまうじゃないですか。」
 京一郎が文句を言いながら横に腰を下ろすと、背もたれ代わりになっているベッドに肩を押し付けられた。
「ちょっと・・・」
「どのみち、すぐに脱ぎたくなるほど熱くなる――」
 言いながら千家は、鎖骨の上から首筋にかけて唇を這わせる。
「ぁ、・・・ん、伊織、せ・・・」
 ぞくりと、体内を快感が走った。
 小さな怯えと期待に、京一郎の胸はどくどくと鳴り始める。
 縋るようにスーツの襟を掴んだ手を取り、千家は己の指を絡めた。冷やりとした感触につい手を引きそうになるのを、強く掴んで引き戻される。
「京一郎、」
 まだ湿り気を帯びた前髪が束になっていつも隠れている額を露わにし、妖しい表情に艶を添える。
 少し濡れて揺れる紅い瞳は、欲情に乗せて、遣る瀬ない何かをどうにかしてほしいと請い願っているようで・・・。
「いぉ――」
「京一郎・・・っ」
 吐息に混ぜて呼ぶと、千家は噛みつくように唇を重ねた。
 差し込まれた舌は、これまでしてきたような京一郎の官能を揺さぶるための愛撫とは違い、なにか言葉にできない感情をぶつけているかのように暴れまわる。
 そんなキスにも翻弄されて、京一郎の息は上がってゆく。
「・・・はっ・・・いぉ、ん」
 陰陽師を巻き込んだ一件が落ち着いて、連作の最後に千家が込めた想いを知ってから、しかし実はまだ一度も、そういうことをしたことはなかった。
 もちろん深いキスを交わすことはあるけれど、なぜかそれ以上に進んでいない。仄めかすようなことは何度も言われた。が、それだけだ。
 毎回、いい雰囲気の時に絶妙に何かしら邪魔が入るからかもしれない。一緒に暮らしていないから、そう頻繁に会えていないからかもしれない。
 けれど、さすがに京一郎は満足できなくなっている。同性同士がどう交わるかなどよく分かっているわけではないけれど、いつだって、キスの始まりに、期待してしまうのに。
 だから今回誕生祝いに千家を家へ招くことにしたのには、そういう意図もあってのことだった。
(今日、先生はどこまで・・・?)
 女々しいかもしれないが、できることなら初夜は記念となる日に、と思っていたのだが・・・。

 閉じていた目を開くと、千家は一度唇を離し、目を見つめながら京一郎の顎を伝う唾液をゆっくりと舐めた。自分の身体から出たものをごくりと飲み干す様子に、まるで食べられているような気になる。
 潤んだ目に映った時計は、あと十数分で日付が変わることを示していた。
(日が変わってしまえば、伊織先生の誕生日になるか・・・。)
 京一郎は震える息を吐き、千家のスーツのボタンを外した。
「・・・京一郎?」
 掠れた声に視線を上げると、千家は驚いたようにこちらを見ている。
(仕掛けたのはそっちなのに、いまさら何を驚いているんだか。)
 京一郎は紅い瞳を見つめながら千家の襟元に手を伸ばし、品の良い柄のネクタイを解く。こんなこと、したことがないから、胸がどきどきする。
「・・・伊織先生、今日は、・・・泊まっていくんでしょう?」
 シャツのボタンを外しながら、そっと訊く。
 先ほどまで無理矢理にでも犯しそうな勢いを孕んでいた千家の纏う雰囲気は、いつの間にか穏やかになっていた。
「どうした・・・。やけに、積極的だな。」
 甘い声に誘われて、京一郎は千家の唇に唇を押し当て、舌を出して舐めた。千家も舌で応じる。
「ふ・・・だって、・・・貴方はいつも、・・・」
「いつも、・・・なんだ。」
 露わになった胸板に手を這わす。先程、手は冷えていたけれど、滑らかな膚はしっとりと熱い。
「・・・私を煽るだけ煽って、放置するから・・・」
 唇を合わせたまま、探り当てた突起を指先で刺激する。
「お、まえ・・・」
 以前千家に服の上からされたことがあるから知っている。こうされると、疼いてしまうこと。
 そのまま首元に唇を寄せて這わせ、今し方されたように耳を甘噛みする。
「・・・ん・・・」
 千家の口から、甘い溜め息が漏れた。
「ねぇ、・・・伊織先生。」
「・・・なん、だ。」
 京一郎は千家の膝の上に乗り、子供にいい子いい子するように頭を撫でた。
 目を細めてこちらを見上げる瞳は変わらず整って美しいのに、今日はどこか頼りなくて、どこか隙があるようで、無性に身体の中が疼いてしまう。どうにかしてしまいたい。どうにかされてしまいたい。
 こちらの感情が伝染するのか、千家の瞳も妖しく揺れる。
 ずっとひとりきりで闘ってきた彼だって、たまには誰かに癒されたくなる日があっていいと、京一郎は思う。
 そして、その相手は、自分しかいないのだと。
「・・・伊織先生の、好きに、して。」
 京一郎の瞳は千家だけを映す。
 素直に自分が楽になろうと思っていいのに。何となれば、千家が良いなら、京一郎だって良いに決まっているのだから。
 息を飲んだ頬に手を触れ、時計を確認してからもう一言。
「今日は、特別な日、ですから。」
「・・・特別?」
 訝しげな千家の唇にまずはひとつ、祈るように、フレンチキス。
(貴方の辛さが和らぐよう、少しだけでもいいから、私が役に立てますように。)
「お誕生日、おめでとう、伊織先生。」
 そして驚いた顔に、今度はもっと強く願いながら、深く、甘く。
(貴方に喜びが訪れるよう、少しだけでもいいから、私が役に立てますように。)
「京一郎・・・」
 くちづけを解かないまま、千家は京一郎のシャツをたくし上げた。
 膚に触れる温かな手のひらに、熱い唇に、溺れそうになりながら、京一郎は考える。
 バースデーカードには、誓いを込めて、こう書こう。
――貴方がいつだって、幸せでありますように。

<了>   
  次の朝、仕事で千家さんが一旦おうちに帰っている隙に、京一郎は急いでケーキを焼くのであります。
  むむ。去年も言ったけど、もっとゆっくりじっくり書くべきですた(>_<;)あう。

NOVEL