高く、・・・高く。遥か、遠く。



 ふわりと瞼が上がる。
 宝石のような紅い瞳が月の光にきらめいて、私は酷く狼狽えた。
「!!・・・貴様、寝ていたのでは?!」
 特段驚いた様子もなく、気だるげな声が返ってくる。
「・・・なんだ、今のは。」
「いや、その・・・。そう、御婦人を口説く時は、どの様なものであるかと、・・・いや、そう、・・・ではなく、・・・」
 淡々とした彼の声音とは対照的に、私はしどろもどろになる。良い言い訳が思いつかない。
「寝惚けて私が女に見えたか。はたまた寝ている同期へ試みに口付けるのが趣味なのか。」
「そんな趣味はない!」
「・・・ふぅん。そもそも訓練中だというのに、・・・さてはお前、酔っているな。」
「そん!・・・そうかも、知れん・・・。」
 そんなわけあるか。やっと、やっと、巡り会えた今日、酒を飲んでいる暇などあろうか。
「何か思い悩む事があるたび、酒に救いを求めるのは不毛だ。のちのちに障るぞ。いい加減やめろ。」
「・・・そう、だ、な・・・。」
 私の悪癖を知っていたのか。
 これが始まったのは顔を合わさなくなって随分経ってからだから、私の近況を彼が知っていたこと、またそれを気遣われたことに、私は、少しだけ浮かれた。

* * * * *

 演習中、山野で隊からはぐれてしまった私は、小さな焚火の明かりに引かれて千家を見つけた。
 彼は、ひとりだった。私と同じくはぐれたのか、それとも抜け出してきたのかは分からない。
 お陰で助かった私だが、火を焚くとは自殺行為だと注意すると、彼はあっさり肯定して火を消し、横になった。
 横になるのも如何かと言うと、お前がいるから、と呟いて、それから千家はすぐに寝息を立て始めたのだ。

* * * * *

 最後に会話をしたのは、おそらく三年ほど前になる。
 それまでは、比較的良い友人としての関係があった。少なくとも私の中で、彼はかなり重要な位置を占めていた。向こうがどう思っていたかは、知らない。
 幼年学校に上がってすぐの頃は、よく放課後互いの家を行き来して、共に読書をしたり、議論を交わしたりしたものだった。しかし、しばらくすると付き合う友人の質が互いに異なってきて、会話の内容も学校の予習が主になり、そのうち気づいたら、どちらからともなく会うことがなくなっていた。
 それでもたまに、私は千家とよく待ち合わせをした学校の裏の屋外腰掛で、ひとりで本を読んだり宿題をしたりした。もしかしたら千家が来るかもしれない、そんな淡い期待を抱きながら、文字が見えなくなるまでがんばっていたこともある。しかし、約束もなくそこへ彼が現れることは、一度たりとも、無かった。

 士官学校へ上がる頃、千家の周りは常に彼に心酔した生徒が囲んでおり、それを良く思わない生徒は”千家親衛隊”などと呼んでいた。正直私もそれはあまり好ましく思わなかったため、尚のこと、彼との心理的な距離は離れていくようだった。
 といっても実のところは、あのように他意なく千家に近寄れる神職十四家を中心とした生徒たちに私は嫉妬し、また彼らとは親しく交わるのに私には声すら掛けてこない千家自身に対して、意固地になっていたに過ぎなかったのだが。

・・・それでも。
 私は学級が変わると、千家がどの組になるか気掛かりでそわそわし、そして自分と同じにならなかったことに落胆した。
 彼の組との合同授業のときは、少しでも近くに座るようにしたし、廊下ですれ違うときは、目が合わないかと気にしていた。
 軍歌を歌うときは、大勢の男声の野太く絡む中、張ると震える声を聞き分けようと耳を澄ました。
・・・結局私は、自ずからは何も行動を起こさず、けれど都合よく千家とまた親しく語り合える日が来ないかと、長いこと待ちわびていたのだ。

* * * * *

 目の前で無防備にも目を閉じた千家を、私は初め、ただぼんやりと眺めていた。
 こんなことは、昔にもあった。
 そう、例えば、互いの家で学校の課題をしているとき。
 千家は大抵、私より早く済ませて読書に耽るか、そうでなければ居眠りをしていたものだった。学校では寝姿など絶対見せなかったから、彼が私には気を許しているように感じて、誇らしく思ったものだ。私は少し遅れて課題を終えると、いつも決まってそんな彼の寝顔を見ていた。
 千家に速さで負けることについて、私は特に何も感じていなかった。もとより少しおっとりしているとは言われていたし、彼も、私より速く終えたからといって、得意げにすることもなければ、私を蔑むようなこともなかった。
 あの頃、まだどこか少女のような可憐さも備えていた彼の面差しは、数年のうちに涼やかに整った。私ですら見惚れるほどなのだ、縁談をと声を掛けられた家の娘はさぞや狂喜したのではないか。
 そんなことを考えていたら、ふと萌してしまったのだ。
 自分としてはその生涯最大の不注意だった。しかし千家といえば寝惚けたか酔ったかと受け取り、怒るでも気味悪がるでもなく、またこうして私に寝顔を晒している。
・・・他人の唇に触れるのは、初めてだった。
 が、結局このくちづけが彼になんら影響を及ぼさなかったことに、私の心はちり、と痛んだ。

 雲が出てきたらしい。月明かりが隠され、あたりは漆黒に包まれる。だが、少し目を閉じてからまた目を開くと、そんな闇の中でも多少の見分けはついた。
 寝返りを打つ無防備な背を見つめながら、今度は私も横になってみた。
「なぁ、伊織。」
 下の名で呼んでみる。久しく口にしていない、美しい名。
「なんだ。」
 逡巡なく返事があった。少し嬉しくなる。
「貴様、想い女でもあるのか。」
 久し振りにする話が、これか。心の中で己を罵倒する。
「何故?」
 千家は気に留める風もなく、返す。
「縁談を悉く断っているそうではないか。」
「耳敏いな。」
「心に決めた女がいるのか。」
 努めて平常を装って聞いた。もし、そうだ、と言われたら私は酷く動揺していただろう。
 しかし千家はこちらを向いたかと思うと、吐き棄てるように言った。
「お前、本気で言っているのか。付き合いはそこそこ長いというのに、こうもお目出度いとは。」
 千家の中で無かったことにされているのかもと思っていた過去の付き合いを認められたことに、私の胸は少しだけ弾み、そして何か見落としていたらしいことに、少ししぼんだ。
「どういう意味だ。」
「・・・先日、呪詛で血縁が死んだ。」
 彼は、感情を全く感じさせることのない、平坦な声で告げた。
「あ・・・・・」
「肉親も、もう間もないだろう。そんな人間が、女と添い子を成すことに何の意味がある。」
――千家男爵家は、恐ろしい決断をした。
 幼い日の父の言葉が耳に蘇る。
――長男の伊織くんを呪詛体に差し出すということは、御家の悉くを諦めるということ・・・
 あのときは、よく意味が分からなかった。
 それから半年ほどして再会した千家は体調が悪そうだったけれど、彼の父は快活だったし、だから私の父の言葉など悲観的に過ぎたのだと思い込んでいた。
「・・・・・・。」
「お前の、そういう顔・・・。不愉快だ。」
 この暗闇の中、私の表情が分かったのだろうか。千家は低く呟くと立ち上がった。
「ぁ、伊織!」
 思わずその手を掴む。
「離せ。」
「すまない。配慮が足らなかった。俺が悪い。心から謝る。」
 縋るように見上げる。千家は蔑むような視線をちらと向けてきた。暗くてよく分からないが、おそらく間違いない。
 それでも、そんな負の感情しかない瞳でも、私を僅かに映したらしいことに、やはり私は少しだけ浮かれてしまう。
「だから、お前のそういうところ、だ。」
「悪かった、伊織。だが貴様とこうして語らう機会など、次巡ってくるのはいつになるかも知れん。俺はこんなところで旧友である貴様との関係を壊したくない。」
「私はどうでもいい。」
「貴様は、そう、なのだろう、・・・な。」
「・・・・・・。」
 私は知っている。この氷のような友人が、本当は情に厚いこと。他人を寄せ付けなかった彼の周りに今、たくさん人間が寄ってくる本当の理由を。
「後生だと思って、――」
「ああ、うるさい。・・・分かった。」
 不本意そうに、荒っぽく、どし、と私の横に腰を下ろす千家。
 嘘をついたわけではない。謀ったわけでもない。しかし私は己の狡猾さに辟易としながらも、顔が綻ぶのを抑えられず、少し吐きそうになった。

「・・・だが、子を成すことはなくとも、貴様は生涯の伴侶が欲しいとすら思わんのか。」
 私はしつこく続ける。
「愚問だ。同じことを言わせるな。」
 うんざりしたような千家の声。分かっている。だが、訊きたいのだ。
「貴様と添うた女を、・・・その、・・・遺すに、忍びないと?」
 言いながら私の胸は苦しくなった。呪詛体は長く生きられない。それを口にするのは辛い。
 それでも、縁者が悉く死んだ後、寂しい思いが少しでも紛れるようにと、千家子爵は彼のため縁談を持ち込むのだろう。その心持ちたるや如何様かと考え、さらに私の胸中は苦く捩れた。
「さてな。見合いで添う女が真に私を愛するとも限らん。」
 千家は私の懊悩など気にする風もなく答える。
「では、女でなければ・・・?」
「・・・どういう意味だ。」
 つい訊いてしまった質問に、千家は不審げな顔をしたようだった。
「例えば、の話だ。・・・例えば、俺を伴侶に選んでも子は成せん。しかし、公私共に貴様の側近く居ることができる。」
 そう、かつて互いの邸を行き交ったように、近く。
 千家は黙って私を見つめた。
 彼から感じる視線はやがて静かなものになり、私はまた密かに動揺し始める。千家の柔らかい声が問う。
「何が言いたい。」
「いやだから、例えば、の話、だ・・・。」
 ふっ、と和らいだ息を吐くと、千家は子供を宥めすかすように言った。
「・・・お前の私に対して抱く感情は、アドレセンスによる錯誤でしかない。 少し経てば、気付くだろう。そんな事より昇進の心配でもしている方が、よほど有意義だ。」
 私の胸中は混乱を来たす。
「な、何を言っているのか分からん。」
「ふぅん?てっきりお前は、私に気があるのかと思ったのだが。」
 色を仄めかした甘い声にからかわれて、私は思わず、
「ふ、ふざけるな!」
・・・とは言ってみたが、・・・。
「そうだな。男と添うなど、それこそお前の過保護な執事が泣くだろう。」
 冗談だと言わんばかりにおどけた声が微笑む。
 肯定しないでくれ。私の心の裡を正しく読んでくれ。
「爺やは、・・・関係、ないだろう。」
「・・・・・・。」
 絞り出した私の言葉に、千家は無言を返した。

 途切れた会話をうまくつなぐ術を、私は持たない。もとより話が上手い方ではない。
 一方、昔は無口だった千家は、いつの間にか詭弁を弄することを誰より得意とするようになっていた。
「なぁ、伊織。」
 性懲りも無く私は呼び掛ける。
「・・・なんだ、まだ起きていたのか。」
 面倒臭そうに返ってくる、千家の声。
「先ほど貴様はアドレセンスによる錯誤と言ったが・・・」
「まだその話か。」
 呆れたように彼は溜息をつく。
 このときの私は、隊からはぐれて山野を彷徨ったことによる疲労と、実に三年ぶりに千家と話す機会を得られた興奮により、おかしくなっていたのだと思う。訊かないでは居られなかった。
「俺が、・・・その、・・・好きだと言ったら、どうする?・・・そのだから、・・・貴様の、こと、を・・・」
 千家は、しばらく応えなかった。
 虫の鳴く音と、たまに梟が寝惚けたように出す声、風が枝を揺らす音ばかりが聞こえて、千家はすでに何かしら言ったのではないのか、であればもう一度言ってくれと言うべきだろうか、などと私は考えた。
 しかし、多分に時間をかけて返された言葉は、私を落胆させるものだった。
「・・・私を抱きたいのか?」
「伊織!!」
 そういうものではない。私の感情はそういった欲望と切り離され、高潔で穢れなく、千家に注がれているのだ。少なくともあのとき、私はそう信じて疑わなかった。いま思えば寝ていた相手の唇を勝手に奪っておいて、都合のいいことだが。
「未来の伯爵様のご命令とあらば、断るわけにはゆかないだろうな。私の家の爵位では、到底太刀打ちできん。」
 階級の優劣を利用して命じれば、お前は奴隷のように従うと?
 泣きそうな気持ちになった。
「・・・何故、そんな風に、言うのだ・・・。」
「言ったはずだ、錯誤だ、と。」
 千家は繰り返す。
「錯誤でもいい!今この時、俺がお前のことを好いていると、そう言ったなら、・・・お前が、どう思うのか、知って、おきたい・・・。」
 錯誤は時を経て真になることもあろう。
「何のために?」
「・・・分からん。」
 言えるわけがなかった。錯誤ではないと、私はもうずっと前からお前に焦がれているなどとは。
 千家は少し、考えているようだった。
「・・・・・・。そうだな。正直に言って、私はお前のことをそこまで嫌いなわけではない。」
「多少は、嫌い、なのか・・・。」
 私の揚げ足取りを無視して、千家は続けた。
「かつてのお前の友情には、感謝しているところもある。特に呪詛体となって間もない頃、他人を避けていた私に近寄ってきた稀有な人間だったしな。」
 親に連れられて行った晩餐会で再会したときのことを思い出す。
 私は千家のことを当然覚えていたが、彼は私のことを記憶していないようだった。だから、やんわりと追い払われても、しつこく側に居座った。私の存在を、強く印象付けるために。
「あの頃は、お互いもっと純粋だった。」
「そう。そしてお前は未だ純で在り続けている。」
 千家が私のことをそんな風に思っているとは思わなかった。
「そうだろうか。」
「少なくとも私は、そう思っている。そして、お前のそういうところが、ゆくゆく私を許さないだろう。」
 どき、とした。
 折しも風が雲を追い払い、仄明るく現れた月が照らす千家の顔には、なにか不穏なもの、遠い未来の死相のようなものが浮かんでいるような気がした。
「何を、言っている。」
「近い将来、私とお前の道は、別たれる。」
「そんなことはない。国を思う気持ちは俺も貴様も変わらんだろう。」
 幼い日に語り合った、我々の、我が国の目指す未来は、いまも。だから、我々は今日、ここでまた巡り会えた。
「ああ、変わらないさ。だが、私の用いる手段を、お前の正義が許さない。」
「手段・・・?」
「いずれ、知るだろう。」
「伊織、貴様、何を考えている。」
 千家の瞳は、昏く燃えているようだった。
「さて、な。」
「我々は道を同じくしていると思っていたが、違うのか。」
「大きくは違わん。」
「なら何故、そんなことを言うのだ。・・・俺を突き放すような言い方をして、何が楽しいのだ。」
 私の声は、あたかも悲鳴のようだった。
「別に。楽しくはないな。」
「・・・・・・。」
 何やら我々の未来に暗雲が立ち込めるように思われ、私は頭を振った。
 話を変えよう。
 そうだ、私は千家にもうほとんど好きだと言ったようなものなのだ。この際はっきり回答を得ておかなければ。
「それで貴様は、俺の、・・・告白を、どう思うのだ。」
「ふぅ・・・存外しつこいな、お前も。」
 気怠げに視線を流され、私はどぎまぎする。
「貴!・・・様が、話をすり替えるからだ。」
「・・・・・・。・・・まぁ、そうだな。お前が私への興味を失って、どこぞの女の尻でも追うようになるまでは、付き合ってやってもいい。どうせさほど長くは無かろうから、暇潰しだ。そんな暇が、あればの話だが。」
 千家は頭の後ろで腕を組んで、目を閉じた。
「・・・つまり、貴様は、俺の好意を受け入れる、・・・ということか?」
 私の声は嬉しさのあまり、上擦って掠れた。
「まぁ、この場合そういうことに、なるのだろうな。」
 肯定を得てまだ確証が欲しい私は、浅ましくも続ける。
「・・・貴様も、好いているのか?・・・俺の、こと、を・・・。」
「さてな。」
「おい、貴様、ここまで言わせておいてはぐらかすのか。」
「そもそもが例え話ではないか。もしもの話に本気で答えるなど、馬鹿馬鹿しい。」
 千家は鼻で笑う。
「伊織・・・っ!」
 カッとなった私は、思いの儘に千家を抱き締めた。身じろぎすら出来ぬほど、きつく。
「っ!・・・館林、苦しい。」
「例えばではない。もしもではない。・・・俺は!」
「・・・それ以上、言うな。」
 千家が苦しそうに声を絞り出す。
「何故!」
「家族が泣くぞ。」
「構うものか!」
「お前に憧れている沢山の御婦人方が、悲しみのあまり命を絶つかもしれん。女が減ると、子が減る。子が減ると国力が弱まる。」
「詭弁だ!伊織、俺は!」
「私を手に入れて、どうする。」
 透き通った、風のような千家の囁きに、私の勢いはふっと萎えた。
「どう、などと・・・」
「例えば、だ。お前の気持ちに応えた結果、私が本気になってしまったとする。アドレセンスの錯誤のはずが、何時になってもお前の誠実を求める。一方お前はとっくに目が醒めていて、周りからは早く所帯を持てなどと急かされる。お前のことだ、自分から仕掛けただけに私を捨てることもできず、かといって縁談も断り切れず、妻のある身でずるずると私との関係を続ける。」
 千家の言葉は呪いのように、私の勢いをさらに減じようとする。屈しまいと私は声を張り上げた。
「そんなこと!」
「否、これがお前の未来だ。不毛に過ぎる。」
「俺は決して――」
「何も不自由に思うことのない身で、何を求める。不毛な未来を背負うのは、私ひとりで十分だ。」
 柔らかい声で囁きながら、千家は私の髪を撫でた。
 私は吃驚して、みっともなく後退った。
 それを気にするでもなく、千家は身体を起こして空を見上げる。
「さぁ、あと少しで夜も明ける。お前は少しでも休んだ方がいい。横になれ。」
 私が寝ている間見張ってくれるのかと思いきや、木に背を預けると、千家は目を閉じた。
「伊織・・・?」
 呼びかけるが、反応はない。
 近づいて、もう一度。
「伊織・・・」
 千家は動かない。もう、会話には応じないということらしい。
 髪の、千家が触れたところを、己の手でなぞる。
 急に何かがこみ上げてきて、私の瞳から零れ落ちた。
 千家は、私の気持ちを一方で肯定し、一方で否定した。
 私は嬉しくて、そして悲しくて・・・。
 伊織・・・
 震える声は、形を結ばない。
 見つめる先を照らす月は、高く、・・・高く。遥か、遠く。

 私は再び、了解を得ずに千家に口付けた。
 千家はもう、目を開かなかった――。

 横にあった気配が消えたことに気づいた私は飛び起きた。
 空が白み始めていた。
 少し先の木の陰に、千家がいる。同じ隊の者と話しているようだ。
 意外にもここは、千家の隊の近くだったのだろうか。
「いやぁ流石です!交代で探しておりましたけど、全く見つけられませんでしたよ。いったいどこに隠れていらしたんです?」
「何を言っている。私はずっと、すぐそこに居たさ。」
「嘘ですよ。だってそこ、崖になっているではありませんか。もう、ほんとに千家さんには適わないなぁ。」
 親しげに言葉を交わす上等兵が指さす先は、今まさに私の居る木の根元。崖などない。つまり、千家は一種の結界か何かを張っていたようで、今もそれは存在している。
 漏れ聞こえる会話から察するに、どうやら千家は隊の後輩と、子供の言う隠れ鬼のようなことをしていたらしい。訓練中にあるまじきことだが、敵を欺くにはまず味方からともいう。その練習だったのか。
・・・それとも、千家は私に会いに・・・・・・?
「じゃ、先に行っておりますから、すぐに追いついてくださいよ。千家さんが抜けてたことが見つかったら、僕らが教官殿に叱られてしまうのですから。では、軍曹殿ォ、失礼ィ致しますッ。」
 軽口を叩きながら敬礼し、後輩兵は走っていったようだ。
 千家がこちらを振り向く。空間が歪むのを感じた。結界を解いたのだろう。
 まだ薄暗い木立の中、佇む千家はなにやら神秘的で、どこか近寄りがたく感じた。
「開。」
 彼の口からそれを聞くことがあまりに長い間無かったため、私は名を呼ばれたのだと気付くのに随分と時間を要した。
「・・・私の唇は、呪いの味がしただろう。」
 微笑んだ千家の表情が、あまりにも儚げだったから、私は駆け寄って抱きしめたいと思った。そんなことはないと、お前へのくちづけは私を癒すただ一つの甘露であると、伝えたかった。
 しかし、そのような隙を私に与えることなく、彼は踵を返して自隊へ戻っていったのだった。

* * * * *

 あれ以来、千家と親しく言葉を交わす機会が訪れたことは、未だない。
 士官学校を卒業してからも所属する部隊は違っていたし、当然ながら担う役割も互いに乖離していった。
 私は畏れ多くも天司様のご寵愛を賜り、千家はその母君であらせられる昂后陛下からの寵を専らにしていた。尊いお方の下で働くことに変わりはなかったが、その向かう先は、千家があのとき予言したとおり、離れていくばかりだった。
 職務の都合上、千家と実務的な会話をする機会はある。しかし、あの夜の節度を超えた例え話に話が及ぶことはもちろん、親しみを込めて互いの名をを呼ぶことも、もはや無かった。

 千家の言った手段というのも、程なく知れた。
 千家や神職十四家の持つ異能と、私や私の隊が持つ異能は系統を同じくしており、当然協力することが務めのため国のためにも望ましいことは言うまでもなかったが、やはり彼の予言したとおり、私の正義は彼に諾うことを良しとできなかった。
 それを分かっていながら、千家は何度か私を口説きにやって来た。私は、彼の貝殻のような唇が、甘い声が紡ぐ熱弁にくらくらしながら、それでも必死に、考えを改めるよう訴えた。しかし、最終的にいつも、彼がこう言って会話は打ち切られるのだった。
「・・・まったく。強情だな、卿は。共に闘うことを期待してこうしてやって来たというのに。がっかりさせられる。」
 この言葉がどれほど私の心を抉るか、きっと千家は知っているのだ。私がどれほど傷つき、待ってくれ、行かないでくれ、と言いたいか、きっと知っている。
 部下の手前、そんな真似をできないことも。
 そしていつか、私が折れるのを待っている・・・。

 私はまた士官学校時代のように、三宅坂ですれ違う千家の後ろ姿を見つめることしかできず、もうきっと、千家とあの訓練の夜のように打ち解けることも無いだろうと半ば諦念を感じつつも、もしかしたら千家もどこかで同じように感じているのかもしれないなどと想像して己を慰めていた。

 そんな中、五本刀の頭領を追っている最中に出くわした書生姿の男を見て、私の直感は警報を鳴らした。
 この男は危険だ。千家が知ったら、興味を持ってしまう。
 何故なら、陽の力を持っている。しかも、陰の影響を糧として開花する力を。
 そして、千家の力を補完できる。おそらく使いようによっては、その陽の毒を以って千家の受ける呪いを癒せる。
・・・私がどんなに望んでも叶わないことを、あの男なら実現してしまう。いつかきっと、千家の心を持っていってしまう・・・。
 だから私は告げた。去れ、と。日常へ戻れ、と。
 書生はまだ擦れたところがなく、素直に言うことを聞きそうだった。
 私は瞳にできうる限りの慈愛と厳しさを込めて、書生を見た。
 書生は正義感に満ち満ちていたものの、私に対して悪い感情を持たなかったようだ。
 彼が謎の遊民らと姿を消した後、私は心の中で、もう二度と我々の前に現れるな、と呟いた。

 しかし、性懲りも無く書生は再び現れた。
 已む無く私は剣を取った。
 彼の剣筋はなかなかのもので、そのことはより一層私を焦らせた。
 そして、恐れていたとおり、その場に千家が現れた。
 彼の張った結界に弾かれた私は、中でいったい何が起こっているのか、気が気でなかった。
 そして、また同じように遊民が現れて場を圧倒し、書生を連れて行った。
 千家はすでに次の策を考えているらしく、慌てる素振りも見せず悠然と去っていった。

 それからしばらくして、千家は見せつけるように書生の腰を抱きながら出仕した。
 私は、恐れていたことが遂に起きてしまったことを悟った。

 そして、五本刀の頭領が殺された。
 千家一派によることは明々白々だったが、これに書生が関わっていたらしいことは意外だった。
 あの男は潔白そうだったから、さぞや千家を疎んでおろうと考え、私は千家の不在を狙って叛意を促した。しかしすでに千家の中に何かを見出したらしい書生は、すべてを肯うわけではないが、彼の許を離れる気もないと、はっきりと告げてきた。
 私はそれ以上、強く言うことはできなかった。部下の手前もあり、せめて、今後一切容赦しないと言い放つくらいしか・・・。
 何故なら。・・・何故なら結局のところ、私は己の希望を叶える為に何かしたわけでもなく、その為に何か伝えたわけでもないから。
 一方、千家に絡め取られたとはいえ、書生はその行動を含めて千家と共に在ることを選んだと、己の口で言ったのだ。
 私は、もうずっと、ずっと長い間、千家の側近く在りたいと願いながらも、自らそうしようとはして来なかった。それは、私のつまらない、矮小な矜持と、やはり取るに足らない悋気、そして年甲斐もなくいじけて拗ねた賎しい心が、素直に、無邪気に、彼に寄り添うことを阻んだからに他ならない。

 雷の鳴る雨の夜に、千家の使いとしてこの男――柊京一郎が私の邸に現れたときは、何事かと思った。有事かと身構えるより先に、長年の想い人を横から攫い彼の側に居座る憎い奴が何用だ、と。そしてそんな己を、誰より惨めだと思った。
 そんな私の心の裡も知らず、柊は健気にも己の職分を果たさんと言葉を尽くす。彼の口から千家の名が出るたび、私が苛立っているとも知らずに。
 そして、いくらしても私が諾と言わないと見るや、意を決したように科を作り始めた。
 こんな男が千家の横に居ると思うと、吐き気がした。
 そして、こう思った。
 私から千家を奪ったことへの断罪として、このまま殺すか辱めるかしてやろうか、と。
 そして、さらにこうも思った。
 そうではなく、私の中にも幾分かの大義を認めているらしいこの男を丸め込み、逆に千家から奪ってやる方が有効かも、と。
 そこで試しに柊を抱きしめ、耳元で名を囁くと、あっけなく悦んだ。
 私はたまらなく不快になり、こう言ってみた。
「これも、千家の指示か。」
 すると柊は酷く狼狽し始めた。
 やはり、と思った。
 それでも私は訊いた。千家を長年苦しめ惑わす彼のお方について、感じることはないかと。少なくとも、千家の苦痛を和らげる程度の役割は果たしてもらわねばならぬ。私の代わりに、彼の側近く居る人間の義務として。
 しかし、不敬だなどとして柊は無言を貫いた。おそらく、気づいているにもかかわらず。
 やはり。
 この男は、千家の横に居る器ではない。
 まったくもって釣り合わない。彼に見合うのは、私を於いて他にないのだ。

 柊の来訪以降、何か起こるだろうとは予想していた。
 しかし、急を狙って千家が襲撃してくるとは、さすがに思ってもいなかった。
 ちょうど邸には隊員が皆集まっている。私は全員に身を守ることを優先するよう伝え、各々異なる方向へ逃がした。
 最後に邸を出た私は、簡単に見つかった。
 だが、これが彼の意思でないことは分かっている。総ては、千家を呪詛体に選んだときから仕組まれていた。これはあのお方の意向であり、彼が逆らうこと叶わぬ命令なのだ。
 その証拠に、私に剣を向ける千家の表情といったら。
「館林開。御下命により貴様には死んでもらう。」
 その声の淋しげなことといったら。
 だから、刃を交わしながらも、私の心は乱れることなど、無い。
 木の陰から、柊がこちらを不安そうに覗いている。千家を助太刀するでもなく、むしろ私の安否を憂うかのごとく。
 だから、この男は駄目なのだ。
 私でなくては。
 千家の側には、私が居なくては。

「伊織。」

 剣戟の合間に名を呼んだ。
 千家は一瞬だけ、目を見開いた。
 ほら。やはり。
 私の頬は緩む。

 だがそのとき、神職十四家に斬られて赤く散る血と共に、あの男が切れ切れに呼んだのだ、同じ名を。
 千家の意識がほかに向いたことで、私の手元は、狂った。
 千家の刀を弾き飛ばし、袈裟懸けに彼の肉を絶つ。
 私は声を上げることすら忘れて、千家が血飛沫を上げながら後ろへ倒れこむのを見ていた。

 何が起こったのだろう。
 何故、千家は血を流している。
 何故、絶望した顔をしている。
 何故、私でない誰かを探している・・・。

「伊・・・織・・・・・・」
 血濡れた刀を手に立ち尽くしていた私は、そして背に重く鋭い痛みが走るのを感じた。
 ゆっくりと、地が近づいてくる。
 顔が、冷たい土に当たる。

 伊織。
 何処にいる。
 私を呼んでくれ。
 私を見つけてくれ。
 私に微笑んでくれ。
 伊織・・・・・・・・・。

 照らす月は、高く、・・・・・・。

* * * * *

 館林の銃声を聞いて勝利を確信した伊勢兄弟は、上官の姿を探した。彼らが倒した敵が最後の残りだったようで、躯は落ちていても殺気を感じることはなく、戦闘が終息したのだと悟る。
「兄様いた!あそこに館林様が!!」
「!!・・・・・・薫、・・・きっともう、・・・・・・。」
「え・・・え・・・?館林様・・・っ・・・・・・厭だっ・・・たて――!」
「・・・?どうした、薫。」
「・・・・・・どうして・・・」
「!」
「なんで、館林様・・・千家を、抱いてるの・・・?」
「・・・薫、館林様は・・・」
「なんで?!なんで、銃で、・・・自分の頭を・・・」
「・・・弾が千家の額まで貫通している・・・。いったい、館林様は何を・・・」

 敬愛してきたよすがを喪った若い二人の将校は、なきがらを前に立ち尽くす。
 雛鳥を残して突然去っていった上官は、闇色の男を抱いて、微笑んでいた。まるで、生き別れた半身と千歳を越えて巡り会えたかのごとく。

* * * * *

 まだ、己に意識があったのかと驚く。
 とっくに死んだのだと思っていた。
 同じように、千家もまだ、息があるようだった。
 戦闘の最中、這いずる私に気付く者はいない。
 私は千家に近づき、その身体を抱き寄せた。
 失血により、もはや視力を失い掛けている千家は、それでも私であることを察したらしい。
 なにか口を動かしているようだが、吐息すら幽かで聴き取ることができない。或いは、私の聴力がやられているだけなのかもしれないが。
「伊織。」
 聞こえているか、わからない。けれど、私は千家の耳に唇を寄せて囁く。
「・・・伊織。これからは、ずっと、側に・・・。」
 そして千家の頭を震える左手でしっかり抱く。
 その額に口付けて、頬を重ねる。
 そのまま私は己の後頭部に銃口を当て、右の指で引き鉄を引いた。

 月は照らす。
 高く、・・・高く。――・・・遥か、遠く。


  館林さんは若いころ、ちょっと粋がって一人称「俺」と言ってた時期がありそうに思う。「俺と貴様」というやつです。
  2015年の公式千家誕生日SSにより、千家さんのお母様とお姉様はどうも彼が14歳になる前に亡くなったようであることが判明しましたが、ここではもっと長生きした(せめて十代後半くらいまで)という設定でお願いしますm(_ _)m
  これ書いてたら、伊織さんが好きすぎて頭がおかしくなりそうになりました。そして館林さんが少し好きになりました。病んでるし勘違いしてるけど。

NOVEL