1年後に、またここで。



前略
 梅雨明けが待ち遠しいこの頃、お兄様にはご壮健のこととお慶び申し上げます。
 千家様のお家に入られて、お養父上様の跡をお継ぎになり、御国の為にお働きであることに想いを馳せますと、櫻子はお兄様の妹であることを心より誇らしく感じます。

(中略)

 差し出がましいことを承知で申し上げますが、お兄様はこのところ、ひときわご無理をなさっているのではないかと心配申し上げております。
 私はお養父上様のお顔も、お養父上様とご一緒にいらっしゃるお兄様のお姿も、拝見したことはございませんが、お養父上様の亡き後のお兄様は、何時でも、喪われたお哀しみの中にいらっしゃるようにしか見えません。
 そのお哀しみを思い出されることを恐れて、お務めに厳しく励んでいらっしゃるように思われるのです。
 ネエお兄様、七夕の日が近いことはご存知でいらっしゃるかしら。
 渡ることのできない大きな大きな河も、年に一度だけ、牽牛と織女を引き合わすことを許すといいます。
 私は理を侵すことをお勧めするわけではございませんが、少しでも、お兄様のお気持ちが安らかなることをお祈りして、このお手紙を送ります。
かしこ
櫻子より
京一郎お兄様へ


 ――まったく。
 櫻子の鋭さにはいつだってぎくりとさせられる。
 喪われたお哀しみ、とは、いったい何を指しているのやら。

 私は溜息をつき、左手袋を外す。
 現れるのは、右手より少しだけ大きく細長い、肌理細やかな白い手先。
 いつもどおり、その指ひとつひとつに唇を落とし、私はゆっくりと愛撫する。

「櫻子にも困ったものです。どうしてか知らないけれど、こちらの様子を見てきたように知っている。密偵でも放っているのかな。案外、彼女も何かしら異能を持っていたりするのかも。」

 左手は応えない。

「ねえ、伊織。たまには何か言ってくれてもいいんじゃないですか?ずっと黙っていられると、私は退屈なんだけど。」

 左手に指弾きを食らわす。
「いてっ」

 思いのほか強くやってしまった。
 弾かれたところが赤く腫れてくる。

「あぁ、あぁ。・・・まったく。」

 赤い膚に口付け、強く吸ってやる。
 伊織はよく、私の膚に何かしらの傷を見つけては、そうしたものだ。
 ――私の半身であるお前に傷を与えていいのは、私を措いて他はない。
 意味不明だ。
 大切に思うなら、傷などつけなければいい。
 傷を見つけたら、早く治るように薬をつけておくか、そっとしておくのが優しさだろう。

「優しさ、ね・・・」

 あの人に優しさを期待したことなど、多分ほとんどなかった。
 でも今になって思えば、私を呼ぶときの伊織の声は、私の知る中でこの上なく優しかったように思う。
 優しさが具体的な行動に現れたのは、あえて言えば最期の時、なのだろうか。

「でもね。あのときの貴方の行動が優しいなんて、私はこれっぽっちも思っていませんよ。」

 あのまま、私の手を強く掴んで一緒に落ちていったのだっら、どんなに良かっただろう。
 伊織と二人で黄泉への逃避行、悪くない。
 私は運命をあの男と共にすると誓ったのだ。
 それが、なぜ、その”左手”と共にしなければならない。

「貴方のやり方は、いつだって狡猾だ。私が貴方を継ぐことを見越して、貴方は左手を残したんでしょう。ミサキさんの助力まで見越していたのかな。本当に、まったく。」

 溜息を吐いてから、改めて櫻子からの手紙を眺める。
 読みやすい白地に紫陽花の散る柄の和紙、黒色の便箋に包まれて。
 私が帝都に来たばかりの頃、初めて訪れた浅草の小間物屋で購入したものだ。妹は、私からの贈り物を少しずつ大切に使ってくれている。
 そういえば、もうすぐ七夕と書いてあったか。

「今日は、・・・7月7日だったのか。」

 無理やり与えられた有給休暇。
 実際のところ通常の休暇もほとんど取っていない。
 うっかり今朝も軍服を着ようとして、使用人に止められたのだっけ。休みだとわかって二度寝した後だったから、日の感覚がすっかりおかしくなってしまった。

 それより、理を侵すことをお勧めするわけではないとはどういうことだ。
 いったい櫻子は、私になにを伝えようとしている?

「・・・まさか、また反魂を試すよう言っている・・・わけは無いな。」

 当然だ。何も知らない櫻子が、そのような事を考えつくわけがない。
 ・・・と思いたかったが、不思議としかしそれもあり得るかも、と思ったのはなぜだろう。
 以前、伊織を甦らせようと、反魂術を試してみたことがあったが、うまくいかなかった。失敗しておかしなものが出てきてしまったわけではない。何も起こらなかったのだ。

 起き出して妹の手紙を読んだのが正午過ぎ。まだ手持ち無沙汰な休日は半日も残っている。
 昔は暇さえあれば読書に耽っていたものだ。伊織の養子となりすべての資産を受け継いだ今、過去の私ならヨダレを垂らして欲しがる状況が手に入っているわけだが、どうしてか、伊織が死んでからの私はこのささやかな趣味を楽しむことができなくなってしまった。
 唯一とも言えるかもしれない養父と共通の楽しみであり、そして私の片腕は彼そのものであるのだから、寧ろもっと知的興味の幅は広がってもよいものであろうに。

「養父、か。貴方のことをそう呼ぶのには、未だに違和感を禁じ得ないな。だって、私と貴方の関係は、そういうものではなかったのだから。」

 血の交わりに拠る契約。
 そして、あのときの私は認めようとしていなかったけれど、互いに求め合い恋い焦がれる間柄。

 そう。
 私の生涯の敵であり、今や法律上私の養父であり、私の一部となっている私の半身を、私は、未だに求め続けている。
 伊織を恋う気持ちは止まることを知らず、いつだって私の心を熱くたぎらせ、苦しめて、潤す。

 ふと、思いついた。
 今日は品川沖へ向かう道を行ってみようか。
 伊織との今生の別れとなったあの日の、サイドカァに乗せられての逃避行。
 楽しむ余裕などなかったが、彼とのツーリングは後にも先にもあの一度だけだった。
 乗り捨てた軍用二輪は、あとで回収して確か今も車庫にあるはずだ。

 滅多に近づかない車庫に行くと、使用人が目を丸くして何か用かと聞いてきた。
 ツェンダップに乗りたいと言うと、整備はしてあるが、と語尾を濁した。日頃二輪になど乗らない私に扱えるのかと、心配したのだろう。
 私は笑ってこう応えた。

「日頃、悪計を企むくらいしかやる事のなかった養父が乗れたんです。私にだって出来ますよ。」

 乗ってみると、サイドカァのお陰でなんとか安定を保つ事が出来たが、これが無かったらやはり使用人の前で恥をかくことになっただろうと思った。
 それにしても、風を切って走るのは気持ちがいい。
 愛しい半身の死んだ場所へ向かうというのに、梅雨の合間のこの晴天のように、私の心は不思議と晴れやかだった。

 件の崖は登ることも当然困難な険しい岩肌で、その真下は海だ。少し行くと狭い砂浜があって、崖の下へ近づくことができる。あのとき伊織は、さらにもう少し先のなだらかな傾斜を下ろうと考えていたのだろう。
 これまで私は部下を連れ立って何度もここを訪れ、伊織を探したが、結局遺体どころか軍服の欠片すら見つけることが出来なかった。
 伊織のことだからどこかで生きているかも、とも思いたかったが、腕を斬った失血により助かる見込みは無かったし、生きているのなら戻ってきて再び自ら作戦の指揮を執るに違いない。私に任せきりになっている時点で、彼はすでにこの世にはいないのだ。間違いなく。

「ここに来るのは、久しぶりだな。」

 二輪を降りて砂浜の端まで行くと、ごつごつした岩場が現れる。飛び石のように水面からかろうじて顔を出す岩を飛びながら渡っていると、まるで波の上を歩いているような気になる。
 そして、その足場もなくなるひときわ影の多い場所を見上げると、あの崖がそびえ立つ。伊織が最後に私の名を呼んで、消えた場所。

「・・・あれ?」

 これまでここに来た時は、この先に進むことができなかった。
 しかし今日は、潮の加減が違うのか、まだ先に足場になりそうな岩が波の間に見え隠れしている。
 これ以上先へ行ってどうする、と思わなくもなかったが、興味をそそられて私は少しずつ岩の上を進んだ。波に誘われるように、岩に導かれるように。
 気づいたら、目の前に小さな洞窟が姿を現していた。
 こんなところ、あっただろうか。いや、以前はここまで来られなかったのだから、気づきようもない。
 いつだって波は荒く、小舟を出して捜索することすらできなかった。今日のように生身で岩を渡ってこんなところまで来られるほど、ここの海は穏やかでないはず。
 まさに、どういった風の吹き回しだろう。
 そして岩穴が、中へ入れとばかりに口を開けている。

「さて、どうしたものかな。」

 とはいえ、進むしかない。
 退屈さは幾分薄れてきているが、まだ私は時間をつぶさねばならないのだ。

 洞窟の中は海面よりやや高くなっているらしく、多少の水溜りができている程度。少し屈めば十分このまま歩けそうだ。そしてそこまで奥深いわけでもなく、中は比較的明るい。
 もしかして奥には何か祀ってあるのかしらと少し期待してみたが、それはなかった。
 代わりに、なにか光るものが見えたので手を伸ばしてみる。
 私の、いや、伊織の、左手が掴んだものは、小さな鉄くず。
 塩水でずいぶん錆びてしまっているが、なんだか見覚えがあるような形だ。

「――え・・・?」

 丸い形に、細い銀線で表すのは。

「まさか・・・」

 条件反射的に、涙が零れた。

 これはきっと、伊織の徽章に違いない。胸元にいつも光っていた、メダル。
 あれだけ探しても見つけられなかった、伊織の生きた、欠片。
 なぜ、いま。

「伊織・・・、伊織・・・っ」

 反魂術に反応のなかった伊織の魂は、すでに安らかに冥界へ辿り着いているのだろうか。
 それとも、どこか逝く当てもなく彷徨っているのだろうか。
 もしそうなら、私の傍に戻ってきてほしい。
 言葉をくれなくてもいい。見えなくてもいい。
 貴方を感じられるのなら、その名残だけでも、私の傍へ。


「ふふ。私も随分と愛されたものだ。」

 ああ。久しぶりに聞こえる、幻聴。

「ふぅん。お前はそうやって私の声を思い返しては、自身を癒していたのだな。そうまでするなら、もっと早く素直に言えばよかったものを。私が欲しい、と。」

 そりゃあ、今となってはそう思いますよ。でもね、貴方は私がそう簡単に素直になれないくらい、随分と酷くしてくれたんです。反省してください。

「そう言う割には、私の左手にも意地悪をしているようではないか。」

 貴方の影響です。反省してください。

「ところで京一郎。なぜずっと目を閉じている。」

 え・・・?

「目を開けて、こちらを見ろ。」

 私の中の伊織は、今までこんなに積極的に会話をしてくれることはなかった。何故なら、これは結局のところ私の脳が作り出す都合のいい妄想だから。
 しかし、今私は小さな混乱の中にいる。伊織が、私に目を開けろと言うのだ。目を開けたら、現実が見えてしまう。伊織が、いなくなってしまう。

「いなくならない。いいから、安心してこちらを見てみろ。」

 いつの間にか、私は洞窟の中に座り込んで目を閉じていた。左手には、先ほどの錆びたメダルを握りしめて。
 脳内の伊織が目を開けろとうるさいから、渋々目を開く。

「・・・随分、無理をしているのだな。」

 目を開けても、伊織の声が消えない。
「京一郎、こちらだ。下だ。」
「え?」
 声に誘われて下を見る。
「・・・い・・おり・・・?」
「久しぶりだな。」
 ・・・伊織が、いた。
 水溜りの中に、あの彫像めいた美貌を湛えて微笑む伊織の姿が見える。はっきりと。
 私の姿が反射しているのではない。なぜなら左腕が、途中からないのだ。血が滴ってはいないが、包帯を巻いてもいない。私の記憶の中の伊織はいつだって五体満足だから、幻覚にしてはあまりによくできている。
「伊織、貴方はいったい・・・」
「察しのとおり。私はもちろん死んだ。しかし、死霊ではない。私は現世に未練を残していないからな。」
「どういうことです。今まで貴方に会うため、色々な方法を試した。だけど、反魂術で貴方の魂を呼び戻すことはおろか、貴方の遺品を探し出すことすらできなかったんですよ。」
「遺品については知らんが、反魂は私が拒絶したのだから仕方ない。私は実際こちらで忙しい。お前に構ってやれる余裕がない。」
「そんな、酷いよ・・・貴方がするはずだった諸々の大役を私に押し付けて。貴方の左手があるとはいえ、私がどんなに苦労しているか分かっているんでしょう。そんなに冥界は楽しいですか。」
「そう怒るな。ふふ。」
 伊織の右手が伸びてきて、私の髪に触れた。指先は頬に移動し、そして唇をくすぐる。懐かしい、ひやりとした感触。変わらない、伊織のにおい。
「伊織・・・」
「髪の長いお前も、新鮮だな。」
「なら、貴方は髪を切ってみますか?」
「悪くない。」
 他愛もない会話に、くすくすと笑う。何でもっと早く、こうならなかったのだろう。
「伊織、会えて嬉しい。」
「私もだ。」
「とても嬉しい。もう、死んでもいいかも。」
「私としては、天命を全うしてからこちらへ来てほしいものだ。」
「元々は貴方の天命でしょう。」
「我々の、だ。それに、厳密には現世だけでは終わらない。」
「それは、どういう?」
「私は今、根の路にいる。」
「え?なら、根の路に行けば会えるんですか?」
「それは違う。いま冥界と現世の間が不安定になってきている。その要因となるものが、冥界から押し寄せてきていて、私はここでそれらを斬っている。忙しいといったのはそのことだ。」
「伊織が?ひとりで?」
「いや、館林ほかお前の見知っている者どももいるな。生前ある程度異能の強かった者で、現世を守りたいという強い意志のある魂は、ここで闘っている。」
 正直、面白くない。私は伊織に取り残されてずっと、ひとりで必死にやってきたというのに。
「じゃあ、貴方は寂しさなんて感じている暇はないんだ。」
「妬いているのか。」
「館林少佐は幼馴染なんでしょう。仲直りして楽しく一緒にいるんだ。」
「京一郎、我々は敵の相手に忙しくて、お喋りしている暇などないのだぞ。」
「へぇぇ。助け合って、仲睦まじく根の路に留まっているわけですか。」
「・・・ふふっ」
「浮気者に、笑う資格なんてない!」
「ふふふっ」
「馬鹿伊織!」
「あっはっはっ」
 心底面白そうに笑っている。こんな伊織は、見たことがない。さすがに私の脳もこんな幻想を作り出すことはできないだろう。いったいどうなっているのだろうか。

「それは、お前の妹御の力のせいだな。」
 伊織が涙を拭きながら、信じられないことを口にした。
「櫻子の?」
「そうだ。お前の妹は、異能者だ。」
「・・・え?」
「お前の、柊の家は、女が異能を持つ家系なのだ。そして、例に漏れず妹もそれを受け継いでいる。」
「そんな、聞いたことがない。」
「あの破魔の刀が、その証拠だ。あんなもの、関係のない家にあるはずがない。」
「でも、櫻子が異能を持っているとして、なぜいま伊織が私の前に現れるんです?」
「京一郎、妹の手紙を持っているな。」
 言われて、はっとした。確かに、邸を出る際、なんとなくあの手紙も鞄に入れた。
 理を侵すというのは、死んだ伊織に会うということだったのか。
「通常であれば、私はお前と会うことはない。反魂には応じないからな。しかし、その手紙にはお前の妹の力が祈りとともに込められている。反魂とは違う形で、私は今、お前の前に姿を現すことができたというわけだ。」
「なら、櫻子の力を借りれば、いつでも貴方に会えるんですね。」
「いや。そう毎回使えるような力ではない。それに、おそらくお前の見つけた私のメダルと、この場所が依代になっているのだろう。ここは年に一度だけ海が凪ぎ、潮が引いて人が通れるようになるから、次に会えるとしたら、1年後だな。私の魂が根の路で消滅していなかったら、だが。」
「そう・・・ですか・・・。」
 やはり、死んでしまった者に会うことなど、そうできることではないのだ。当然分かってはいたことだが、束の間の期待に舞い上がった私はがっかりした。
「京一郎。そんなに私に会いたいか。」
 伊織は目を細めて、長く伸びた私の髪を梳きながら、親指で頬を撫でた。
「会いたい・・・。会えなくて、寂しくて、切なくて、いつも苦しい・・・」
 貴方の左手だけでは、足りない。
「京一郎。」
 伊織の甘い声が、心に沁み渡る。
「牽牛と織女は、年に一度天の川を渡って逢引をするというが、お前の妹が橋渡しをしてくれるのなら、お前は私との逢引のため、また来年ここへ来るか?」
 伊織の右手が、私の右手を握る。
「伊織は、来てくれる?」
 私は紅い瞳を覗き込む。
「私も、お前に逢いたい。」
 伊織は穏やかに微笑んだ。
 私は水の中に手を入れて、伊織の顔をすくい上げる。
「伊織・・・、貴方が恋しい。」
 零れ落ちないように、口付けた。懐かしい舌が私を翻弄する。
 私は伊織を求めて水の中へ深く手を入れる。

 波のように激しい抱擁は、少しずつ透明になって、いつしか消えていた。


 気づくと、陽は傾き、潮が満ち始めてきていた。
 私は急いで洞窟を出て、波の下に見える岩を必死に蹴り、なんとか溺れる前に浜辺の二輪へ辿り着くことができた。
 行きはよいよいとはよく言ったもので、帰りの道中は居眠りをしそうになりながら二輪を操り、やっとのことで邸へ戻った。使用人からは、もう少し練習をなさるがよかろうと言われた。そんな暇は、巡ってきそうにないが。

 職務の合間を縫って、櫻子には礼の手紙を書いた。
 伊織とのことをどこまで知っているのかわからないが、また1年後、力を貸してくれたらうれしいと伝えた。

 洞窟で見つけたメダルは、失くさないよう、邸の机の引き出しにしまってある。
 次に取り出すのは1年後になるだろう。

「それまでは、せいぜい優しくしてあげますよ。」

 私はまた、左手に口付ける。
 熱い想いと、喪った哀しみと、1年後への期待を込めて。

  七夕の日に思い立って書いてみたら、次の日になってましたというオチ。左手エンドは、何度やってもボロ泣きしちゃいますな。

NOVEL