緑の城で 前篇



 小鳥のさえずりが聞こえる。
 カァテンの隙間から細く差し込む朝陽が目覚めを促す。
 変わらない朝。
 昨日も遅くまで書類に目を通していたから、ぎりぎりまで寝かせておいてあげよう。
 いつものようにそっと、絡む腕を持ち上げようとして、京一郎は違和感に気づいた。
「え・・・?」
 あのずっしりとした重さが、ない。
 よく見ると、腕が骨のように細い。
(まさか、呪詛が・・・!?)
「伊織!」
 布団を持ち上げて、ぎょっとした。
 千家が、いない。
 その代わり、年の頃十ばかりと思われる少年が、京一郎の身体に腕を絡ませて眠っていた。千家のものと思われる寝間着の中に、ちんまりと収まりながら。
「・・・誰、だ・・・?」
「・・・ん・・・」
 ざわつきに覚醒したのだろうか。
 少年はうるさそうに枕へ顔を押し付ける。
(伊織の、親戚、とか・・・?)
 誰か来るなど、聞いていない。そもそも、千家が親戚の相手をするというのが想像できない。しかも年端もいかない子供が独りで、あの千家伊織の寝室に忍び込むなど、まずもってあり得ない。
 が、とにかく、本人に確認しないうちはどうにも仕方がない。寝台から出て辺りを見回すが、気配は感じるのに千家の姿がどこにもないのはいったいどうしたことか。
「・・・なんだ、騒々しい。」
 顔を上げず、篭った声で少年が眠そうに呟く。子供のくせに、ふてぶてしい。
「起きているのかい?」
「もう少し・・・」
 ふあ、と欠伸をしながら、少年はごろんと猫のように丸くなる。大きな寝間着がずれて、肩がはみ出した。
 あどけない表情は、愛らしいことこの上ない。肩の上で禿に揃えた黒髪は柔らかそうだ。
 京一郎は妹の小さかった頃を思い出し、無意識のうちに手を伸ばして頭を撫でた。
「ふふ」
 少年はくすぐったそうに小さく笑って、ふんわりと瞼を上げた。
 薄暗がりの中、ガラスのような紅い目が、朝陽を受けて仄かに光る。引き込まれそうな瞳は、やはり千家の血縁に違いないだろう。
「なにやら、今日はお前がやたら大きく見えるな。」
 不思議なことを呟いて、両手を伸ばしてくる。思わずその手を取ると、くい、と引いて額に口付けてきた。
(随分と、西洋風・・・なのかな?)
 海の向こうには、挨拶代わりに口付けを行う国があるという。確か、千家が好んで読む書物の国、仏蘭西もそうだったような。
「君は、千家のお家の子なのかい?」
 訊くと、少年は目をぱちくりとさせた。
「何を言っている。うちの当主は私以外に無いだろう。」
「その歳で当主?お父上やお母上は?」
 少年は不審げな表情で京一郎から手を離した。
「どうしたんだ。お前、今日はおかしいぞ。」
「今日は、・・・って、私は君に会うのは初めてだと思うんだけど。」
 少年の表情が険しくなる。険のある瞳が青みを帯びるのも、千家に似ている。
「いつ、この部屋に入ってきたんだい?ここのお家の主である、千家伊織子爵にはご挨拶した?ちょっと今、姿が見当たらないけれど。」
「お前、・・・大丈夫か?」
 今度は少し間の抜けたような顔をして、四つん這いで近寄ってくる。どうもおかしな子供だ。
 しかし、先ほどからの長幼の序を弁えない物言いには、少し厳しく言っておかねばならないだろう。京一郎は屈んで少年に目線を合わせた。
「君ね。さっきから、年長者をお前、なんて呼ぶのは良くないよ。私は柊京一郎だ。君は?」
 少年は一瞬くわ、と目を見開いた。ブチ、という音が聞こえたような・・・。そしてすぐ表情を消すと、その愛らしい目を細めて低く唸った――
「・・・長幼の序を弁えていないのはどちらだ。私を愚弄するのも、度がすぎると仕置きが必要になろう。」
が、――
「なぁ、京一郎。久し振りに、手酷くされたくなったか。」
――と言ったところで、少年がいくら低い声を出してもたかが知れている。一生懸命、頑張って、威嚇の練習でもしているようにしか見えない。
「あっはは!なんだいそれ。伊織の真似?確かに特徴は掴んでいるけれど、彼の空恐ろしさを真似るには、まだまだ修行が足らないね。っふふふ。・・・はぁ。可愛いなあ。」
 なにやら愛おしさすら込み上げてきて、禿の頭をまた撫でる。
「・・・っふ・・・」
「んん?」
「・・・っざけるのもいい加減に、しろっ!!」
 少年はついに堪忍袋の尾が切れたといった体で、京一郎の手を乱暴に跳ね除けると、寝台から降りようとした。
「あ危ない!」
 が、床に着こうとした足は空を蹴り、寝間着の裾を巻き込む。京一郎は床に転がる寸でのところで少年を抱き留めた。
「もう。この寝台は主人に合わせて背が高いんだから、暴れると危ないよ。足、挫いてない?」
 京一郎の腕の中で大きな寝間着に埋もれた少年は、信じられないという表情で黙り込む。
「ほら、もう大丈夫。軽く湯を浴びて、朝食にしよう。そのうち、千家子爵も戻ってくるだろうから。」
「京一郎・・・」
「こーら。"さん"をつけなさい。」
「いったい、何が起きている・・・?」
 少年は不安そうに両手を、自身の身体を見て、眉を曇らす。
「ん?何って、あ!まだ君の名を聞いていなかったね。ちゃんと教えてくれるかい?」
「・・・私だ、京一郎・・・。」
「は?」
「・・・お前は、己の半身も忘れたのか。」
 まじまじと、少年を見つめる。
 京一郎の半身、というと千家以外に思い当たる人間がいない。確かにこの少年は、以前アルバムで見た幼い日の千家に瓜二つではある。
 よくよく思い出せば、呪詛の影響で千家の家系はほぼ全滅しているに等しく、こんな小さな子供がいるとは考えにくい。
 千家の気配自体は、起きたときからすぐ近くに感じている。
 しかし、そんな。
「いお・・・へ・・・?」
 まさか、そんな。
「・・・えっ・・・伊織、・・・・・・なんですか?」
「・・・だからさっきからそう言っている。」
「えぇ・・・えええ?!」

 とにかく、状況を整理せねばなるまい。
 使用人に、千家は今日出仕しないと伝え、食事も部屋に運ばせるようにした。
 寝室の奥に千家であると言い張る少年を押し込み、証拠は?と聞くと、死霊兵作戦のこと、これからの進軍計画、内閣との折衝の進行具合など、まず千家しか知り得ないことをすらすらと述べ立てた。ついでに閨での京一郎の弱点まで挙げ始めたので、いよいよ信じざるを得なくなった。
「でも、何故こんなことに・・・?」
 朝餉を扉口で受け取り、できるだけ扉からも窓からも遠い場所へテェブルを運ぶと、京一郎は千家を隠すように座った。
「考えられるのは、呪詛くらしいかないな。現在摂政を務めていらっしゃる天子様が赤子になってしまえば、実質的に立ち動けるお方が居なくなる。昴后陛下にしても同じだ。」
「では、貴方の身体が呪詛を完全に取り込むまで、この状況は続く、ということですか。」
「だろうな。しかし、この身体はあまりに幼い。恐らく呪詛体となる儀式を受けて間もない頃だろうから、」
「通常と同じようにはゆかない・・・」
「あぁ。元に戻るには少し、時間がかかるかもしれん。」
 ふぅ、と溜息をつく。
 いくら千家とはいえ、子供の姿のまま出仕するわけにはいかない。ただでさえ敵の多い身なのだ。これを好機と暗殺を企む者が現れてもおかしくない。
「貴方の今の状況については、隠しておいた方がよさそうですね。」
「そうだな。だが幸い、頭だけは退化せずに済んだらしい。代理で出られる会議には神職十四家を出席させて結果はお前が聞き、決裁の必要なものはこの部屋で署名すれば事足りよう。まぁ、物忌みと思ってのんびり羽根を伸ばすとするか。」
「私はどうしましょう?」
「これまでどおり、何食わぬ顔で出仕すればいい。」
「分かりました。では、貴方の昔の服を探してきます。ぶかぶかのシャツを着せるわけにもいかないですからね。それが終わってから、遅めに出掛けることにします。」

 蔵のように広い物置には、使わなくなった家具や箪笥などが所狭しと置かれている。
 この邸の食堂には千家と京一郎が食事するのに必要最低限の家具だけがあるが、ここにはそれよりずっと大きなテェブルや凝った造りの椅子が何脚も、埃が着かないよう布を被せて置いてあった。
(きっと昔は、このテェブルを家族みんなで囲んでいたのだろう。)
 かつては確かにあった、家族の和やかな団欒がもう叶わないことを思い、京一郎の心はきゅうと痛んだ。
 千家が幼い頃に着ていた服は、物置の奥の洋箪笥の中にきちんと畳んで入っていた。違う箪笥には、女児用の服も。これは恐らく彼の姉のものなのだろう。
 京一郎は千家が着られそうな大きさの服をいくつか見繕って、風呂敷に包んだ。

 寝室に戻ると、千家は寝台にいた。
「具合、悪いんですか?」
「多少、な。やはり退化する他に異常なし、という訳にもゆかないようだ。」
 京一郎は寝台の縁に腰掛け、小さな頭を撫でた。千家はしばらく目を閉じて、気持ち良さそうにしていた。
「伊織、取り敢えず昔の服を持ってきましたから、着替えましょう。」
「ん。」
 風呂敷を広げる。
 いかにも裕福な家らしい、質の良いシャツに、裾短の洋袴。
 千家は懐かしそうに触っていたが、そのうち表情が固まった。
「伊織?」
 呪詛体の儀式を受けてからの彼の過去は、思い出すに辛いものが多いだろうことは理解しているつもりだ。何気なく選んだ服が、それを呼び起こしてしまったのではないかと、京一郎は不安になる。
 ただでさえ通常と比べて不安定な状態にある千家に、これ以上の心理的負担を与えたくない。
「・・・気に入りませんでしたか?別のを取ってきましょう。」
 千家の小さな手が掴む服を、取り上げようと手を伸ばす。
「!!」
 すると、彼は隠すように服を抱き締めた。
「伊織・・・?」
「・・・これ、は、・・・もういい。」
 むしろ、気に入りの服だったということだろうか。その割には、紅い瞳に焦燥が浮き出ているのはなぜか。
「着るのが難しいのなら、お手伝いしますよ。」
「いや、だから・・・」
「私は長年妹の世話を焼いていましたからね。大抵のことはできるんです。ほら、貸してみてください。」
 多少強引に取り上げた。
「・・・・・・あれ・・・?」
「返せ!」
 ひらひらのレェスに枯茶色の大きなリボン。胸元を覆う白いエプロンの胸当には、アルファベットの"I"が装飾豊かに刺繍されている。他の服に紛れて、一緒に持ってきてしまったのだろうか。
「これは・・・」
「返せと言っている。」
 手を伸ばしてくる千家をくるりと回って躱す。
「伊織、のお姉さんは、確か"I"で始まるお名前ではなかったですよね・・・」
 古いアルバムをめくったとき、姉と映る小さな伊織の写真の下に、二人の名が記してあったのを思い出す。
「・・・ということは、」
「・・・・・・。」
 千家は寝台の上に立ったまま、無言で京一郎を睨みつける。
「これも伊織の服、ってことか。」
 思わず顔がにやけてしまう。
 あの。泣く子も黙る。昂后も黙る。千家伊織が。
「・・・幼い頃私は身体が弱かったと言っただろう。厄除のために男子に女子の格好をさせる風習は、世界中何処にでもある。それだけのことだ。」
 それだけ、と言う割に、この苦虫を噛み潰したような表情はなんだ。
 この顔、いつもの千家中将の姿で見てみたかった、と思うのはあまりに意地が悪いだろうか。
「そほ、ですか・・・。よ、く分かりました。・・・ぷ・・・そして!貴方が、元に戻るまで安全に保護する方法を思いつきました!」
 笑いを噛み殺し、真面目な表情を取り繕って告げる京一郎を、千家は嫌そうに見遣る。
「さっきの今で思いついたとなると、ろくな提案ではなかろう。却下だ。」
「いいえ。決定事項です。貴方には従っていただきますよ。」
 笑顔で見下ろすと、千家の目がまた青みを帯びる。起きがけの比でなく眼光に凄みが増す。
「上官の声が聞こえなかったか。却下、と言ったのだ。」
「私の上官は千家中将ですが、どうやらこのところ姿が見当たらないようです。一朝事あらば、私は千家中将の代理として動くことを認められていますから、現状では私が上官と同等の権限を持つ事になりますね。」
「京一郎、貴様・・・」
 屁理屈だ。しかし実際、小さな子供の姿はあれど、長身長髪の軍人はどこにもいないのだ。悔しそうに千家は顔を歪める。もっとも、少年の愛らしい顔が多少歪んだところで迫力はない。
「おや、こんなところに可愛らしい童が。ここは怖い軍人がうろうろしているところですよ。取って食べられないうちに、安全なところへ私と隠れましょうか。」
「何を企んでいる。」
「企むとは心外な。私の行動理念は常に、国と貴方を護ることにのみあるというのに。」
 状況の力を利用しているとはいえ、千家を言い負かしたことに言いようなく満足を覚えた京一郎は、不敵に微笑んだ。

「・・・尻が痛い。」
「これでも十分、安全運転してるんです。国家と貴方の緊急事態なんですから、多少のことは我慢してください。」
 がたがたする道を、車で行く。
 京一郎は千家を連れて、以前二人で訪れた横浜港の見える別邸へ向かっている。
「あそこの名義は私になっているんですよね。であれば、貴方を探しに誰かが来ることもない。」
「うちに居ても、訪ねてくる者など滅多にいないだろう。」
「神職十四家の方たちをはじめとして、軍関係者は常にうろうろしているじゃありませんか。貴方が前に言っていたけれど、軍部だって一枚岩じゃないでしょう。貴方の状況を、いつ誰がどこで漏らすか、分からないんですよ。」
 ちら、と横目で見ると、千家は面白くなさそうに溜め息をついた。素直に頷くのが悔しいようだ。
 胸当から伸びるレェスのリボンを、くるくると指に巻き付けては風に流してみたりしている。
「しかし。これほどまで似合うとは思ってませんでした。」
 にこにこする京一郎をじろりと睨んで、千家は窓の外へ投げやりな視線を向ける。
 結局、彼は物置で見つけた女子用の洋服を身につけている。彼のために作られたものだけあって、色、形、大きさのどれもが彼の魅力を引き立てこそすれ、男子であることによる見劣りは全く感じられない。
 よくよく探すと、明らかに彼のために誂えたと思われるドレスが何着も見つかった。アルバムにはそれらを着た写真は残されていなかったが、袖を通さなかったというわけでもなさそうだ。
 当分、千家にはこれらの服を着せて、別邸に隠す。邸の近所には、京一郎の縁者の少女で、両親が外国に行っている間だけ面倒を見ているとして通す予定だ。
 千家本人については気まぐれで独自行動中、それに京一郎も同行するということになっている。
 軍務については三日に一度、神職十四家の者に所定の場所で現況の報告をさせ、必要な指示を行うことで、当面の不在を対処する。
 休日返上で馬車馬の如く働く強力な術者二人組の評判は、残念ながら軍部では芳しくないため、出仕をしばらく控えるという連絡には不信の声こそあれ、不満は聞こえなかった。
「私たちは日々、国のために命を削っているというのに。」
「そう言うな。彼らは何かしたくとも、そもそも能力がない。使えない人間が有能な人間をやっかむのはやむを得ないことだ。」
「それも随分な言い様だなぁ。」

 それにしても、と京一郎は思う。
 女子の格好をしていれば、万一千家の幼少時の姿を知る者がいても、彼であると気付くことは難しいだろう。しかし、それを千家本人に承諾させるのは、多少なりとも骨が折れるだろうと予想していた。
 実際、提案したときは、やはり、という顔で再び却下を唱えた千家だったが、京一郎が必要性と安全確保について繰り返すと、意外にもあっさり折れたのだ。もちろん、途轍もなく嫌そうに、ではあったが。
(なんだか、今日はたまに素直なんだよなぁ。)

「あ、伊織、あそこですよね?」
 鬱蒼とした木立の中にまず見えてくるのは、尖った屋根。
 まるで、森に埋もれた秘密の隠れ家のような。
 庭に入る入り口の大きな柵には蔦が絡まり、うまく中を目隠ししている。
 以前来たときはすぐに帰ったわけだが、今日からはしばらくこの洋館で生活しなければならない。しっかり掃除をする必要がありそうだ。

 扉を開け放つと、物置へ行って箒を探し出す。
「貴方は窓を開けるのを手伝ってください。これから埃を払いますから。」
「世話女房というのはこういうものか。」
 ぶつぶつ言う千家を窓の方へ押しやり、まずはざっと床を掃く。それから家具を覆う布を外して、外で埃を落とす。座布団も外で叩く。
 手入れをしているとはいえ、長く使っていない家の清潔さはそれなりだ。何日滞在することになるか分からないから、出来るだけ快適にしておきたい。
 実家のある桃木村で、母親に大掃除だなんだと使われたのを思い出す。元来働き者の気質だからか、久しぶりに身体を動かすことに京一郎は夢中になった。

 ひとまず居間が片付いたら、今度は寝室だ。
「伊織、二階の窓もお願いします。」
 振り返って、血の気が引くのを感じた。
 千家は、部屋の隅にある小さな丸椅子の上でぐったりしていた。
 髪の毛には蜘蛛の巣が引っかかり、リボンのついた靴下はところどころ解れ、白いエプロンは埃で薄茶色くなっている。
 窓はすべて、開け放たれていた。
 気軽に頼んだつもりだったが、身体が小さいため、窓枠に登らないと鍵が開けられなかったのだろう。古い木枠はところどころささくれていて、身体を覆う布を裂いただろうことは容易に察しがついた。
 夢中になって部屋を掃除していて、様子を伺うのを失念していた。京一郎は後悔に苛まれながら、堪らず千家の肩を揺する。
「伊織、伊織!」
「ん・・・」
 千家はだるそうに目を開けた。ほっとする。そして、小さな身体を無理に揺さぶってしまったことに気付き、京一郎は浅慮な己にまた少し凹んだ。
「掃除は、終わったのか?」
「まだですけど、・・・具合、悪いんですね?何か、してほしいことは?」
 千家は少し考えて、ぽつりと呟く。
「・・・腹が減った。」
 一瞬、耳を疑った。
 食べるとか寝るとか、そういう生存に不可欠な事柄にはどうも縁遠い印象のある千家が、空腹を訴えるとは。
「珍しい、ですね。」
「どうもこの身体はよくない。すぐに疲れて動かなくなるし、すぐに腹が減る。」
 そういえば、幼少時彼は身体が弱かったから、呪詛体の儀式を受けさせたとか。それが真の理由だったのかは甚だ疑問だが、とにかく当時と同様であるらしい千家の体調には、気をつけねばなるまい。
「では、まず中食をどこかで済ませて、そのまま買い出しに行きましょう。」
 身体についた埃を落とし、靴下を履き替えさせる。慣れてきたのか、千家は大人しく京一郎のするがままになっていた。
「この姿でいると、いつに増して何でもお前がやってくれるから、楽でいい。」
 千家は京一郎の腕の中で、鈴の鳴るように笑った。

 中食は、蕎麦屋で摂った。
 麺ものは食べ慣れないのか、千家はぎこちなく箸を持つ。京一郎はその位置が不自然であることに気付いた。
「お箸、左手で持つんですか?」
「私は元来左利きだ。ちょうどこの頃は右に矯正している途中だったからな。まだ左の方が使いやすい。」
「そう、だったんですね・・・。」
 元の身体と同じ様には使えないということか。
「では、今の貴方はまだ術も使用できないし、剣もいつもの様には扱えない・・・」
「そういうことだ。」
 改めて、千家を別邸へ連れ出して正解だったと思う。
 今の彼は、本来の頭脳はあるものの、それ以外は他と変わらぬかよわい小さな子供なのだ。

 食事の後は、食料ほか必要なものの買い出しだ。自炊に自信があるわけではない。しかし、できるだけ千家を他人の目から遠ざけておきたい。美食に慣れた彼には不満かもしれないけれど、当分味には目を瞑ってもらうほかないだろう。
 野菜や魚を物色しながら、京一郎は千家を護るようにそっと肩を引き寄せた。
「兄さん、その小さな嬢ちゃんは、娘さんかい?」
 威勢の良い物売りが、気さくに声をかけてくる。
「まさか。親戚の子ですよ。」
「そうかい。そんならあれだ、大きくなったらお兄さんのお嫁になるーなんて言ってんだろ。」
「え?」
「ほら、必死にしがみついて、まあ。可愛いことな。」
 にこにこと見つめる先を視線でたどると、確かに千家は京一郎のシャツをぎゅうと掴んでいる。
「伊織?」
 京一郎を見つめる瞳はどことなく頼りなさげで、本当にこれが千家伊織なのかと不安になる。
「大丈夫ですか?」
 呼びかけると、はっとして手を放した。ぎょっとした表情が、信じられない、と言っている。
 もしかしたら、思考や行動も、気を抜くと退行してしまうのかもしれない。
「さっさと帰って、小難しい護国論でも語り合いましょうか。なんなら、お得意の仏蘭西の詩でも吟じてもらおうかな。」
「・・・そうする。」
 素直な千家は、やはり少し調子が狂う。

 洋館に戻ると、千家は居間の長椅子に座らせておき、京一郎は二階の寝室の掃除に取り掛かった。寝台には分厚い覆いが掛けてあったため、寝具がそこまで埃を吸い込んでいないようなのは幸いだ。
 寝室が片付いたら、今度は風呂と夕食の準備。
 家事というものは、こんなに沢山やることがあったとは。何人かの手伝いを使っていたとはいえ、毎日手際よく采配を振るっていた母親には、改めて頭が上がらないと、京一郎は苦笑した。
「粗膳ですが。」
 湯が湧き上がらないので、先に食事にする。
「ふふ。新妻か。」
「だとすれば貴方は、差し詰め連れ子ですね。」
「うるさい。」
 見様見真似で炊いた米は硬く、焦げた魚は身が乾いている。味噌汁は、出汁が薄くて味が辛い。辛うじて美味いと言えそうなのは、御菜屋で買った煮物くらい。
「・・・すみません。」
「構わん。生焼けの魚よりましだ。」
 やはり不器用に箸を動かしながら、千家は丁寧に膳を進めた。
(・・・てっきり、膳を残して退席するかと思っていた。)
 美味いとまでは言わないものの、努力に報いようとしているのが分かり、京一郎は胸がほっこりと温まるのを感じた。
「そういえば、いつも私がやっている、貴方の肌を切る方法は、やめておいた方がいいですよね?」
「この時期、私はまだお前と出会ってもいなければ、血を交わしてもいないからな。やるだけ無意味だ。」
「確かに、その頃私はまだこの世に生まれてすらいなかったかもしれないですしね。」
 以前、そのことで散々千家をからかったことを思い出し、こっそり笑う。
「では、私の血も役に立たないか。やはり貴方の治癒力だけに頼るしかないんですね。だったらどんどん食べて、力をつけないと。」
「お前の料理の腕の上達には期待している。」
 千家は辛い味噌汁をちゅうと啜って、もう一杯、と言った。

 食事の間、時折加減を確認しながら風呂釜の火を焚いていた。しかし結局、湯は思ったほど温まらなかった。
「野営中だと思えば、冷水でないだけいい。」
「なんだか今日は、やけに優しいですね。」
「・・・うるさい」
「ふふ。ここには私と貴方しかいないのだから、意地を張らなくていいのに。」
 膝の間にいる千家は、京一郎の胸に小さな頭を預けてふん、と鼻を鳴らす。
「私は知ってますよ、貴方の心根が本当は優しいこと。」
 後ろから顔を覗き込むと、じろりと睨まれた。
「ふふふ」
 京一郎は千家を抱きしめる。今度は腕を噛まれた。
「こーら。人を噛んではいけないんですよ。悪さすると、お仕置きだ!」
 髪の毛をぐしゃぐしゃにしてやる。千家は知らんふりをして顎まで湯に浸かっている。

 京一郎は腕に残る小さな歯型を見て、思う。
 ずっと、このままだったら。
 千家が元の姿に戻らなかったら。
 軍籍も護国も放り出して、平らかに暮らして行けるのではないか。
 柊伊織という少女として、この緑の城の中に閉じ込めて・・・――

「京一郎、冷えてきた。」
 幼い声に、はっとする。
「どうした、昏い顔をして。」
 頬を撫でる手は小さくて、心許ない。京一郎から、そして京一郎自身を、奪ったあの手は、いつも京一郎を呼ぶ、少し掠れた甘い声は、今ここに無い。
(私は、何を考えているんだ。)
 千家は、あの千家だから、千家なのだ。
 京一郎が護らなければ存在することすら危うい小さな子供は、真に、彼ではない。
「何でも、ない。」
 京一郎は淡く微笑んで、千家を湯船から抱き上げた。

「以前ここに来たとき、いつか、すべてが終わったらここで二人で暮らそう、って言ったの、覚えてます?」
 寝台に横たわる千家を後ろから抱きしめて、京一郎は禿の毛を指先で弄ぶ。
「ああ。」
 千家は、窓の外の月を眺めている。
「こんなに早く、またここへ来ることになるとは思わなかったけれど。」
「・・・そうだな。」
「まだ、すべて終わったわけではないけれど、また貴方と来られて、嬉しいです。」
「京一郎・・・」
 寝返りを打った千家は、京一郎に身体を向ける。
「私、結構気に入ってるんですよ、この洋館。ここは空気もいいし、貴方の回復にも少しは役立つかもしれないですね。」
 千家は微笑んで、京一郎の鼻頭に口付けた。
「ん。・・・昔、誰かに、こうされたんですか?」
「・・・姉や、母が、な。」
「・・・・・・。では、代わりに今日は私が。」
 京一郎も千家の鼻頭に唇を落とす。
「こそばゆい。」
 首を竦める千家を抱きしめて、京一郎は囁いた。
「おやすみ、伊織。」

  「禿=かむろ」がここでは正解。「禿=はげ」は×ですよ!いただいたリクの内容は、後篇でお知らせします。別邸の設定はドラマCD4作同時購入ステラワース特典「終の棲家」から。
後になって知ったのですが、女児設定、館林と丸被りだったようですね。あの、パクったわけじゃないのですよ。知らなかったんで・・・特典系は千家さん以外知らないんで・・・あああやっちまった・・・orz  館林の幼少時なんて気にならないもん知らないもん!!!コンシューマ版の回想では超元気そうだったじゃん!全然ひ弱そうじゃなかったじゃん!!!・・・orz うわぁぁん

NEXT NOVEL KIRI