緑の城で 後篇
別邸へ移動してから三日目。言いつけておいたとおり、神職十四家の一人が書類を持って横浜の繁華街にある喫茶店に現れた。
「あの、・・・柊少尉、千家様は、今・・・」
「ご心配なく。いつもどおり、我儘放題、つつがなくやっています。」
テェブルの下で千家が足を蹴ってくるが、無視する。
「そのうち飽きたら邸に戻られるでしょうから、恐縮ですがもう暫しご協力をお願いします。」
彼は神妙な顔でうなずき、そして京一郎の横に座る千家に視線を移した。
「それで、こちらのお嬢さんは。」
ぶっ、と千家が噴き出す。
「こら。他人様の前ではしたない。申し訳ありません、長く箱入りだったもので、奔放なのです。私の遠い親戚の娘で、しばらく預かっているのですが、千家中将とも相性が良いようで、上手くやっています。」
はあ、そうなのですか、と無遠慮に千家を眺め、不思議そうに首を傾げながら、彼は帰っていった。
「完全に、騙されていたな、あいつ。」
面白くてたまらない、といった様子で、千家はくつくつと笑う。
「本当のことを知ったら仰天しますよ。しかし貴方も娘姿が堂に入ってきましたね。」
からかうと、聞こえなかったようにそっぽを向く。車の窓から入ってくる風に、髪がはためくのも気にせず気持ちよさそうに手を伸ばす。
「手を出すと危ないですよ。」
本当は今日、千家を連れてくるつもりはなかった。性別も偽っているから、万が一にも悟られることはなくとも、曲がりなりにも相手は術者なのだ。なにも感づかれない保証はない。
この二日、具合悪そうに寝たり起きたりを繰り返していた彼を連れ回すのは、そうでなくとも心配だった。京一郎は何度も、ひとりで行くから、と念を押していた。
しかし今朝、珍しくすんなり起きた千家は人の悪い笑みを浮かべて言ったのだ。連れて行け、と。
賑やかな街を通り越し、車窓からの風景はやがて緑多いのどかなものへと変わっていく。
すっきりした表情の彼を見て、気分転換に連れ出して良かったのかもしれないと京一郎は思った。
「ねぇ、伊織。」
「・・・ん。」
学校が終わったのだろうか。子供たちの一団が、揃って元気に道へまろび出てきた。全員が通り過ぎるのを、車を停めて待つ。
「このまま貴方の姿が元に戻らなかったら、私のお嫁さんにしてあげましょうか。」
操舵輪に凭れかかって、京一郎は助手席にいる納戸色のドレスを着た少年を見つめた。
千家は、今まで見たことのないほど、間抜けな顔をしていた。
「・・・っふ・・・っくふっ」
「――貴っ・・・様・・・」
「っは・・・ははっはははっ!」
京一郎は涙をぬぐいながら、笑う。
「っ、今に見ていろ。二度とそんな口叩けないようにしてやる・・・!」
「だって、・・・くくっ、ぁ貴方の、顔・・・ったら・・・っわああ!」
思いきり、耳を齧られた。
「痛い痛い痛い!」
力づくで引き離す。
「うぅ・・・じんじんする・・・。酷いよ、伊織。」
恨めしそうに睨む京一郎を無視して、千家は先ほど神職十四家の彼から預かった書類を乱暴に取り出した。
「また具合悪くしたって知らないですからね。」
ふざけ合う子供たちの姿が、遠ざかってゆく。車を発進させる前に、紙が飛ばぬよう窓を閉める。外界の音が遮断される。
動力音だけが車内の空気を埋めるように響いていた。
別邸に戻る頃には、千家は案の定、車に酔ってぐったりしていた。
居間の長椅子に横たえ、水を汲みに行く。
「言わないことじゃない。そこで大人しく休んでいてください。」
しおらしくなった千家に湯呑みを持たせると、京一郎は夕方の家事に取り掛かった。
ここでの生活も少しばかり慣れ、手際が良くなったことにひとり満足する。
風呂の火をかけると少し時間ができたので、今日預かった軍務関係の書類を眺めた。
ここ数日、のんびりとした生活をしていたから感覚が薄れていたが、現在、国の軍事状況は緊迫している。この緑に囲まれた洋館での奇妙な二人暮らしも、千家の姿が元に戻ったら終わるのだ。
深く息を吐いて居間に戻ると、千家は体を起こしていた。
「もう、具合はいいんですか?」
「あぁ。多少良くなった。やはりこの場所は、療養に向いているのかもしれないな。」
千家の横に座り、数日後また来る神職十四家に伝えるべき事項を確認する。
「概ねお前が言ったとおり神職十四家に伝えてくれればいい。本当に飲み込みが早いな、お前は。この調子では出世もあっという間だろう。」
「私は出世なんて望んでませんよ。国と、貴方を護れれば、それでいい。」
「慎ましやかなことだ。その気になれば、今の私以上の地位も望めなくなかろうに。」
「それは貴方がいるから、でしょう。ねぇ、もうこの話はやめませんか。」
京一郎は立ち上がり、ペンとインクを取りに行く。
「はい。さっさと署名してしまってください。そろそろ私は夕餉の準備を再開しなければ。」
「京一郎。」
「なんです。」
千家は、あの深い井戸のような瞳で京一郎を見つめる。
「お前が署名しろ。」
・・・一瞬、心臓が止まるかと思った。
「・・・・・・は、い?」
「・・・・・・。ふ、そんな顔をするな。筆跡を真似て私の名を書け、と言ったのだ。この手では、今の私に程遠い字しか書けないのでな。」
(なんだ、そういうこと、・・・か。)
愁眉を開き、京一郎は弱々しく呟く。
「・・・脅かさないでください。私はてっきり、元の姿に戻る見込みが無くなったのかと、・・・」
「ふぅん。よほど、いつもの私が恋しいらしい。」
からかうような口調の千家に、腹の底から憤った。
「あの。そういう物言いはやめてくださいと、前に来た時も言いましたよね。」
「そうだったか?」
「いい加減にしろ!」
荒々しく叫んでペンを床に叩きつけ、京一郎は足早に居間を出る。倒れた瓶からインクが溢れて染みを作ったが、構わない。ここは千家の別邸ではない。京一郎の邸なのだから。
外に出ると、冷んやりした空気が身体を包んだ。物悲しげな虫の鳴き声が、哀情を煽る。
・・・なぜ千家はあのようなことを口にできるのだろう。
京一郎が千家に取って代わる日など、来るはずもない。なのに、それを仄めかすような風に言う。
この間ここ来た時なんて、京一郎を置いていなくなるような言い方をした。
どちらも、京一郎の望みから最も遠いこと。
それは、折に触れて伝えているし、千家も重々承知している。
なのに、なぜ。
この別邸に千家を隠したのも、彼をできるだけ危険から遠ざけたいから。慣れない家事をするのも、不慣れな場所を少しでも快適にして、英気を養い一刻も早く戻ってきて欲しいから。
エゴイスティックだと言ってしまえばそれまでだが、それだけ千家のことを想っているというのを、知らないとは言わせない。
なのに。なぜ。
井戸の前まで来て、屈みこむ。石の淵を抱くようにして、京一郎は咽び泣いた。
寄り掛かった井戸の中を覗き込むと、星空が映って見える。街灯が道を照らす帝都とは違い、ここでは地元と同じように、仰ぎ見ればたくさんの星を見つけることができた。
(いつかこうして空を見上げながら、そこに居ない貴方に想いを馳せるなんて、真っ平御免だ。)
また一筋、涙が頬を伝う。
不意に、視界が塞がれた。
細い腕が、京一郎の頭を抱きしめている。
「・・・・・・。」
「・・・・・・悪かった。」
追いかけて来るなんて、思いもしなかった。まして、謝罪の言葉など。
いつもの千家なら、泣き腫らした顔で戻っても眉ひとつ動かさないだろう。京一郎の知る彼らしからぬ行動も、本当は、彼の一面として、どこかに隠されているのかもしれない。
儚く頼りない腕が、こんなにも温かく感じるものだとは。
不安定な状況に神経が過敏になっていたとはいえ、あんなに癇を立てなくても良かった。またしても実家の母を思い出して、内心苦笑する。
千家は、子供らしからぬ諦念の滲む声で囁く。
「・・・お前を失う事が、恐ろしいゆえだ。私も所詮、この姿の表す程度でしかない、ということだな。」
語尾が擦れて震えた。顔を覆う手を取って振り向くと、千家は昏い自嘲の笑みを浮かべて低く呟いた。
「弱い、・・・脆弱な――」
京一郎は継ぐ言葉を封じるように、その貝殻のような唇へ口付けた。
倒錯した行為は避けたかったから、できるだけ不用意に触れぬよう気を付けてきたのだが、堪えられなかった。
「・・・貴方にはそんな言葉、相応しくない。でしょう?」
そう。千家伊織は、尊大で、圧倒的で、無敵で、唯一。
「ねぇ、伊織・・・ん――」
子供特有の、しっとり柔らかく皮の薄い膚。しかしこれは、京一郎にとって仮初の千家。
「・・・この姿に気後れしているのかと思っていたが?」
木苺のような赤い舌が、京一郎の唇をぺろりと舐める。
「童とまぐわうわけにはいきませんからね。」
「不徳であると?」
「貴方がかつて私にした以上に、許し難く邪悪です。」
毅然と言う京一郎に千家は、――京一郎の目の前の少年は、妖しく微笑んだ。
「そういうお前の徳操、壊してみたくなる・・・」
大きな紅い瞳に、吸い込まれそうになる。
「京一郎・・・ふ」
「んむぅ!駄目です!」
侵入しようとしてきた舌を、引き結んだ唇で押し返す。
「なぜだ。」
「言ったでしょう。私は子供と交わる趣味はないんです。こういうことがしたいのなら、早く元に戻ってください。」
「・・・つまらん。」
「万一誰かに見られて、変態色欲なんて言われたら、かないませんからね。」
京一郎は、千家の額を人差し指で小突いた。
数日後の朝。
身支度を整えた京一郎は、寝台にいる千家の髪を撫でて念を押した。
「では、行ってきます。決して邸の扉と一階の窓は、開けないでくださいね。」
「まるで母親だな。」
「今更ながら、母の気持ちをひしひしと理解しています。中食までには戻りますから、いい子で。」
千家がよくするように、頬に口付ける。当の本人は、仏頂面で鼻を鳴らした。
京一郎はまた、横浜の喫茶店へ向かっている。先日の報告に対して、千家の指示を部下に伝えるためだ。体調が優れない千家は留守番。
結局、書類への署名は、千家の筆跡を真似て京一郎が行った。もう二度と、こんなことはしたくないと言うと、千家は黙って薄く微笑んだ。
(わかっているのかな。あの人は、ほんとに。)
さっさと用を済ませて帰ろう。不在の間に何があるか、分からないから。
「戻りましたよ、伊織。」
玄関の扉を開けて、声を張り上げる。
小走りに階段を上り、寝室の戸を開く。
「伊織、どこにいるんです?・・・お手水かな。」
一階へ戻り、戸を叩くが反応はなく、開けてもやはり姿がない。
「伊織。・・・伊織、返事をしてください!」
嫌な予感がする。下階は開けぬよう言ったが、寝室の窓については換気の必要を思って注意しなかった。
邸の外へ出て、辺りを見回す。
どさり、と、何かが落ちる音がした。
振り向くと、見覚えのない男が布に包んだ大きなものを持って、まさにどこかから飛び降りたところだった。
「誰だ。」
京一郎の声に驚いたように振り向くと、男は無言で踵を返し、走り出す。
男の抱える荷物は、大きさからして小さな子供くらい・・・。
「待て!!」
京一郎は男を追う。
ある程度の大きさがあるものを抱えているのと、刀だけを持っているのでは差がある。すぐに追いついた京一郎は、男の肩を強く掴んだ。
「その包みの中を見せてもらおうか。」
「あんたには関係ない。」
「命令だ。私の敷地へ無断で入った人間に、拒むことは許さん。」
隙を見てまた逃げようとする男を、刀の鞘で殴った。
怯み、緩んだ腕から包みを奪い、布を剥ぐ。やはり、中にいたのは千家だった。
「伊織!」
反応はないが、気を失っているだけのようだ。殴られたのだろうか、頬が赤く腫れている。
「貴様・・・、何をしたか、分かっているのだろうな。」
千家を抱いて立ち上がろうとしたとき、背に冷たく硬いものが押し当てられるのを感じた。
「残念だったな、貴族サン。命が惜しいなら、大人しくその娘を置いて立て。」
後ろから男の声がする。賊はもう一人いたようだ。撃鉄を起こす振動が、背を通じて伝わる。
京一郎は千家をより強く抱きしめ、低く詠唱を始めた。
「呪して曰く、・・・」
「う、・・・が・・・っ!」
背後の男が銃を持ったまま倒れこむ。京一郎は振り向きざま、その腹を思い切り刀の鞘で突いた。
「ぐあああっ」
もう一人、先ほど殴った男も、縛るか何かしておいた方がよいだろう。
視線を巡らしていると、今度は首筋に刃物が当たる感触。すかさず詠唱を――
「喋るな!」
「!」
短刀を口元に押し付けられた。
「一言も発するな。そのまま、娘を下に降ろせ。」
どうやら、銃の男に気を取られているうちに、また後ろを取られてしまったようだ。つくづく情けない。
しかも、口元に刃を突き付けられているため、祝詞の詠唱ができない。千家を抱く手を緩めず、屈んだまま京一郎は次の策を思案する。
「言う通りにできないんなら、あんたはもう死ね。」
男は京一郎に刀を向けたまま、術で動きを封じられた男の手から銃を拾う。銃口が千家に向かぬよう、京一郎のこめかみに当てる。
(もう、口を裂かれても何とかするしかない!)
京一郎が意を決して、再度祝詞を唱えようとしたとき。
「な、んだこれは!!」
男が慌てて足の辺りを刀で払った。京一郎は低く飛び退いて距離を取る。
男の身体には、地面から生えた縄のようなものが纏わりついていた。それはまるで、黒く燃える火のよう。
「うぁ、・・・うわあ!なんだ!?取れない・・・っ!!」
(黒縄・・・?いったい誰が?)
「京一郎、血が。」
いつの間に目を覚ましたのだろうか。腕の中の千家は、刀を当てられて切れた京一郎の口元の血を、口付けるように舐めとった。
「伊織、」
「・・・私の半身に働いた狼藉、よもや許されるとは思っていまいな・・・」
低く呟く。瞳がぎらぎらと青みを帯びて光っている。
千家は立ち上がり、京一郎の持つ刀をすらりと抜き放った。
「伊織・・・?」
この刀はそれなりの重さがあるため、十やそこらの子供、しかも病弱な身体には到底持てないはず。しかしそれを片手に千家は賊へ近づく。
「はぁっ!!」
振りかざしたとき、ずん、と音がした。
刃が振り下ろされ、賊の首が地面に転がったとき、女児の服を着た少年は、そこにはいなかった。
代わりに、身体の至るところに布の切れ端を纏った青年が、血濡れた刀を持って佇んでいた。
青年はそのまま、京一郎の術で身動きを取れず震えている賊に近寄ると、無言で首を落とした。眉一つ動かさず。冷酷さを感じる暇すら与えない、流れるように、優雅な動作で。
「こんなもの、ここにあるだけ不快だ。」
青年は、肩甲骨まである髪を振り払いながら、もう動かない賊を足先で蹴った。地面から炎の縄が生え、躯を縛り、焼き尽くす。
京一郎は恐る恐る、確認する。
「・・・伊織、です、よね。」
「なんだ、京一郎。また疑っているのか。」
「いえ・・・、ああ、良かった・・・。」
脱力して膝から崩れ落ちた。
「あ、おい」
千家が駆け寄って、京一郎を支える。
「・・・ふふ。貴方、ドレスを破いてしまいましたね。いけない子だ。」
「ふん。私の身体に合わない大きさなのが悪い。」
千家は腕に絡みついたひだ付きのリボンを、ふぅと吹いて落とした。
寝室へ戻り、濡らした布で千家の身体を拭いて、京一郎の替えの洋服を着せる。
まだ完全に元に戻っていない千家の身体は、おおよそ十代後半くらいであると思われた。傷ひとつない肌は、今現在の千家ほど完成されてはいないが、やはり整って美しい。
賊が現れた時のことを聞くと、どうやら数日前から、この邸に女児を連れた若い男が住み着いたことは近隣に知れ渡っており、不逞の輩が千家を攫って売り飛ばそうと邸に侵入したらしい。
「服を剥がしてみて男だったと知れば、あ奴ら驚いただろうな。」
「それでもやはり危険だったことには変わりありませんよ。本当に、無事でよかった。」
京一郎は、まだほんの僅かに幼さの残る、千家の頬を撫でる。先ほどの腫れは引いたようだ。
「この頃の貴方は、今より少しきつい顔立ちをしているんですね。」
「・・・そうか?」
「ふふ。ちょっと、拗ねているみたいだ。」
啄ばむように口付ける。
「もう少し、ですね。」
「・・・そうだな。」
今日は署名した書類を渡すだけだから、と言っておいたのに、喫茶店に現れた生真面目な神職十四家は、またいくつか書類を置いて戻っていった。渡した書類の署名の形がいつもと少し違うようだが、と言われたときは内心どきりとしたが、千家が指を怪我してしまったのだと言い訳して、その場はなんとか取り繕った。
京一郎は、足を組んで書類を膝に乗せ、さらさらと署名する千家を見つめる。
今より少し短い髪。切れ長な目。たまに目を上げて、少しぎこちない微笑みを作る、口元。
千家と出会ったのは、すでに彼が今の彼として完成してから。アルバムにある千家の写真は幼い頃のものばかりで、呪詛体となった以降の彼を知る人もほとんどいない。
少年の彼や、青年になろうとしている彼の姿は、知りえなかった千家のかつての一面を垣間見せる。
(いつになっても、捉えどころのない彼を追っているばかりだと思っていたけれど・・・。)
また少し千家に近付けたことに、京一郎は何か心満たされるような気がした。
「ねぇ、伊織。」
「・・・なんだ。」
「それが終わったら、ピアノを弾いてくれませんか。」
「ピアノ?」
「えぇ。弾けるんでしょう?」
千家は少し、考える。
「しかし、弾かなくなって久しい。」
「いまの身体なら、まだ、覚えているんじゃないですか?」
ペンを置いた千家の手を引いて階下へ下り、西日が照らすピアノの前に座らせる。
「この間来た時には、音が狂っていた。」
「調律、したんでしょう、あの後。だってほら。ここだけきれいに磨かれているの、知っているんですよ。」
「・・・気づいていたか。」
生成りのシャツを少しまくり、ぴったりとした胡桃色の洋袴の装いで椅子に座る千家は、軍人には見えない。瑞々しく伸びる腕は刀を持つより楽器を扱う方が、淡い桃色の唇は禍々しい祝詞を唱えるより愛の歌を口ずさむ方が、よほど相応しいように思う。
(・・・きっと。この人は本当なら、芸術を愛で、緑に囲まれて、家族と笑い合いながら暮らすべきだったのだろう。)
何度か規則的な音の配列をなぞってから、千家は深呼吸した。
曲線の美しい黒色の箱から、明るい音色が零れだす。
先ほど命を脅かすほどの事件があったことなど、まるで夢であったかのように、落ち着いて、優しい音。ゆったりとした旋律に時折混じる装飾音が、心をくすぐる。音の重なりの心地良さに、たゆたう・・・。
気づくと、京一郎は千家の膝を枕にして長椅子に横たわっていた。いつの間にか転寝してしまったらしい。
「・・・あれ。もう弾くのやめちゃったんですか。」
「ふふ。不眠症の貴族のために作ったという曲だが、本当に子守歌になるとはな。」
優しく髪を梳く手。
見下ろす表情は、少し照れくさそうだ。
言い知れぬ幸福を覚えて、京一郎は目を閉じる。けれどやはり、すぐに目を開けて千家を見た。ずっと目を閉じていたら、この安らかな時間が消えてなくなってしまいそうな気がして。
「ああ・・・。ずうっと、こうしていたいなぁ。」
「・・・そうだな・・・。」
京一郎の知るより僅かに高い声は、心なしか切なげに、夕暮れの風に溶けた。
夕食の準備は、幾分体の大きくなった千家にも手伝ってもらった。
「あ!伊織、またサボって!もう十分働ける身体なんだから、ちゃんと言いつけを守ってくださいよ。」
「なぜ私がこんな下男まがいのことをしなければならんのだ。」
「ここには使用人がいないんです。今朝までぜーんぶ、私がやってたんですよ。少しは役に立ってく、だ、さ、いっ!」
目を離すと長椅子に寝転ぶ千家を、その都度引っ張り起こして働かせる。
口をへの字に曲げて、渋々御菜の盛り付けをする千家は、なにやら実際の彼よりずっと可愛らしく見える。
(弟みたいに見えるから、なのかな。)
身体はほとんど大人に近づいたのだから、元に戻るのにそう時間はかからないだろう。
名残惜しい気がして、京一郎はより一層、千家とのこの時間を大切にしようと思った。
「少女のような貴方も楽しかったけれど、弟のような貴方も悪くない。」
「なんだそれは。」
「だって、元に戻ってしまったら、どう足掻いても貴方の方がなんだって私の上なんですもん。」
京一郎は千家の手のひらに、自分のそれを重ね合わせる。少しだけ、皮が厚くて硬い自分の指。少しだけ、細くて柔らかい、千家の指。
「私より上に、なりたいのか。」
「そりゃあ。少しくらいは優越感を感じたいものです。」
「お前ってやつは・・・。若さでは、私はお前に勝てないと思っているが?」
「え・・・そんなじじむさいこと考えてるんですか?」
「じじ、む・・・!」
千家の頬が赤くなる。感情豊かにころころと変わる表情は、出会った頃に彫刻だとか能面のようだと思った千家とは、随分印象が異なる。
「ふふ。伊織は可愛いんだね。」
「・・・うるさい」
京一郎は笑って、膨らんだ千家の頬を人差し指でつついた。
窓から差し込む月の光が眩しい。
目を覚ました京一郎は、横に居るはずの温もりを探る。
千家は、寝台に座って月を眺めていた。
「伊織。」
呼び掛ける。
「京一郎、まだ夜更けだ。寝ていろ。」
千家は振り向かない。
京一郎は、そこはかとない不安を覚える。月が、千家を連れて行ってしまいそうな気になる。
「伊織、ねぇ、こっちを向いてよ。」
振り向いた千家の顔は、逆光でよく分からない。
しばらくそのまま千家の影を見つめていると、窓から入ってきた風が、彼の背を覆う長い髪をふわりと揺らした。
「伊織・・・」
カァテンがはたはたとなびいて、千家の顔に光を当てる。
きらめいた紅い瞳は、子供のような無邪気さも、大人になりかかった鋭さも失くし、ただ穏やかに、京一郎に向けられていた。
「・・・京一郎・・・泣いて、いるのか?」
甘く、掠れた声。
冷酷冷徹な帝国軍人の優雅な人差し指が、頬を伝う滴をそっと掬う。
「なんでだろう・・・。貴方が、元の姿の伊織が戻ってきてくれて嬉しいのに。」
「京一郎・・・」
「早く、また元の貴方に逢いたいと思っていたのに。」
涙は零れるのをやめない。
「ここでの暮らしが今日で終わると思うと、・・・貴方をまた、三宅坂へ、宮中へ連れて行かなければならないと思うと、私は・・・」
諦念を覚えた穏やかな表情は、京一郎を諭すように寂しく笑う。
「それが、私の務めだ。・・・私の、存在意義だ。」
「違う・・・!」
困った色の瞳が、京一郎を映す。
「・・・・・・。」
「貴方は、呪詛体でなんかなくたっていい。護国の鬼でなくても、いいんです。」
京一郎は、少年の千家に毎晩そうしたように、千家の頬を両手で包み、鼻頭に口付けた。
「ねぇ、伊織。・・・貴方は、そこにいるだけで、いいんですよ。本を眺めて、ピアノを弾いて、たまに私をからかって、・・・。・・・それだけで、貴方の存在する価値があるんです。それで、十分です。」
「京一郎・・・。」
「私は、貴方をずっと、ここに閉じ込めてしまいたい。」
闘うため護るために鍛え上げられた、癒されるたびに傷だらけになった、逞しい身体を、京一郎は抱きしめる。
「・・・伊織、お願いがあります。」
「・・・なんだ。」
抱きしめられたまま、千家は京一郎の背を撫でる。
「前にここに来たとき、交わした約束。」
「・・・いつか、すべてが終わったら、ここで、二人で暮らす。」
「そう。・・・それ、”いつか”じゃなくて、本当に、して。」
「・・・・・・。」
京一郎は千家の目を覗き込む。
「伊織、・・・ね?」
「・・・そうだな。他ならぬお前の願いだ。私も、お前のために、報いねばなるまいな。」
千家は京一郎の髪を撫でて、微笑む。
「いつか、ではなく、必ず、だ。京一郎。」
「うん。・・・お帰り、伊織。」