蛍の宴 前篇



 昨晩は雨が降った。曇った窓の外から冷たく流れ込んだ空気が絨毯の短い毛を濡らすような気がして、京一郎は窓を閉める。
 朝食の後の茶は何がいいかと聞かれた千家は、仏国エディアル社のダアジリンを所望した。一口啜って深く息を吐いた後、思い出したように言う。
「今日はこの後仕立て屋が来るから、お前は邸に居るように。私の部屋でも居間でも、好きなところで本でも読んでいろ。」
「仕立て屋?」
 別に、四六時中千家と行動を共にしたいという訳ではないのだが、広いこの家に置いていかれるのはどことなく所在ない。
 ここに寝起きするようになって、いったい何日になるだろうか。千家の親衛隊のような軍人ばかりがうろつくこの家は、手放しで彼のすべてを肯うつもりはないという立場を取る京一郎にとって、いまだ居心地のいい場所ではない。まだ、彼の部下でない軍人もいる参謀本部の方が幾分かましだ。
 それに、服が届くのなら下働きの者が受け取れば良いだけの話ではないか。
 千家は新聞を眺めながら続ける。
「お前の正装を調えるのだ。」
 正装、というと、礼服のことだろうか。だが、何のために。
 やっと目を上げた千家は、首を傾げる京一郎へ小さく頷いて言った。
「再来週に予定している夜会で、お前の披露目をする。私の一番の腹心の一張羅が、襯衣に長着に袴では格好がつかないからな。」
「そんな、聞いてません。」
 不服顔を面白そうに眺めながら、千家は立ち上がる。廊下で外套を着せかけられる彼に、京一郎は言い募った。
「厭です、私は。夜会なんか出たくない。」
「お前の希望は聞き入れられない。もっとも、礼服の生地や色については、仕立屋にいくらでも注文をつけるといい。」
「千家少将!」
「では、夕方に戻る。いい子でな。」
 京一郎の前髪を指で弄りながら言い放ち、千家は出掛けてしまった。

 留守番を言いつけられた軍人が、今日は居間か千家居室のどちらに居るか、と聞いてきた。
「こちらはお前を探している暇などない。仕立て屋が来たら案内するから、どちらに居るか速やかに決めろ。」
 京一郎は少し迷い、千家の部屋に居る、と答えた。
 部屋を用意するとは聞いたがまだ片付けが済んでいないため、結局京一郎の居場所は彼の居室か居間くらいしかない。
 主の部屋なら、軍人たちもむやみに立ち入ってこないだろうと思ったから、そう言った。 千家がいないときの彼らの突き刺すような視線から、少しでも逃れたかったからだ。
 しかし、それはまるで主人の部屋を我が物に使うが如くに聞こえたのだろう。選択を迫った軍人は不愉快そうな顔を露わにして、不必要に邸内を歩き回らないように、と念押しして去った。

「・・・はぁ。」
 思わず出る溜め息。この家に居ると、心が休まるということがない。
 湯島の自宅へ戻りたいが、そんなことをしたら、甥が千家の気に入りとなったことを喜んでいた伯父がどんなに心配するか知れない。
「私は、学ぶために帝都へ出てきたはずだったのに・・・」
 そう呟いて、壁を埋め尽くす本棚を眺める。
 そうだ。学ぶために出てきたのなら、時間の許す限り学ばねばならない。曲がりなりにも帝大生となるはずだったのだ。教わらなければ学べないなど、その名が泣く。
 気を取り直して、アダムスミスの『富国論』を手に取る。訳本には一度目を通したが、原著は初めてだ。流石にすいすいと読み進められそうにないので、英和辞典も傍らに置く。
 こんな家に居ても、本を眺めていると心が浮き立ち、沈んでいた気持ちが前向きになる。やはり己は学ぶことが好きなのだ。
 京一郎は夢中で原著と辞書とを目で追った。

 ふと時計を仰ぐと、そろそろ正午を回ろうとしていた。
 扉を叩く音に、軍人が中食でも運んできたかと身構えた。しかし、控え目に戸を開いて現れたのは、見知らぬ男だった。
「貴方様が柊様ですね。」
「・・・はぁ。」
 警戒しながら答える。すると男は両掌を合わせて姿を作り、にっこり笑った。
「私は千家様からお申し付けを賜っております、仕立て屋でございます。」
 本に夢中で、つい忘れていた。今日は礼服を作りに来ると、出がけに千家が言っていたのだっけ。
 愛想笑いを顔に張り付けたまま、仕立て屋はまず服を脱いでくださいと言う。
 この部屋では幾度となく千家に脱がされたけれど、彼のいないときに他人の前で服を脱ぐのは何やら躊躇われる。
「いかがわしいことは一切いたしませんから、ご安心ください。まぁそんなことしたら、私、殺されてしまいますよね。あはは。」
 仕立て屋は芝居がかった言い方をして、笑う。千家が居なくてよかった、という気がする。この男は本気で言っているのか、場を和ませるつもりの冗談なのか。
 ともあれ、脱衣に伴う緊張を伝えてしまったための発言だろうと解した京一郎は、努めて気楽に、大らかに振る舞おうと思った。
 少なくともこの場に軍人は居ない。この仕立て屋の男と、その助手の二人だけ。事情を知らない者にまで囲われ者だと思われるのは、己の矜持が許さない。
「あぁ。このすらりとした体躯。燕尾がお似合いになりますよ。」
 くねくねと手指を動かしながら喋るこの男には多少不気味さを感じながらも、久しぶりの軍人以外の人間との会話に、京一郎はこの邸に居る閉塞感が少しだけ紛れるように思った。

 身体の寸法を測り終えると、助手に様々な見本の布を出させて、男は京一郎の胸に当ててみせる。
「貴方様のお顔の感じですと、こちらの質感がよろしゅうございますね、お色味はどちらがお好みで?・・・左様ですか。それでは千家様にはこちらのお色を。」
 どうやら千家の寸法を知っているらしい仕立て屋は、京一郎の礼服と同時に千家の服も作ってしまおうと考えているようだった。
「そうそう、この生地は特別に光沢のある絹を織り込んでおりますから、蛍の光に映えますよ、きっと。」
 急に飛び出した単語に、京一郎は違和感を覚える。
「蛍、ですか?まだそんな時期ではないのでは。」
 尋ねると、仕立て屋は目を皿のようにして大袈裟に答えた。
「おやおや。再来週の夜会は『蛍の宴』と呼ばれている恒例の会でございましょう?もしかして、初めてでいらっしゃいますか。」
「・・・はぁ。」
 知らなかったと答えるのは、何やら悔しいように思われて、曖昧に返す。
「呼ばれる方は鼻高々でございますよ。なにせ、飛ぶ鳥落とす勢いの千家子爵様が、この時期日本中どこでも見ることのできないもので饗してくださるわけですから。そしてその場でお目見えとなる貴方様は、これまた鼻高々の皆様から羨望の眼差しを向けられるのですねぇ。あぁ、お羨ましい。」
 聞くうちに、だんだんと嫌な予感がしてきた。
「将来有望な千家様秘蔵の若君様。きっと数多の姫君様から熱い視線を受けられるのでしょうねぇ。その貴方様をより美しく見せるための、私どもの仕立てるお召し物でございますから、腕によりをかけてお作りさせていただきますです。いひひ。」
 お願いですから燕尾を着ているときはそんな風に眉間に皺を寄せないでくださいましね、と軽口を叩き、仕立て屋は踊るような足取りで帰っていった。

「蛍の宴、とはどういった趣向の夜会なのですか。」
 千家が邸に戻ると、京一郎は早速尋ねた。
「仕立て屋にでも聞いたか。その名のとおり、蛍を庭に放ってやるのだ。毎年好評でな。次はいつやるのかと参加者からせがまれて、やめるにやめられない。」
「しかし、時期ではないでしょう。いったいどこから連れてくるんです?」
「それは企業秘密だ。おいそれとは教えられんな。他に真似されたら、当家自慢の宴が形無しだ。」
 それ以上は、いくら聞いても答えないだろうと思ったので、京一郎は口を閉じた。
 しかし、季節外れの蛍を見せるなど、さすが富裕層の考えることは違う。自然にあるものすら曲げて思うまま操るのはまさに千家らしいと思いつつ、一方でどのような景色が見られるのだろうと、どこか楽しみに思う気持ちもあった。

 夜会もいよいよ明日に迫った夕方。
 薄暗い廊下の片隅に、邸の下働きの人間が集まって小さく歓声を上げている。
 興味を引かれた京一郎は、思わず近付いて声をかけた。
「何かあったんですか。」
「あぁ、ご覧ください。宝石だってこんな輝きは見せませんよ。」
 一人がうっとりとしながら場所を譲った。首を入れて覗き込むと、皆の眺める中心が、薄黄色に光り輝いている。
「これは・・・」
「蛍です。明日の宴で庭に放つものです。」
 よく見ると、硝子の大きな壺の中に、何千とない蛍が詰められていた。
「・・・っ」
 思わず目を逸らした。
 無数の小さな赤黒い虫たちが、互いの上に折重なり、体から光を放ちながら蠢く。その様子はみな一様で、機械的ですらある。息苦しいのだろうか、飛んで逃げようとするものもあり、硝子の壁にぶつかっては仲間の体の上に墜ちる。
 郷里で見た蛍は、もっと奔放に大らかに飛び回り、水田に光を反射させてあたかも夜の楽園を謳歌しているかの如く見えた。しかし、ここに集められた蛍の光は数により強いものの個々の光は弱弱しく、またかさこそと動く姿は不気味に思える。
 理由は明白だ。彼らが短い命を燃やす本来の目的は、すでに奪われているから。訳も分からず光り飛ぶ彼らの存在意義は、人間のための単なる暇潰しでしかないのだ。
 彼らの生きる目的は他によりすり替えられ、定められた命の道は捻じ曲げられている――。
 そう思えば思うほど、千家の側にいる己がこの壺の中の蛍と同じであるように感じられて、京一郎は無言でその場を去った。

「・・・全てを思いの儘操って、貴方はそれで満足ですか。」
 夕食後、機嫌良く本を捲る千家を見下ろして、京一郎は言った。
「唯一の寛ぎの時間に詰られるとは驚いたな。何か気に入らないことでもあったか。」
 たいして驚いた様子もなく、詩集から目も上げずに言う千家に、怒りがふつふつと込み上げる。
「蛍です。あんな風に命を弄んで。貴方は人に飽き足らず、罪のない虫までも好き放題嬲るのですね。」
「それを求める人間がごまんと居るのだ。私の趣味ではない。」
「趣味でないならやめてしまえばいい。」
「明日に迫った宴の目玉を、その程度の都合で無くすわけにはいかんな。これに勝る余興を、京一郎、お前がしてみせると言うのなら、話は別だが。」
 そして千家はにやりと口の端を上げる。
 やはり己を蛍と同程度にしか思ってない。そう思ったら、何やら喉の奥が詰まるような気がして、京一郎は咳払いした。
「・・・冗談じゃありません。」
「ならば四の五の言わずに明日は黙って眺めていろ。お前が思うよりずっと、美しい光景に違いないぞ。」
 千家は薄く微笑んで、本を閉じた。滑らかで白い指が、京一郎の頬を撫でる。暖かな感触に少しばかり癒されようとする心を、京一郎は強く拒絶した。
(そうやって触れるのも、どうせ愛玩動物程度にしか思ってないからだ。腹心だとか懐刀だとか言うけれど、結局思いの儘になる籠の鳥でしかない。)
「気分が悪いので、今日は居間の長椅子で寝ます。」
「背中を痛めるぞ。明日背を庇って猫背では、折角仕立てた燕尾の格好がつかない。」
「私は貴方のような人間の側に居たくない・・・、それだけだ・・・!」
 千家は居室を出てゆく京一郎を追わなかった。それがまるで気まぐれな猫でも片目で見守る様に思えて、京一郎の癇癪など気にも留めぬ余裕に、なおのこと苛立ちが募った。

 翌日。
「やはり腕の良い仕立屋は違うな。だれもお前のことを山出しの学生とは思うまい。」
 仕立て上がったばかりの燕尾服に袖を通した京一郎を眺めて、千家は満足そうに微笑んだ。京一郎の型と揃いで色違いの礼服を纏っている。上質な絹が自然光の中でも艶を返し、蛍の光にも映えるというのは言い過ぎではないようだ。
「無数の蛍の光に勝る輝き、見せようによってはそう評価されるかもしれん。懐刀が見栄えするのは悪い気分がしないものだな。」
 褒められれば褒められるほど、千家の付属品としての価値ばかり認められる様な気がして、京一郎の気は塞ぐ。
 彼と共にあると決めてから、彼に対する京一郎の見方は少しずつ変わってきていたはずだった。意外にも部下を含めた周りへの気配りを欠かさないし、失敗に対しても比較的寛容だ。悪魔のような男だと思っていたが、認識を改めるべきか、と思っていた矢先の蛍の件だった。
「京一郎、緊張しているのか?」
 千家は京一郎の顔を覗き込んで、柔らかい声で訊いた。
 京一郎はすでに手中にあるのだから、こちらの顔色など気にせずともいいはず。だからこれは彼本来の優しさからの言葉なのかもしれないが、そう受け取ってしまうことが彼の支配下にある生けるもの死せるものすべてを冒涜するように感じられて、京一郎は努めて冷たく返した。
「・・・別に。」
 京一郎を椅子に腰掛けさせると、千家は手ずから水差しを取り、硝子の器に水を注いで差し出す。
「私が客人へお前を紹介したら、教えたとおりの口上を述べて、一礼するだけでいい。あとは須藤氏とでも話していろ。そんなに気負う必要は無い。」
 社交の場に慣れない京一郎への気遣いも、黙って立っているだけの飾りものを管理しているようにしか思えない。否、そう思わなければいけないのだ、と考えようとする。そしてそうすることによりずくずくと疼く胸中を、京一郎は無視した。
「千家様。」
 部下に呼ばれた千家は、目にかかった京一郎の前髪をそっと耳に掛けて、部屋を出て行った。

 窓の外を眺める。まだ春分を過ぎたばかりの日暮れは早い。部下たちは宴の準備に出はらっており、加えてまだ客が到着する時刻までには間がある。
 京一郎は薄暗い部屋の中で上着を脱ぎ、外套を羽織ると、そっと邸を抜け出した。

  蛍にはいろいろ種類があって、冬に光るのもあるようですが、ここでは梅雨時期に光るゲンジボタルとかだけいるような感じでお願いいたしますm(_ _)m いただいたリクの内容は、後篇でお知らせします。

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