蛍の宴 後篇


 宴の前に何人かの客と会う予定のあった千家はずっと応接間に居たし、部下たちはその応対やら夜会の準備やらに追われていて、宴の準主役が邸の中をうろついていても誰も見咎める余裕がないようだった。
 案外と簡単に脱出できて拍子抜けした京一郎は、勢い出てきてしまったものの、どこへ行くべきか歩きながら思案する。
 いまさら湯島の自宅へ戻るわけにもいかない。万一、出がけの伯父に鉢合わせしてしまったら、千家邸へ連れ戻されてしまう。だが鉢合わせなければ、きっと自宅へ着く頃には夜会も終わっている。
 もうそろそろ、京一郎の不在が発覚している頃だ。しかし同時に、早目の客が到着し始めている頃合いでもある。
 披露目をすると言っていたけれど、その当人が居ないことを、千家はどう招待客に説明するのだろうか。いや、彼のことだ、どうせ何事もなかった体を装って、うまいことやってのけるに違いない。

 繁華街をぶらぶら歩きながらとりとめもなく考える。
 千家は追ってくるだろうか。
 あれだけのことをして手に入れた京一郎をみすみす逃すとは思えないが、しかし昨夜のあの余裕の笑みが思い出されて、また腹の中がふつふつと煮えてくる。
 思い返してみればこちらが一方的に怒っているだけで、彼はその理由を正しく理解していないかもしれない。
(だって、聞いてこなかったんだ、あの人が。)
 京一郎は蛍ではないと、彼はこの命に特別な意味を感じているのだと、信じさせてほしい。
 共犯者だとか道連れだとかではなく。
 彼の仕組んだ策の通り動く駒でなく。
(私があの人と居ることを選んだのは、あの人の筋書き通りなのではなく、私の意思による選択なのであって、だから今私の置かれている状況は言質を取られ獄に繋がれているのではなく、護国という目的のため私が自ら清濁飲み込んであの人の側に居ることを苦渋の末甘受しただけであって・・・)
――では、お前は私に何と言って欲しいのだ。
 頭の中の千家が問う。
(私は、ただ・・・)
 考えれば考えるほど、求める答えは国を護ることから離れ、結局のところずっと個人的で矮小なものであるように思われて、京一郎は首を振った。
――私はお前が必要だと言った。夷狄の脅威から神国を護るため、その力と刀が必要なのだと。それの、何が不満なのだ。
(違う、私が言っているのはそういうことじゃない。)
――ならば、どういうことだ。お前はどうして欲しい。
(だから、私は・・・――)

「京一郎くんじゃないか!」
 柔らかいバリトン。
 顔を上げると、控えめながら質の良い晴れ着を纏った伯父が車から顔を出していた。
「伯父さん・・・」
「君、一人なのかい?」
「ぁ・・・」
 車を降りた伯父は周囲を見回す。
「夜会には間に合わないと千家子爵から聞いていたが、運転手はどこに?」
「いえ、あの・・・」
「まぁいい、早く乗りなさい。送ってあげよう。だがもう夜会は終わってしまっているだろうから、君のお披露目は延期だね。」
 促されて、京一郎は渋々車に乗った。
 外套の下は礼服を着ていることに、流石の伯父も気付いたことだろう。
 少しの間、気まずい沈黙が続いた。

 近づいては遠ざかるガス灯を車窓からぼんやりと眺めていると、伯父が徐に口を開いた。
「今日は千家子爵と、少し個人的な話をしたよ。」
「・・・え?」
 千家が個人的な話を、彼に?
「君もよく知るだろうが、彼はあまり自身の話をしない。ご家族を早くに亡くされて、若くして当主になったことは有名だが、それ以上のことを知る人を私は知らない。」
 それはそうだろう。彼が呪詛体であること、そのせいで家族を亡くしたこと、呪詛体になるために、幼い頃から辛く恐ろしい儀式を何度も受けさせられたこと、彼が執念の如く死霊を操る力を用いて国を護ろうとするのはその為であること。
 そんなこと、彼が京一郎以外の人間に吐露するわけがない。
 彼の事情を、彼の苦しみを知り得るのは、彼と同じになった京一郎だけなのだから。
「千家子爵は人当たりが良いし、多方面に才のある方だから、仕事をする上での支障はほとんどない。問題となり得ることは予め想定した上で、対処を踏まえた提案をしてくるし、それをこちらにも期待する。だから、我々も仕事に気を抜けない。・・・あぁ、違う、そういう話をしようとしたのではないのだよ。」
 伯父は商売人の癖でどうしても仕事の話には力が入ってしまうらしい。しかし、千家が優秀な人間であることは今更言うまでもあるまい。何を言いたいのか。
 京一郎の不審顔に苦笑して、伯父は続ける。
「でもね、少し前まで、彼が人嫌いなどと言われていたのを知っているかい?」
 千家が人嫌い?神職十四家などあんなに多くの人間を私的空間にうろうろさせて?カリスマすら垣間見せる彼が?
「彼の才は隠せるものではない。昔から彼の取り巻きは多かったと聞く。もちろん側近や気に入りの部下も居たはずだ。でも、こうして夜会でわざわざ紹介をするなんて、私の知る限り初めてなんだよ。」
 今回の会は恒例と聞いたし、夜会を開くのは初めてではないはず。かつては、そういうことだってあったのではないか。
 京一郎の疑問を見て取った伯父は頷いた。
「私が子爵の夜会に招待されたのは3度目さ。でも、今まで近くに控える人はあっても、揃いの燕尾を誂えるなんてことはなかった。」
 これがどういう意味か分かるかい、と訊かれ、京一郎は曖昧に微笑んだ。どういう意味かなんて、だから彼の所有物であると知らしめようと言うのだろう。
「君の不在は、彼の代理で視察に行った先で自動車が故障し、予定通り邸へ戻れなくなったということになっている。彼はそう招待客へ説明したし、私にも謝ってきた。ご自慢の甥御さんの晴れ姿をお見せできなくて申し訳ないと。」
 だから何だ。そんなこと、想定通りだ。
 そうですか、と言った声が素っ気なかったのだろうか。
 伯父は少し声を硬くした。
「庭に舞う蛍は本当に美しかったよ。・・・なぜ抜け出したりしたんだい。」
 つられて京一郎の態度も硬くなる。
「伯父さんは、おかしいとは思わないのですか。こんな時期に蛍を無理やり集めて。全て人間の慰みものにするだけの為に。」
「京一郎くん。」
「私は千家少将のやり方を好みません。あんな、生命を掌で転がすような。・・・人間はもっと、自然に従順に、神に逆らわず生きるべきです。」
 伯父はしばらく無言だった。
「確かに、神代の頃はそうだったろうね。」
 やはり硬い彼の声に、京一郎は、今の発言が伯父の事業を、彼の生き方を否定していることに気づく。
「しかし君も知らないとは言えないだろう、もはやそう言っていられる時代でないことを。私たちは進歩しなければならない。国を護るためには武器も作る。食糧とするためには動物でも植物でも管理する。」
 伯父の言うことは百も承知だ。この世界は、綺麗事だけで生きるにはもはや複雑に過ぎる。
 けれど――。
「潔癖では生きて行かれない。知らないふりをすることだってできるが、帝都で学んで桃木村に戻っても、そうしてゆくつもりなのかい?」
 京一郎は黙って唇を噛む。
「子爵は環境復元の研究に多大な援助をしている。蛍は綺麗な水がないと育たない。汚れた川を再生する事業に、彼は貢献しているのだよ。」
 殖産興業の推進により産業廃棄物で汚れ魚の居なくなった川を、再び生き物の住める場所にする、その研究の一環で蛍の他様々な動植物の飼育や促成も行われているらしい。もちろん軍事的な意図を含む研究が多いとはいうものの、夜会はその成果を披露する場でもあったというのだ。
「そんなこと・・・千家少将は一言も・・・」
 言わなかった。
 だが、京一郎も聞かなかった。あの蛍をどこから連れてきたのか。
 よくよく考えれば、まだ羽化していない時期にあれだけの量の蛍を集めること自体、できるはずもないことだった。蛍の成長を支配していることに変わりはないが、今の話を知っていたなら、ここまで憤ることもなかったのではないか。
「子爵は下の兄弟がいないとのことでね。」
 伯父は萎れる京一郎の肩をそっと叩いて微笑んだ。
「君は私の妹に似て少し気が強いかもと言ったら、若者ならではの"大"正論は聞いていて気持ちが良いと、楽しそうに笑っていたよ。」
 笑ったんだ、千家が。
 私の話を、楽しそうにするんだ・・・。
 いやいや、だって私は須藤伸彦の甥だから。それだけだから。
「万一彼が志半ばで倒れても、君がいれば国は安泰だとまで言っていた。彼の代理を務めさせたと皆の前で公言もしたのだよ。旭日昇天の上級将校が、会って間もない学生をそんな風に言うものだろうか?」
「それは、伯父さんは私の親戚・・・だし、それに大切な取引相手だからおべっかを・・・」
「そうかもしれないね。・・・けれど、君はもう少し、彼のことを素直に眺めても良いんじゃないかと私は思うのだよ、京一郎くん。」
 京一郎は伯父を見上げる。
「私も君とは血が繋がっている。若い人だからこその熱い思いも、少しは理解できるつもりだよ。だが、妙子に似て頑ななところは、もしかしたら君の長所を僅かばかり損なっているのかもしれないね。」
 そう言って彼は片目を瞑って見せた。

 千家邸へ到着すると、軍人たちの冷ややかな視線の中、京一郎は伯父と共に控え室へ通された。
 夜会自体は終わっているものの、まだ残っている客の相手をしているらしい千家は、すぐに現れなかった。
 壁に飾られた外国の画家の絵を眺めながら、伯父は小さく言った。
「私と彼の仕事の関係は君が気にすることではないから、私のために彼の下で学べとは言わない。だが、気に入らないと思うことがあったときは、感情的になる前に、一度周りを見渡してみると良いかもしれない。」
 そのとき、何人かの笑い声が聞こえた。
 最後の客たちがやっと帰るようだ。
 少しだけ開いている控え室の扉の隙間から、かなり泥酔したと思われる男女数名に囲まれ、玄関へと向かう千家の姿が見えた。
 着飾った男や女に肩を抱かれ、手を握られ、背を撫でられ、千家は微笑む。
 それがまるで、羽根の一枚一枚をゆっくり毟られる鳥のように見えて、京一郎は思わず立ち上がった。
「京一郎くん、座っていたらどうだい。彼はすぐには戻らないよ、きっと。」
 伯父の言うとおりだろう。
 しかし、戸の隙間から見える千家から、目を離せない。
(あの人たちに千家少将が何をされるか分からない。)
 夜会に出ていればよかった。そうしたら、もっと近くで、彼を見守れたのに。必要あれば、触れさせないようにだってできただろう。
 あんな人間、どうなったって知らない、その身に何が起ころうとも自業自得だ、そう思っていた気持ちは、いつの間にかどこかへ行ってしまっていて、残ったのは不安と焦燥であることに、京一郎は戸惑う。
 己が彼の側にいるのは彼のためではない。彼がどうなろうと知ったことではない、はずなのに・・・。

 馬車の音、車の音がすべて遠ざかり、騒がしかった廊下がしんと静まり返る。コツコツと足音が響き、戸がゆっくり開く。
「あぁ、須藤さん。折角ほろ酔い加減でお帰りいただいたというのに、お戻りいただいて恐縮です。」
 夜会の前から接客していた千家は、時間にすると半日近くしゃべり通し飲み通しだったはずなのに、疲れの欠片も見せず、いつもどおり優雅に微笑んだ。
「お帰り、京一郎くん。今日は災難だったね。」
 その猫の被りように、京一郎は腹を立てるどころか不安が募る。彼が役者のようにその場に合った表情、態度を取るのに長けているのはよく知っている。だけに、今いったい彼は実際どのような状態なのか。先ほど感じた印象は、彼の心身の具合が少なくとも良いとは言えないことを京一郎に伝えていた。例えばまた呪詛に当たっているとか、例えば千家を取り巻く人間たちの恨み嫉みその他色んな感情の混ざった何かに纏わりつかれているとか・・・。
「千家子爵、この度は甥がご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。折角目を掛けていただいている有り難みを理解するには、まだまだ若かったようです。どうか大目に見ていただけませんか。弊社も今後一層、力の限り国のため尽くしますので。」
 伯父は深く頭を下げた。京一郎も慌てて頭を下げながら、そっと上目遣いで千家の様子を伺う。
 あの意地の悪い目配せがあるかと思ったが、千家は困ったように微笑む。
「迷惑をお掛けしたのはこちらの方だ。車の整備が不十分だったのが原因です。寧ろ楽しみにされていた京一郎くんの晴れ姿をお見せできず心苦しい。」
 千家の膚は変わらず透き通るようだ。が、やや青白いようにも思える。酒が過ぎたのだろうか。
「あぁ、そうだ、京一郎くん、誂えた上着を着て見せて差し上げなさい。」
 千家が手を挙げると、家令が京一郎の燕尾服を持ってきた。
 それも、京一郎が脱ぎ捨てて行ったものだというのに、あたかも元から吊るされていたかのごとくアイロンが当てられている。
 京一郎が上着を着て見せると、伯父は満足そうに微笑んだ。
「やぁ。子爵と揃いの礼服など、望んで着せていた抱けるものじゃぁありませんよ。本当に、似合っているね、京一郎くん。」
 次の機会にはきっと彼を社交界の新星として有名にしてみせますよ、と言って千家は京一郎の肩を抱いた。

 伯父が邸を辞してすぐ、千家は無言で自室へ向かった。
 京一郎も千家の後について居室へ入る。
 千家は言葉を発さない。
 異様な雰囲気の彼に、京一郎は何と声をかけるべきか迷う。
 とにかく、夜会を勝手に欠席し邸を出たことは謝らねばなるまい。京一郎なりの理由はあれども、千家の面子を潰したことに変わりはないからだ。
「・・・・・・ぁあの、千家、・・・少将」
 書き物机に片手をついて振り向いた千家の顔には、生気がないように思われた。
「だ・・・いじょうぶ、ですか?」
「何が。」
 言いながら腰掛けようとした千家の身体が、ぐらりと揺れた。
「あ!」
 駆け寄って肩を支えようとしたが、京一郎の身体に掴まろうとしない千家はそのまま床に倒れ込む。咄嗟に身体をひねり、抱きながらもろとも絨毯に転がった。
「・・・・・・っ」
 強かに背中を打った。だが、それよりも千家の状態が心配だ。背中側から抱きしめるようにして上体を起こさせる。
「具合が悪いんですね?」
 千家は応えず、浅く溜め息をついた。
「窓、開けましょうか。」
「いい。」
 京一郎にぐったりと身体を預けたまま、千家は小さく言った。
「・・・なぜ、戻ってきた。」
「なぜって・・・」
 伯父に見つかってしまったからだ。それに、どうせ戻ってくるつもりではあった。千家が迎えに来たのなら。
「どこへ逃げたって、貴方は私を捕まえに来るでしょう?」
「ふぅん。私に捕まえてほしかったから、逃げたというわけか。」
 言われて、どきりとした。邸を出たときはそんなつもりではなかった。けれど、歩きながら京一郎が考えていたのは結局、千家に何と言ってほしいのか、何と言ったら許してやろうか、そればかりだった。
「そんなこと、・・・あるわけないでしょう。」
「あるわけない、か。そうだな。蛍ごときにあそこまで腹を立てていた。」
 蛍の件はただの酔狂ではなかったこと、謝るべきか。
 京一郎は肩に乗った千家の頭をそっと見つめる。
 視線に気づいたのか、千家が顔をこちらへ少し動かす。頬が当たりそうになり、どぎまぎしながら目を逸らす。
 そして彼の首元から漂う香りに、京一郎の身体は強張った。
 何度も膚を重ねて嗅ぎ慣れた彼のそれではなく、様々な匂いが混ざり合い、纏わりついている。甘ったるい香水の香り、整髪油のつんとくる香り、葉巻のふくよかな香り、酒のうだるような香り、そして男の匂い、女の匂い、それらの燻らせる、媚び、嫉妬、欺瞞、諂い、恨み、欲望、欲情・・・・・・。優雅で壮健な若き子爵を演じる千家の身体には、呪詛だけでなく様々な人間の情念が絡みつき、噛みつく。
「身体を洗った方がいい。立てますか。」

 千家が浴室へ行くと、京一郎は彼の脱ぎ捨てた燕尾服を手に取った。
 白熱灯の灯りの下輝く上着は、汗でぐっしょりと濡れていた。まだ朝夕は冷え込む時期、いくら室内が温められていたとはいえ、酒を飲んでいたとはいえ、こんなに汗をかくほどではなかったはず。
 伯父は千家がかつて人嫌いと噂されていたと言っていた。いま、人当たり良く、誰の前でも、国母の前ですらも臆さず堂々としてみせる彼は、本当は夜会を、社交の場をどう思っているのだろうか。
 だが聞いたところできっと、目的へ近づくための手順の一つだと答えるのだろう。それ以上の答えは、返ってきそうにもない。
 千家は蛍ではない、喩えるなら自由に空を飛ぶ鳥だと思っていた。けれど、彼は決して何不自由なく飛び回る鳥ではなく、その羽根を毟ろうとする人間たちの間を縫って、羽ばたいているに過ぎない。
 もし、今日、京一郎が千家と共に夜会へ出席していたのなら、少しは彼の不調も軽く済んだのだろうか。例えば京一郎が子爵気に入りの学生として、客人から彼に向けられる関心を少しでも逸らすことができたのなら、彼に纏わりつくあの嫌な匂い――嫌な気を、少しでも薄めることができたのだろうか・・・・・・。
「そんなに、私と離れていて寂しかったのか。」
 振り向くと、長い髪の毛から水を滴らせた千家が戻ってきていた。
「・・・何を仰っているのか分かりませんが。」
「ほう?ではなぜ、私の燕尾を大切そうに抱きしめている。」
 言われて、慌てて片手に持ち替えて突き出す。
「これは、・・・っ貴方が脱ぎ捨てて行ったから拾っただけです。さっさと衣文掛けに吊るさないと皺になりますよ、はい。」
 千家は燕尾服を受け取ると、ちらと見るなりまた床へ放り投げた。
「あ、ちょっと、」
 そして京一郎の腰を抱いて、寝台へ倒れ込む。
「千家少将!」
「それで?恋しくなって戻ってくるくらいなら、なぜ黙って出て行った。」
「・・・だから。別にそういうことじゃありません。」
「ふぅん?」
 幾分か具合が良くなったのだろうか。腕を押さえつけたまま、千家は京一郎の襯衣のボタンを外し始めた。
「やめて、ください」
「まだお前は質問に答えていないな。」
「・・・っぁ!」
 耳に触れそうなほど近くで囁く声に、京一郎の背は反った。襯衣が開かれ、露わになった膚に千家の濡れた髪が落ちる。
「さぁ。私も鬼ではない。お前の弁明を聞いてやると言っているのだ。」
 そう言って、ぺろりと耳を舐める。
 体内を上ってくる刺激に京一郎は身を捩じらせた。
「・・・ぅん・・・だって、」
 洋袴の内側が熱い。悟られないようにと閉じた両足の間に千家の足が割り込む。
「だって、なんだ。」
「・・・・・・」
 言うものか。己が蛍ではないと、千家にとってかけがえのない人間なのだと、そう思いたいなどとは。
「・・・っあ、ん!」
「何が不満だったのだ。あの蛍が可愛そうだと?」
 爪の先で洋袴の前立てを軽くなぞられただけなのに、もどかしい刺激は身体の中に増幅する。
「かわい、そう、ですよっ」
「っは。よもや本当にそんな幼子のような主張をするとは、流石に思わなかったな。」
 潤んだ目で睨みつける京一郎を、千家は冷めた瞳で見下ろした。
「だって・・・んんっ!」
「ほう、続きがあるのか。」
 ふ、と耳に息を吹きかけられ首を竦めた拍子に、足が動いて千家のものに当たった。そちらも京一郎同様熱を帯びており、そのことが尚更身体を熱くする。
「誰かの思うとおりにされて、替えはいくらでも・・・んぅ・・・」
 見下ろす千家の表情が、影になっていて分からない。
「・・・だって私は、貴方の影響を受けながらも、・・・ぁう」
 焦らすようにゆっくりと千家は洋袴の前立ての釦を外す。それが気になって、京一郎は己の口から出る言葉に注意を払えない。
「・・・私は、・・・蛍なんかじゃない・・・」
「京一郎?」
 千家の手が止まった。
 止めないでほしい、と京一郎は思う。言うから。心に思っていることを。
「貴方が、そう言ってくれるなら・・・」
 京一郎は、恐らく怪訝そうにしている千家の顔を、切なく見つめ返す。
「・・・私は貴方の羽根を毟る人たちから、貴方を護りたい。」
 自分でも何を言っているのかわからない。言いたいことが頭の中でまとまらなくて、本当は伝えたいことと、だが言ってやるものかと思っていたことが、どれだったか混乱している。
 千家はしばらく無言だった。
 やがて、押さえつけていた京一郎の腕を解くと、小さく訊いた。
「・・・口付けて、欲しいか。」
 京一郎は、頷く代わりに目を閉じた。
 熱い膚から立つ香りは、千家の匂いだけだった。

* * * * *

 翌朝、英国フォトナムアンドメイスン社のアッサム茶を啜りながら、千家は言った。
「来月、A伯爵家で夜会がある。お前も来るか、京一郎。」
「・・・・・・来い、じゃないんですか。」
 いつだって彼の言葉は命令ではなかったのか。いつもと違う口調に京一郎は首を傾げる。
 千家は新聞から目を上げず応えた。
「お前は蛍ではない。」
「・・・・・・え?」
 彼の口から、そんな言葉が出るとは思ってもみなかった。確かに、そう言ってほしいと思ってはいたけれど。
(昨夜、私はなにか言ったのだっけ?)
 思い出せない。勝手に夜会を欠席した理由を問い詰められ、追い詰められて自分でもよく分からないことを口走ったような気もするが、いったい何を言ったのか。
 ただ、そのあとの千家がいつもよりも少しだけ優しかったような気がする。今朝目覚めたとき、彼と目が合ってうっかり赤面してしまった。
(そしたら、軽く口付けられた・・・)
 思い出してまた顔が熱くなりそうになる。京一郎は立ち上がると窓に寄り、硝子に触れて火照りを醒まそうとした。
「羽根を毟ろうとする輩から、私を護ってもらわねばならないからな。」
 千家の言葉に、朧げながら記憶が甦る。
 言うものかと思っていたのに、うっかり言ってしまったのだ。蛍ではないと言ってほしかったこと、千家を取り巻く様々の情念から彼を護りたいと思ったこと。
 一笑に付されるかと思った。或いはそんな言葉に意味などないと言われるかと思った。
 けれど千家は、何も言わずにただ口付けたのだった。

「京一郎。」
 不意に呼んだ彼の声が甘く、目を上げた彼の微笑みが優しかったから。
 京一郎はまた赤く染まる頬を隠すようにして窓を開ける。
「・・・・・一緒に行ってあげてもいいですよ。貴方が昨夜みたいに体調を崩しても仕方ないですから。」
 千家はくすくすと笑いながら、立ち上がって京一郎を後ろから抱きしめる。京一郎は少しだけ、身体を背中の温もりに寄せる。
「A伯爵様は、どんな方なんです?」
「眉目秀麗と名高いが、少々変わり者と噂されていて――」

 窓の外に見える桜の木の蕾が、膨らみ始めていた。


<了>
  ご読了お疲れ様でございました。

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