凍れる野花


 館林伯爵が武装した隊を引き連れて邸を襲った、まだ肌寒く甘い風ほの香る春の夜。
 慌ただしく神職十四家の方々が出立され、主人と客人の柊様は隠し通路から出てゆかれました。

 家人らは、いったいこの家はどうなってしまうのだろう、また主人に万一のことがあった場合、自分たちの身の上はどうなってしまうのだろうと、ただただ、息を潜めて怯えるばかりでした。

 まんじりとも出来ずにいるうちに夜が明けて、朝食の時間になっても、しかし主人は帰宅しませんでした。
 私どもは不安を抱えたまま、しかし危害を加えてくる軍人がもういないことに僅かばかり心を撫で下ろし、壊れた建具の修理や片付けを始めたり、昼食の準備をしたりしておりましたが、皆、いつまで待っていればよいのだろうと、口にしないでも同じことを考えているに違いありませんでした。

 こんなときにふと、私は玄関ホォルに飾る花を取り替えようと思い立ち、居間より廊下へ出ると、異様な気配を感じて身体が動かなくなりました。なにか恐ろしいものがやって来るような、そんな恐怖が足裏から ぞくぞくと湧き上がってくるような気がしたのです。
 家令として面目もないことでしたが、どうしても足が動かないものですから、私は仕方なく息を潜めて様子を見守っていました。
 すると、ぎぎ、ぎぎ、とぎこちなく音を立てながら、扉が開きます。
 私は主人が帰って来たのかと思い、恐怖と僅かばかりの安堵をそれぞれ覚えながら、震える脚をなんとか引き摺って扉に近づきました。

 逆光を背に、まず見えたのが黒い外套でした。私は、あぁ主人が無事に帰ってきた、とホッとして声を掛けようとしますと、 片手を上げて制されました。
「今日は一日、千家伊織の私室には近づかないでください。」
 その声を聞いて初めて、私は主人と客人の柊様を見間違えていたのだと気付きました。
 柊様は、血に塗れた着物の上から、主人の外套を羽織っていたのです。
「柊様、湯の用意をいたしましょう。」
 私の提案に柊様は首を振り、必要なときには呼ぶから、とだけ答えて、主人の私室へ籠ってしまいました。

 主人の身に何か起こったのは明らかでした。
 なぜ主人ではなく柊様がお一人でお戻りになったのか、そして柊様はなぜ主人の外套を着ているのか、血に塗れたお姿でいるのか。訝しくも思い、また一方で何が起こったのか想像するのも恐ろしく、私はただひたすら、柊様がお呼びになるのを待ちました。
 他の家人どもも同じ思いだったようで、ひそひそと話し声がするのを、私はいちいち捕まえて黙らせました。主人はひそひそ話を好んではいないようでしたし、何より私どものよく知らない客人が、異様な雰囲気を湛えてまるで主人のようにこの邸へ戻ってきたのですから、下手に刺激をしたら斬り捨てられてしまうかもと思ったのです。

 お戻りになって半刻ほどしてから、柊様からお呼びがありました。
 私は少し遅い中食を持って、主人の私室へ向かいました。
 柊様は何か文をお渡しになり、「昴后陛下へこれを。私は穢れに触れたため、筆跡が玉体に触れぬよう文面は侍従長より言上奉るよう」と仰いました。その様があまりに主人のようでありましたため、私はやはり目の前にいるのは主人なのかと何度か瞬きしてみましたが、そこには氷のように美しい子爵ではなく、見るに不憫なほど憔悴してやつれた、まだどこかあどけない青年が虚ろな目で佇んでいるだけでした。
 主人に何があったのか、深く尋ねることが躊躇われ、私はとにかく中食を召し上がるようお勧めしました。しかし、それに応えることなく、下がってください、とひと言だけ発して、それきり柊様はこちらを見てもくださりませんでした。

 夕餉の支度はしたものの、部屋に近づくことは禁じられていたので、私どもは再度やきもきしながら、柊様がお呼びになるのを待っていました。
 もちろん、通常ならば私どもが従うべきは主人であり、客人の言いなりになるものではありません。ですが、神職の方々もいらっしゃらず、また連絡を取ることもできないでいる今、主人の安否を含めて事情を知ると思われるのが柊様しかいらっしゃらなかったため、自然と私どもは柊様の言動に注視せざるを得なかったのです。

 夜も更け、十時を過ぎた頃でしょうか。
 侍従長より柊様宛に文が届きました。
 私はその文とやはり遅い夕餉とを持って主人の私室の扉を叩きましたが、お返事がありません。何度か戸を叩いたり、お呼びかけしたりしたのですが、お声どころか部屋の中に居る気配すら感じられないので、私は思い切って扉を開けました。
 果たしてそこに、柊様のお姿はありました。昼過ぎに邸へ戻ってきたときのまま肩に外套をかけて、主人の文机の前に跪き、椅子に頭を乗せて眠っていらっしゃるようでした。
 疲れてお休みになってしまわれたのでしょうか。
 そっと近づいてみますと、別珍の座面は見るからに湿っており、また柊様のお顔は目の周りを中心として赤く腫れています。
 時折しゃくりあげるように苦しげな息をして、汚れた主人の外套ごとご自身の左腕を抱き締める柊様があまりにもお辛そうなので、私は声をお掛けしようとしました。
 そのとき、息に紛れて漏れるお声が、「伊織。」と囁くように主人の名を呼んだのを、確かに聞いたのです。
 それはあまりにも寂しく、切なく響き、それで私は、ああ、主人はもういないのだな、と理解したのでした。

 しかし同時に、少しばかり、不思議にも思いました。
 と言いますのも、事情を知らぬ私どもから見ても、主人に連れられてこの邸へ来たことが、そもそも柊様の意に反していたのははじめから明らかで、ほとんど無理矢理に伽もさせられていらしたようでしたし、ですから、その主人が居なくなってしまったら、こうして柊様がこの邸へ戻る理由などないように思われたからです。

 しかしながら兎にも角にも、侍従長からの文は早くお渡しせねばならぬと思い、私はそっと柊様の側へ寄って声をお掛けしました。
 ぎょっとしたように目を開けられた柊様は、私から文を受け取るとすぐに中を確認され、そして深く、深く、溜息を吐かれました。
「お夕食を、お召し上がりになりませんか。」
 色よい反応は期待せず、恐る恐る伺いますと、意外にも柊様は、小さな声で「そうですね」とおっしゃいました。
 そして、私に侍従長からの文をお渡しになります。読め、ということでしたので、震える手で開いて見て、私は危うく文を取り落とすところでした。
 驚きのあまり声が出て来なかった私は、やはり怖々柊様のお顔を見上げることしかできませんでした。
 柊様は虚ろな目で私を見つめ返していらっしゃいましたが、それはまるで、急に動き出したこの運命の歯車を前にして途方に暮れているようにも見えました。

 何と言葉をお掛けするべきか、私にはわかりませんでした。ただ、この野花のような、まだどこかしらの無垢さを残す青年が、主人の歩んできた荊のような道をまるごと引き受けて、ひとりきりで進んで行くことに、なんとも言いようのない寂しさを感じたのです。
 そんな気持ちが私の顔に出ていたのでしょうか。
 私をうっそり見つめたままの柊様の片方の目から、一筋涙が零れました。
 一瞬それは、まるで雪解けの細流のようにも思われたのでしたが、ややあってからゆっくりと震える息を吐いて目を閉じた柊様が、再び瞼を上げられたとき、その瞳は青白く輝いていたのです。
 それは、静かに、しかし激しく燃える、主人の瞳にそっくりでした。

「そういうわけだから、今日この時をもって私は千家伊織の養子として家督、地位、財産の全てを受け継ぐ。今後邸の家人らは千家伊織に替わり、この千家京一郎に仕えるように。」
 そのお顔には先ほどの涙にうち震えていた様子は欠片も残っておらず、お声はひたすらに凍りつくようだったのを、私はよく覚えております。
 そうして私どもの主人となられた京一郎様は、その夜のうちに前の主人の服を点検し、使えるものはそのまま、必要あれば簡易に丈を詰めさせ、前の主人そのままの装いを整えて、翌朝早く、昴后陛下へ謁見、続いてその場に要人を集めて館林伯爵による襲撃及びそれによる前の主人の死を報告し、そしてご自身のお披露目をやってのけられたということでした。


 実兄が鬼籍に入り、子の居なかった兄に代わって家を継いで欲しいと義姉から呼び戻されて郷里へ帰るまでの二年間、私はこの新しい主人に仕えました。
 日を追うごと相貌も佇まいも前の主人にそっくりになってゆかれた京一郎様は、しかし食事を摂るのを億劫がったり、突然苦しんで大声を上げたりということがありませんでしたから、家人らは前の主人より安心して仕えていたように思います。年若いこともあり、私も少しだけ気を楽にお仕えしていたのは本当でした。
 ですが、心通う会話をするようなことは、ほとんどありませんでした。京一郎様は前の主人より一層職務に励まれ、居間や居室で寛ぐところを見せることなどは一度たりとてなかったのです。
 辛うじて寛いでいると判じてもよいと思われたのは、どういうわけかご自身の左腕を押し戴くようにして、そっと何事か呟いておられるときだけでした。それでさえ、京一郎様を知らない者からすれば、気の触れたようにしか見えなかったことでしょう。

 一度だけ、その呟きが聞こえてしまったことがありました。
 あれは、京一郎様の軍におかれる階級がまたひとつ上がられたときでしたでしょうか。寝る前のお茶を淹れてお出ししたところ、珍しくもう一杯とお代わりを所望されたのでした。少し嬉しくなった私は、茶葉を替え、いつもより丁寧にお茶を抽出いたしました。
 その、ほんの僅かの間に、どうしてか私が側に居ることを失念されたのでしょう、京一郎様は左の掌に新しい儀礼用の階級章を掛け、うっとりと見つめられました。寝る間を惜しんで励んではいらしたものの、地位や名誉にはこれまでまったくといっていいほど頓着していらっしゃらなかったため、私は少し不思議に思いながらそっと見守っておりました。
 すると、京一郎様は煌びやかな階級章を掛けた手を大切そうに右の手で包み、左の薬指にじっくり口付けると、唇を触れさせたまま、確かにこうおっしゃったのです。
「貴方の夢見た世界に、また一歩近づきましたよ、伊織。」
 その声は、向けられていない私の心すらも溶かしてしまうかと思うほど甘く、まるで目の前に前の主人がいて、睦言を交わしているかのようでした。
 心を奪われて陶然としながら私がカップを持った、かちゃりという音と共に、京一郎様の甘い雰囲気は消えました。そして新しいお茶をひと口啜られると、あとはいつも通り言葉なく、右手でつと退出の指示をされたのでした。

 あれほどまでに美しく聡明で財にも恵まれた前の主人は、しかし確たる目的を一心に見据え妥協を許さなかったため、ゆえに魅入られたように寄ってくる者はいたものの、真に心を許し合う相手など居るようには思われませんでした。
 しかし、その彼の意気揚々と連れ帰った山出しの学生が、彼を失って涙を流し、総てを飲み込んで継承し、彼の想い描いた道を行く姿を、短いながらも側で見ているうち、私は、私どもへ笑いかけることも心を見せることもしなかった亡き主人が京一郎様を得られたのは、真に心から喜ばしいことであったのだと感じるようになりました。また同時に、かの主人が京一郎様と共にあった時間がかくも短くあったことに、なぜ運命というものはこうも非情であるのかと、どこかにいらっしゃる神様、仏様に問いただしたい気に駆られるのです。

 季節の折に触れて近況をお伝えする葉書などをお送りしても、返ってくる文はその時邸にいる家令からの通り一遍なもので、いまもう京一郎様のご様子を直接知ることはできそうにありません。ですが、この頃の戦況を伝える報道記事には、『鎧袖一触百戦百勝、生軍神千家あれば大日本帝国に憂いなし』との文字が踊り、その名を見つけるたびに私は、京一郎様はひとりきりでなく、きっと前の主人と共にお国を護ってくださっているのだと感じます。
 そして帝都に向かって手を合わせながら、野花のような青年が美しく凍っていったあの春の夜を思い起こし、するとどういうわけか、老いた頬にはらはらと涙が零れるのでした。

  生軍神とは褒めてるんだかけなしてるんだかという感じですね。


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