コヒステフ 1


 もう日が変わろうかという時分。土砂降りの雨の中、二つの傘がいそいそと路地を進む。
 辺りの住宅の灯りは落ちてひっそりとしており、雨音だけが攻撃的にアスファルトを打ち鳴らしていた。

 後ろについて歩いていた初老の女がふと、小刻みに動かしていた足を止め、小声で前を歩く傘を呼び止めた。
「ちょ!せんせ、どうしましょ!こんなところに美少年が落ちてます!」
 色白で長身の男が振り返る。黒髪は長く背を覆い、整った顔立ちはうっかり性別を見誤るほどだ。
 女が和装コートの袂を押さえながら指差す先には、若い男がひとり、雨が強く降る中不敬にも路傍の神に寄りかかって眠っている。髪の毛も服も水浸しで、しかしこの雨音に目を覚ます気配もない。
「落ちてるって・・・あぁ、これは飲み潰れているな。さしづめ、大学のサークルかなにかで、飲み会の後、見捨てられたんだろう。可哀想に。」
 長髪の男はさして興味も無さそうに言う。
「伊織せんせ、そう思うなら、一旦お屋敷に連れて行って介抱してあげましょうよ。」
 女は少し楽しそうだ。しかし、先生と呼ばれた男は嫌そうに背を向ける。
「厭だ。面倒臭い。」
「せんせ!そんなこと言わないの。こんな雨の中放っておいたら、風邪引いちゃいます。」
「声が大きい。」
「下手したら死んでしまいます。知ってて何もしなかったら、せんせは人殺しになっちゃいますよ!」
 抗議にも屈せず弾丸のように騒がれ、ついに折れた男は濡れて顔に貼り付く髪をかき上げながらぼやく。
「パトロン方に散々媚を売って、帰り道には雨に降られ、そのうえ知りもしないどこぞの学生を背負って帰らねばならないとは、今日は厄日だな。」
「さすがぁ!伊織先生カッコいい!! よ!色男!」
 男は傘を閉じて女に渡すと、また着物を洗いに出さねばならないな、と小さく呟いた。
「くっ この学生、見た目より重い・・・」
「頑張れ!頑張れ!」
 女は背の高さが足らないため、傘を差してやれないようだ。声援だけに守られながら、力も抜けてただただ重たい濡れ鼠を背に担ぎ、男は道を急ぐ。雨脚が弱まる気配はない。

 やっと邸へ辿り着くと、家人の男が慌てて出てきた。
「伊織先生!なんと!ずぶ濡れではありませんか。トメさん、何故こんなことに?!」
「イケメンを拾ってきたのだから、仕方ないのよ。」
「どうでもいいから、早くこいつを運んでくれ・・・」

* * * * *

「う・・・ 」
 目が覚めると、見覚えの無い天井が見えた。
(ここは一体・・・?昨夜は・・・)
 思い出そうとしても、重たい頭は意識を巡らしてくれない。
「うぐ」
(頭痛い・・・)
 どうせろくでもないだろう記憶を取り戻すのは後回しにして、なんとか首を動かし、状況を把握しようと努める。
(あれ?この人誰だろう)
 横に、和装の人物が横たわっている。身体の大きさから、男性のようだ。気付くと自身は清潔な浴衣に身を包み、布団にくるまっているが、一方の彼は浴衣姿ではなく、長い黒髪を散らして力尽きたように畳に転がっていた。

「あら、目が覚めました?」
 すっと障子が開いて、初老の女性がにこやかに入って来る。ここはどうやら、どこかの屋敷の中であるらしい。
「あの、私は・・・」
「昨日の夜、先生とお邸に帰る途中、道端で寝てたんですよ、あなた。雨に打たれて。」
「ふわわ・・・」
 だんだん思い出してきた。
 昨夜は大学の部活の飲み会があって、新しい後輩の前で見栄を張って飲みすぎたんだっけ。
 2次会でなんだか頭が痛くなって吐いて、帰りは雨が降っているから気を付けろよと仲間と怒鳴りあって、その後はもう思い出せない。
「そのままにしてたら、肺炎か、悪くすると死んでしまうって先生のお尻を引っ叩いて、お邸に連れてきたんです。あ、先生が背負ってくれたんですよ。お服もびしょびしょだったから、先生に替えてもらいました。私はやってませんから安心してね。勝手にごめんなさいね。あ、お家の人には早く連絡してあげて。これから朝食を出しますから、ちゃんと食べてからお帰りになってね。」
 母親より少し歳が上だろうか。おっとりと優しく喋る彼女に、なんだかほっとさせられる。
 よく見回すと、身につけていた衣類はハンガーに掛けて、衣桁に吊るしてあった。床の間には、見事な紫陽花が生けてある。
「ご迷惑をおかけしまして、本当になんと言ったらいいか・・・」
「せんせ!伊織せんせってば、朝ですよ。」
 女性は手拭いをぱたぱたとやって、転がる和装の男性の顔に風を送る。
「うぅ・・・」
「美少年が起きましたよ。」
「えっ」
 思わず叫んだ声に、煩いとばかり頭に手をやって、男性はのそのそと起き上がった。
「・・・・・・。」
 寝起きで不機嫌なのだろうか。無言でよろよろと部屋を出て行く。
 そんな様子に構いもせず、女性は楽しそうに言う。
「あなた様、顔、洗います?それともシャワー浴びます?」
「とんでもない!・・・あ、でも、大変恐縮なのですが、・・・洗面所だけお借りしてもいいでしょうか?」
「そこを出て、左ですよ。はい、タオル。」
 これから言うことを先読みしたような手際の良さだ。
「何から何まですみません。」
「それにしても、伊織せんせ、人のいる部屋で寝ちゃうなんて珍しいこと。」
 女性は独り言を呟きながら、てきぱきと布団を片付け始めた。
(いおり先生って、さっきの人のこと、かな・・・?)

 顔を洗ってすっきりした後、朝食をご馳走になりながら肝心なことを聞き忘れていたことに気づいた。
「あの、・・・えと、ここは、どちらのお宅でしょうか。」
「千家さんのお家ですよ。」
 女性はにっこり微笑んで答える。しかし、聞きなれない響きに漢字が思い浮かばない。
「せんげ、さん・・・」
「華道の千家流ってご存知?千の家って書くの。先生のお家なんです、ここ。」
 成る程、確かにそんな趣きを感じる邸宅である。
「千家流・・・。では、先ほどの髪の長い方も、お華を?」
「あの人がお家元の、伊織先生ですよ。」
「えっ!」
 家元というと厳格な雰囲気の老人というイメージがあったので、驚く。先ほどの男性は、学生とまではいかないものの、自分と一回りも年が離れていないように見えた。
「ごめんなさいね。朝は弱くて。」
「いえ、そんな。・・・あ、名乗り遅れました。私は帝都大学2回生の、柊京一郎と申します。改めましてこの度は大変ご迷惑をおかけしましてすみませんでした。また大変お世話になりまして、ありがとうございます。」
「あらあら、ご丁寧に。私はここで住み込みで働いています。トメと呼んでくださいな。ほらほら、冷めないうちにまずはお朝食。」
 促され、鮭の塩焼きを柔らかめに炊かれた米と一緒に頬張る。味噌汁が、臓腑に染み入る。
(華道、かぁ・・・。)
 今まで縁のなかった世界だが、もとより伝統的な美術には興味がある。大学生活も2年目に入って随分慣れたし、ここらでバイト代を習い事に注ぎ込むのも悪くないかもしれない。
「あの、トメさん、参考までにお伺いしますが、こちらの教室のお月謝は、おいくらぐらいなんですか?」
「クラスなら月4回のお稽古でこのくらい、毎回のお花代がこのくらい。」
 トメが指で数字を示す。やはり、そう安くはない。学生の身分で毎月気軽に出せる金額ではない。
「個別教室はまた変わってきますけど。でも初心者の学生さんなら、お花代込みでこのくらいでいいですよ。」
「えっ!?本当ですか?」
 そのくらいなら、なんとか工面できないこともない。少し食事代は節約してみた方がいいかもしれないが。
「ええ。ただ通常クラスと扱うお花も変わりますけどね。高級華道教室と思われるかもしれませんが、なかなかこれで苦しいんですよ。お屋敷だけは立派ですけど。」
「そうなんだ・・・」
「良かったら、体験教室に参加してみます?お花代込み1,000円で、通常クラスのお稽古を受けられますよ。結構、気軽に体験にいらっしゃる方多いし、気が向いたらお電話くださいね。」
 食事の後、改めて家元にお礼を言いたいと主張してみたが、朝は機嫌が悪いから声を掛けなくていいと止められた。
 帰り際、ふと中庭に目をやると、庭を挟んで向こう側の部屋で花と対峙する家元の姿が見えた。先ほどの不機嫌さを感じさせない、穏やかな眼差しを花に注ぐ長身の男。何故だかもう一度会いたいと、そう思った。

* * * * *

「ここのエスプレッソがさ、染みるんだよ、心に!」
 普段は新宿から総武線に乗って真っ直ぐ帰るところ。課題のレポートが済んでいないから早く帰りたいと訴える京一郎を無理矢理地下鉄に乗せて喫茶店へ連れてきた野々村は、うっとりと目を閉じ、拳を自分の胸にそっと置く。
「君は苦いの嫌いじゃなかったっけ?」
「え?俺、そんなこと言った?それよりほら、はいろーぜ!」
 若干うんざりしながら京一郎が溜息をつくのも気にせず、野々村はいそいそとドアに手を掛ける。
「いらっしゃいませー
2名様ですかー」
 癖の強い後ろ髪を軽く結わえた青年が、死んだ魚のような目をして出迎えてくれた。
「おいワカ、もっと元気に声出せ。お客さんが不快になんだろーが!」
 カウンター内から怒号が飛ぶ。
「・・・・・・。
お二人様ですと、只今のお時間はカウンターでのご案内となりまーす」
 怒声を無視して、事務的に席に案内される。
 椅子に座ると、色の薄い長髪を無造作に束ねた大柄の男性が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい。バイトがやる気無くて悪いな。ゆっくりしてってな。」
「マスタァ、エスプレッソ!ダブルで!お前はなに頼む?」
 こなれた体でさっさと注文を済ませた野々村が、急かすように言う。どうやらこの大柄の男性が店主のようだ。
「えぇ? まだメニューもちゃんと見てないのに・・・」
「いい、いい。ゆっくり選びな。おいワカ、新しいお客さんだ。メニューの説明してやれ。」
 マスタァはひらひらと手を振り、バイトを呼びつける。
「当店のオススメは、マスタァ特製ブレンドになりまーす
やや苦味強め、酸味は抑えてコク深く、ほんのり桃の香りと甘みを感じていただけまーす
50円足せばカフェオレにもできますので仰ってくださーい
アイスはさらに50円プラスになりまーす」
 バイトの説明から熱意は感じられないが、よく通るいい声で分かりやすい。
「あ、じゃあそれで、カフェオレのホットでお願いします。」
「だってよ、マスタァ。」
「おい、ワカてめぇやる気あんのか!」
「お水をお出ししまーす」
「ったく・・・」

 少し待って出されたカフェオレは、確かにどこか桃の香りが感じられ、ほんのりと懐かしい気持ちになった。
「な、柊。こないだ飲みの後、ちゃんと帰れた?」
 今更だが、野々村が心配そうに聞いてくる。
「もう、散々だよ。調子に乗った私が悪いのは分かってるけど、あんなに飲んだのは初めてだったのに、誰も止めてくれないし。」
「悪い。俺も後輩の女子に気を取られてて気づかなかった。で、なんかあったの?」
「土砂降りの道端で寝てたらしい。」
「えっ?夜通し?」
「いや。助けてくれた人がいて、気づいたら立派なお屋敷の布団の中にいた。」
「マジで?!なにその物語的展開。」
「で、私の横に、すごく綺麗なイケメンが寝てた。」
「・・・え?」
 京一郎の一言に、野々村は凍りつく。
「や、倒れてたって感じかな。私を背負って部屋まで連れてきて、濡れた服を着替えさせて布団に入れたとこで力尽きた、みたいだった。」
「・・・・・・」
「野々村?」
「何も、されて、ないよな・・・?」
 目を潤ませて、肩を揺さぶってくる。
「何も、って、何を?」
「だぁかぁらぁ!」
「うん?」
「ひ、ヒワイなコトとか、そういうの!」
「なんで?」
「あああ!もうっ!!」
 野々村は頭を抱えて苦悩したかと思うと、ちびちび舐めていたエスプレッソを一気にあおってむせ込んだ。
「ちょ、野々村、どうしたんだよ?落ち着いて。」
「くぅおぉぉ・・・」
「ん?」
「くぉれが、落ち着いて、居られるかぁぁぁ・・・」
 やや涙目の野々村を不思議そうに見つめながら、京一郎はカフェオレを啜る。
(ちょっと砂糖が欲しいかな。)
 カウンターを見回しても、それらしき器が見当たらない。
(まぁ、いいか。)
 今日は素材の甘みを楽しもう、そう思ったとき、コトリと砂糖壺が目の前に置かれた。
 振り向くと、バイトがそっぽを向きながら呟いた。
「・・・なんか、用があったら、・・・呼んでくれ。」
 その態度とは裏腹に、意外と気の利くタイプなのかもしれない。
「ありがとうございます。」
 微笑むと、バイトは照れ臭そうに頭を掻いた。
「おいワカ!油売ってねーでこっち手伝え!」
 ぎこちなく微笑んでいたバイトはマスタァの大声に舌打ちをして、カウンターの中へ入る。
(変わった人だな。)

「あ、そういえば野々村、華道ってやったことある?」
 カウンターに突っ伏す友人に、安否確認を兼ねて声を掛けてみる。
「んー?ないけど。」
「そっか。ちょっと、習ってみようと思ってるんだよね。」
「月謝高いんじゃね?」
「学割のある教室見つけたんだよ。今度体験に行ってくる。」
 少し面白くなさそうにする野々村。
「ふーん。女子多そうだなー。」
「かもね。うちの部は女子少ないから、ちょっといいかも?」
「ぬぬぬ!俺も行くー!」
 がば、と飛び起きて宣言する。
「え?なんで?」
「俺は行くっ!いつ?体験教室の日は!」
「あー、そういえば聞くの忘れたなぁ。」
 野々村は京一郎の肩をつかむと、強く言った。キメ顔で。
「行くなら俺も誘ってくれ。忘れずに!」

  野々村氏、捏造気味?ゲーム本編でミサキが言うほど悪い奴ではありませんのでご安心を(笑)。桃木村出身のトメさんには千家さんちで働いてもらってマス。もう一人の男性は、言わずもがなデス。ワカくんの態度については、いずれ説明します。

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