平安パロディ(タイトル未定) 1
「いっ・・・」
顔に当たった枝が、目蓋の下を切った。
が、構っている余裕はない。必死に腕を振り、駆ける。
翻る袖が風を含んで無駄に重い。水溜りを踏んだから、指貫の裾も濡れて重い。
いっそのこと脱ぎ捨ててしまうべきか。
いや、もう少し、もう少しだけ。
父と母が方々駆け回り揃えてくれたもののほとんどが奪われてしまったけれど、せめて身に着けているものだけは。
「っは、はぁ、・・・っぐ」
一瞬後ろを振り向く。
追ってくる気配はない。
しかし、追ってきていないという保証もない。
とにかく、どこかの屋敷にたどり着くまでは。
屋敷でなくともいい。下人の小屋でも何でもいい。
とにかく、誰かいるところへ。
せめて月明かりでもあれば、少しは心強かろうものを、あいにくの曇り空は足元に導をくれない。
そういえば今宵は、そもそも月の出る夜であったか。
思い出せない。
頭が締め付けられるように痛い。
血の巡るのが速すぎて、喉が詰まりそうだ。
「あっ」
木の根か何かに、裸足の指が絡まって、転びかける。
烏帽子が落ちたようだ。
咄嗟にまた振り向く。息を殺して、追手の気配を探る。
風もない静かな森に、草いきれが立ち込める。
どうやら、追手は諦めたようだ。
細く、震える息を吐く。
手探りで落としたものを探し当て、頭に乗せる。
こんな暗闇の中、烏帽子を被っていようがいまいが、そんなこと誰も気づきようもなかろうものを。
そう、誰も気づかない。
・・・誰も。
そう思ったら、気が緩んで涙が零れた。
なぜ。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
地方貴族の両親に見送られ、都に勤めている親戚を頼りに十日前、意気揚々と出立した。
殿上人を目指すなど恐れ多いが、多くの貴人、有識者の溢れる都で学ぶことを考えると、胸が高鳴った。
あと少し。今宵寝て目覚めたら、きっと京の都を眺められるほどのところまで来ているはず。
月の位置と地図を見比べて、計算どおりに行程を進んでいたというのに。
牛車の中でうつらうつらとしていたとき、外がざわめき、御者の悲鳴を聞いた。
様子を窺うと、付いてきていたはずの従者は軒並み、血の海の中に倒れていた。
刀を取り、賊と刃を交えた。だが、相手は闘い慣れしており、また数も多かった。
多くの人の手により時間と財をかけて準備された品々を、誰とも知らぬ者が持っていこうとしている。
一族の期待を背負って出てきたのだ、奪われてなるものか、と思った。
しかしそのとき、父の言葉が耳に甦った。
――己の命を擲ってでも護るものがあるときは、捨てよ。しかし、不必要に命を捨てることは許さぬ。
殺すことも厭わずに刃を向けてくる相手など、これまで見たこともなかったし、考えたこともない。剣の練習は、あくまで嗜みであって戦うためではなかった。
ここで戦っても、間違いなく殺される。
殺された上に、すべて奪われる。
ここで命を失っても、父や母、妹を護ることができるわけではない。
死ななければいつかは、失ったものも再び手に入れられる時が来よう。
だから、逃げた。
殺されないよう、逃げた。
「私は・・・まだ、生きているのだろうか。」
暗闇の中、頬を伝う涙と、その涙が切り傷をちりちりと焼く感触だけが、己にまだ温もりがあることを伝えていた。
立ち上がる。
ここに蹲っていても、今度は野犬に襲われないとも限らない。別の野盗が潜んでいるかもしれない。
とにかく、安心できる場所へ行かねば。屋根のあるところ、多少朽ちていてもいい、どこか建物の中へ。
転んだ時に捻ってしまったのだろうか。左足首がずきりと痛む。
沓などもとより履いていない。足の裏も、傷だらけだ。
追われていたときは必死で気づかなかった様々な痛みや疲れがじわりじわりと溢れ出て、気力を奪おうとする。
明日には到着の予定だったのだ。とにかくどこかの屋敷から親戚の家へ文を遣って、到着が遅れることを伝えなければならない。無駄な心配はかけたくない。これから世話になる家に、悪い印象を与えたくない。
「・・・といって、この格好では良い印象など、抱くはずもないか。」
吐いた溜息に紛れてその時、とと、と小さな音が聞こえた。
それはまるで、木床の上を指でたたいたような軽い音で、足を踏み出すとかさかさと葉擦れの鳴るこの藪の中には似つかわしくないように思われた。
「疲れているんだ、きっと。」
幻聴だと思った。屋敷に焦がれるあまり、碁でも打っているときのことを思い出したのだろう。
しかし、また耳元で響いた。
とと、とと。
碁を打つ音ではない。なにか、動物の足音のような。
しかし、家畜にしては軽い。野生の動物は、こんなに近くまで寄ってくるものだろうか。
それよりこの音が不自然だ。
栗鼠や山鼠が枝を渡るのであれば、葉擦れこそすれこんな音など聞こえない。音がするほどとなると、それなりの大きさがあるはず。
しかも、耳元に鳴るとはいったいどういうことか。
「・・・もしかして、化かされているのかな。」
化かしているのでもいい、気づいたら木の洞の中に居たという落ちでもいい、とにかく、どこか人を感じられるところに導いてくれ。この張り詰めた気を緩ませてくれるのなら、もうなんだっていいから。
音を頼りに足を進めているうちに、ぼんやりと大きな屋敷が見えてきた。
これは祈りが通じたかと、落ち込んでいた気が少しだけ明るくなる。自然、歩みも速くなる。
小さな篝火が見えた。廃屋ではないようだ。
灯りがこんなにも心強いものとは、これまで考えたこともなかった。建物があるということや眠れるということよりも、灯りがあるということに、誰かの温もりがあるということに、身体の中から力が湧き上がってくるような気がする。
「まさかこんなお屋敷に、野盗がいるわけがないもの。」
とと、と、また音が聞こえた。
屋敷に近づくと、その音はよりはっきりと、そしてもはや耳元ではなく建物のどこかから聞こえてくるのだった。
階(きざはし)の左右に篝火が備えてある。誰かしら従者が控えているかと思い、声をかけた。
しかし、返答はおろか、人のいる気配すらない。
「困ったな。」
真夜中の時分、大声で呼ぶわけにもゆかず、さりとて階に腰掛けて寝るのも心細い。
するとまた、とと、と鳴る。
先ほどからどこかへ誘うようなこの音。もし家人に見咎められたら、誰も居なかったのでつい、と言って詫びるしかない。何も持っていないこと、辛うじて奪われずにいるこの着物を見れば、少なくとも盗人でないと察してくれよう。
「ご無礼お許しください。」
帖紙で汚れた足を拭い、そっと、音を立てぬよう上がりこむ。
とと、と。
今度ははっきりと、いま立っている床に振動を感じた。
音の方向へ進むと、とと、とと、と規則的に鳴り、足を留めると、音も止まる。
何かが誘っている。少し先に進み、こちらを振り向いて、付いて来るのを待っている。
「分かりましたよ、案内ください。主様の下へ。」
導かれるままに、夜目にも豪奢な高欄の付いた濡れ縁を進み、いくつか渡殿を渡り、気づくと明らかに主人の寝間と思われる部屋の前に居た。
几帳の奥には御帳台が見える。暗くてよくは分からないが、飾りにこだわったやはり豪華なもののようだ。
奥にいるはずの貴人へ声をかけるのが憚られる。もしかしたら、寝ているのかもしれない。
しかしそれにしても、誰も居ないとはどういうことか。これだけの調度を揃える家に従者や下女がいないなど、通常は考えられないのだが。
「・・・夜分に恐れ入ります。私は都におります式部大夫の甥です。野盗に襲われ、道に迷っていたところ、こちらのお屋敷を見つけ、無礼と知りながらも一晩の宿をお借りしたく、お願い奉ります。」
座礼し、恐る恐る声をかけてみる。
しかし、そもそもこの几帳の奥に、人のいる気配が感じられない。
こう開け広げたまま従者みなを連れて旅行しているなど考えづらいし、やはり、化かされているのだろうか。この目に見えているのは幻なのだろうか。
そう思った時。
「ふぅん。いつものあの男ではないな。」
声がした。
耳元で。
頭を上げていいのだろうか。
「珍しい客人だ。このような時分に来るのはやはり変わらぬが。」
耳元で囁く声は、しかしこちらに向かって話しかけているようではない。独り言のように聞こえる。声の様子からして比較的若い男のようだ。
「・・・あの、こちらはどちらのお屋敷なのでしょうか。」
伏せたまま尋ねる。回答がないかもしれないと思いながら。
「うん?私に話しかけているのかな、この若君は。」
「はい。お屋敷の主様とお見受けいたします。」
すると声は急に明るく笑った。
「驚いたな。・・・ふっふ。なんと。」
心から嬉しそうに笑う声。こちらへ敵意はないようだ。少しだけほっとする。
「・・・私の声を聞くなど、式神くらいだと思っていたが。すると若君、貴方は死人か、それとも妖か。」
「えっ」
そんなはずはない。確かに殺されかけたが、まだ死んでいないはずだ。
つい顔を上げ、背筋が凍るような気がした。
耳元で囁いていたはずの主の姿が、何処にも見あたらないのだ。
「・・・うん?違うと。そうか、ふぅん。何となればあの男はいくら呼びかけても、応えがなかったから。だろう?」
声は相変わらず、息の吹きかかりそうな位置から聞こえる。
ほっとしたのも束の間、先ほど盗賊に追われていたのとは異なる恐怖がそくそくと湧いてきた。
この声の主はいったい何者なのだろう。やはりこの屋敷は妖の住処なのだろうか。
今直ぐ逃げるべきか。
「おやおや。震えている。寒いのか、若君。」
「・・・いえ。」
「ではなぜ震える。」
屈託のない声は訊く。怪談であれば、このあと続くのは恐怖を煽る不気味な笑い声と相場は決まっている。
そうはさせるか。気を強く持て。
己を鼓舞するため、腹から声を出す。
「ぁ貴方は、いったい誰なんです。私は・・・名乗り、ましたよっ。貴方の正体を明かしなさい!」
少し声が裏返ってしまった。
すると声は、少し困ったように溜息を吐く。
「・・・あの頃、若菫の君と呼ばれていたこともあったな。しかし今は主としか呼ばれていないから、何と名乗るべきか。」
「はぐらかさないでください。なんの妖か知りませんが、私は化かされたりしませんよ!」
勇気を振り絞って再び声を張り上げた。強い心は化かしを解くはず。
しかしうって変わり、柔らかな声は沈んだ。
「成る程な。やはり私は妖の類とされるのか。・・・よい。もはや期待などしていない。久しぶりに少し、楽しい会話などできるかと思ったが、・・・いいのだ。」
その声音に、僅かばかり憐れみを感じてしまった。居心地が悪い。
「・・・貴方は妖ではないのですか。」
「さぁな。私もよく分からん。死んだつもりはないのだが、己の家も、姓も、記憶を封じられてしまったから。」
「封じられた・・・?」
「あれから随分と経っている。きっとな・・・。」
とと、と振動があり、目の前にぼんやりと白いものが浮かび上がった。
「わぁっ」
「・・・ふぅん、これが見えるのか。」
目を凝らすと、そこには大きな白兎が耳をひくひくとさせながら鎮座していた。ここまで誘ったあの音は、この兎の足音だったようだ。
「ならば若君よ、貴方には私も見えるのか?私はいったいどのような姿をしている。」
白い兎がこちらへ来いとでも言うように、几帳の奥へ消えた。
「・・・貴方は兎の姿をしているようですが。」
「それは私の式だ。私ではない・・・いや、そもそも私は何なのか・・・?」
声は訳の分からないことを呟いている。
白兎が几帳の奥からこちらを覗く。
声の主の言葉を拾うと、彼は己がどんな姿でいるのか、何者なのかすら心許ないようだ。
・・・どうしよう。
開けてみたら、御帳台の中に化け兎がいるのかもしれない。几帳の中を覗いたら、人喰い鬼が待っているのかも。
逃げるが良かろう。こんな怪しげな場所からは即刻立ち去るべきだ。己は命を守ることを優先してここまできたはずなのだから。
結論は自明だというのに、この柔らかな声の主がどんな姿をしているのか、興味が湧いて仕方がない。その寂しそうな声を置いていくのは、なぜだか不憫に思われてしまう。見てはいけないと思うのに、どんな姿の者が居るのか知りたいという誘惑が、身体を外へ出そうとしない。
気づくと、建物の奥に向かって足を踏み出していた。
几帳の絹の布は、触れる膚を優しく撫ぜる。どこからか真拆葛の香りがほのかに漂い、心を解きほぐす。
もうどうにでもなれだ。
少なくともこちらに危害を加えようという様子は感じられない。もしそうなったときは、今度こそ剣を取り戦おう。
そう思ったら、少し心に余裕が生まれた。
「・・・貴方を見たら、私を取って食うなんてこと、ありませんよね。」
「まさか。そもそも私は何かを食うことができない。」
声は、まだ去らないと知ると少し気を良くしたのか、戯けたように応える。
「それを信じる謂れはありませんが。」
几帳の奥にはやはり贅を凝らした茵がぼんやりと見えた。
「貴方は、何処にいるんです?私を脅かすつもりがないのなら、さっさと姿を見せてください。」
「・・・やはり、見えぬのかな、貴方にも。」
溜息混じりの囁きに、目を凝らす。
白い兎が茵へ乗ると、その辺りがぼんやりと明るく光った。兎の白色に照らされるように、少しずつ周りに色が着いてゆく。
はじめに見えたのは濃い色の直衣。織の模様がきらきらと光り、そのうち蝙蝠扇が袖先に現れた。扇を持つ手にかかる女童よりも長く豊かな黒髪の先から目で追うと、色白のおとがい、形の良い唇、切れ長の目が徐々に浮き上がってくる。
脇息に片腕を乗せ、ゆったりと寛いだ様子でこちらを見上げるのは、見たこともないほど美しい男子だった。
若菫と呼ぶのは、その涼しげな顔立ちから確かにいささか躊躇われるが、女からでさえ嫉妬の的になりそうなほど、流れる髪や膚の細やかさは目を奪う。
「ぁっ、あのっ」
「どうした。」
「・・・烏帽子を、被らないんですか?」
目を逸らしながら訊く。
「うん?童は被らないだろう。」
「貴方は童ではないでしょう!」
思わず叫ぶと、かつての若菫の君は真剣な眼差しで言った。
「私はどんな姿をしている。」
その瞳は宝玉のように紅く、いかにも妖艶。しかし不安そうな表情が、不思議と庇護欲を掻き立てる。その体躯は細身ながら己よりもすらりと長く、年の頃も少し上のように見えるというのに。
「どんな、って、・・・とても・・・綺麗、な、・・・直衣をお召しの殿方ですけれど!」
烏帽子の無い男など、素裸でいるも同然だ。見てはいけないと思いながらも、彼の発する匂い立つような色気に、ついつい目線が吸い寄せられる。
「・・・そうか。」
少し面映そうに微笑む姿も好ましい。
すると直衣の袷の間から、雀ほどの小さな黒い動物が転び出て、彼の肩に乗り、鼻をひくつかせた。よく見ると小指ほどの耳が立っていて、これも兎であるようだ。
「うん、そうか。そうだな。」
この兎5羽分を優に超える大きさの先ほどの白兎も、指貫の膝に前足をかけて、しきりに鼻を動かす。
「わかった。・・・若君よ。」
若菫の君はまるで兎たちと会話でもしたかのように彼らを指の背で撫ぜると、こちらへ向かって両手を差し伸べた。
「・・・はい」
応えながらついそちらへ近寄り、その手を取ってしまう。だが、触れた膚は綿を掴むように頼りなく、握ったら霞のように消えてしまいそうだ。
「・・・あの・・・?」
屈託無く微笑んだ正体不明の桂男は、そのまま両手を引き、近づいた唇にふわりと口付けた。