コヒステフ 2  華道教室


 今日の講義は午前中で終わりだ。
 体験教室の日程を確認するため、京一郎は先日その身を介抱してくれた華道の家元の邸へ向かっている。
 今住んでいるワンルームマンションは、JRと地下鉄4線が通る駅から徒歩10分程度の場所にある。大学の近くにと決めた場所だが、最初の2年間は主に全く別のキャンパスで講義を受けるため、毎日新宿・渋谷方面まで出て行っている。親の勧めで、鉄道の多く通る駅の近くに住んで本当に良かった。
 大学からの帰り道、華道教室へ向かいがてら、昼食はこの間野々村と行ったあの喫茶店・純喫茶 聖樹で済ます予定だ。

「こんにちはー」
 ドアを押し開けて声を掛ける。
 テーブルを拭いているあの無愛想なバイトと目が合った。他に客はいないようだ。
「いらっしゃいませ。また、来てくれたんだな。」
 先日とは打って変わった爽やかな笑顔。
 本当に同じ人なのだろうか。
「お、帝大の野々村の友達か。こっち来いこっち来い。ランチだろ?サービスしてやるぜ。」
 マスタァが奥から顔を出してにっと笑う。
「あの・・・」
「この間は悪かったな、その、・・・不機嫌で・・・。」
 バイトが頭を掻きながら呟く。
「いえ、おすすめコーヒーの説明、とても分かり易かったです。」
「本当か?!」
「ええ。」
 バイトは照れ臭そうに、ニカっと笑った。
「おいワカ、今日の日替わりとランチの説明してやれ。」
「ふぅ。今日の日替わりは、ハンバーグプレート。ランチのAセットはオムライス、Bセットはナポリタン、Cセットはカレーだ。どれもサラダとコンソメスープ付きで500円。ドリンクをセットにするなら、プラス150円な。」
 すらすらと口から出る声は、先日とは異なり凛として快活。なにか、心境の変化でもあったのだろう。
「ふふ。じゃあ、日替わりで。」
 喫茶店にしては出汁やソースに随分とこだわっているようで、ランチはちょっとした小料理屋で夕食を食べるくらいの満足度があった。
 学生には毎度の500円はきついが、これなら週に一度は来たくなってしまいそうだ。
「お前ェ、この間はこいつが不愉快な思いさせちまったろう。デザートのコーヒーゼリー。オマケに付けとくぜ。」
 マスタァがそっと皿を追加してくれた。
「わぁ、ありがとうございます!」
 ほくほく顏でゼリーを口に運ぶ京一郎を、マスタァとバイトは顔を綻ばせて見つめていた。
「そいやまだ、お前ェの名前聞いてなかったな。俺はここの店主のミサキだ。こいつはバイトのワカ。」
「それはあだ名。俺は時雨だ。」
「私は、帝大2回生の柊京一郎と申します。ランチ、本当に美味しかったです。」
 素直に伝えると、ミサキは嬉しそうに笑った。
「京一郎か。いい名前だな。またコーヒー飲みに来いよ。タイミング合えばこいつのまかないも分けてやるからよ。」
「おい、そんなにエコヒイキすると、他のお客に嫌われるぞ。」
「うるせぇ。他のお客さんにはお前が媚び売っときゃいんだよ。」
「なんだそりゃ。大体俺は、こんな店で長く働く気なんかないからなっ!」
「あーあーそーですか。別に俺はお前なんかいなくても全っ然困りませんよー。」
(仲良しなんだなぁ。)
 こっそり微笑んで、京一郎はそっとその場を去った。

 千家流の華道教室は、あまり大きな看板を出していない。改めて門まで行ってみても、目立たないところにそっと「千家華道教室」と札がかかっているだけだったので、本当にここで合っているか不安になったくらいだ。
 武家屋敷風の門をくぐるとすぐ、先日お世話になった邸の玄関がある。
 今どき珍しくチャイムがない。さてどうしたものかと思案して、まずは玄関の引き戸を軽く叩いてみた。反応はない。
「ごめんくださーい。」
 声を掛けてみる。しかしやはり反応なし。
(困ったな。)
 住み込みのお手伝いさんみたいな人がいるのだから、誰もいないということはなかろう。今度は少し強めに叩きながら声を掛ける。
「ごめんくださーい、どなたかいらっしゃいませんかー?」
「当家に、御用ですか?」
 背後から声がして振り向くと、家元・千家伊織が立っていた。
「あっ!あのっ!」
 てっきり先日のトメという女性が出てくると思っていたので、心の準備ができておらず、すぐに上手く言葉が出ない。
 一方の千家は、京一郎の顔を覚えていなかったらしく、少し首を傾げてからこう言った。
「あぁ。新しい生徒さんですか。教室でしたらこちらへどうぞ。」
 玄関の横をすり抜けて、邸と塀の間を進んで行く。京一郎は慌てて声を張り上げる。
「あの!私は先日雨の中介抱していただいた、帝都大学2回生の柊京一郎と申します!」
 千家は振り向いて京一郎を暫し見つめ、ようやく思い出したようだった。
「あぁ、あの時の。・・・それで?今日はどうしました?」
「改めてお礼に参りました。その節は大変お世話になりまして、ありがとうございました。あの、これ少しばかりですが。」
 準備してきた和菓子を差し出す。
「そんな、気を遣う必要はないですよ。・・・ふふ。最近の学生にしては丁寧ですね。」
 赤い瞳が細められる。艶のある微笑みに、内心どきりとした。悟られないよう俯いて、とにかく菓子箱を差し出す。
 千家は小さく溜息をついて、菓子を受け取った。
「では、お気持ち、遠慮無くいただきます。」
「いえ、あの本当にありがとうございました。あと今日は、お華の体験教室のことも伺いたくて・・・。」
「おや。ご興味がおありですか。」
「はい。私は文武両道を目指してこれまで生きてきましたが、美の方面には目を向けたことがなかったんです。元々伝統芸術には興味があったし、先日の朝、伊織先生が生けていらっしゃるのを拝見して、素敵だと思いまして。」
「それは光栄だな。今日この後のご都合は?ちょうどこれからクラスが始まりますから、良かったら体験していかれてはいかがですか。」
 思いがけない誘い。野々村はがたがた言っていたが、折角の機会だ。日を改めたら、案外億劫になって行かないかもしれない。思い立ったが吉日。やってみることにした。
「ぜひ!お願いします。」
「どうぞ。」
 千家が袂を抑えて優雅に左手を差し出す。その所作があまりにも自然だったから、思わず手を重ねてしまって、赤面する。
(そんな、まるで女性に接するように・・・)
 しかし振り払うこともできず、そっと表情を伺うが、彼はさも当たり前の様にエスコートを続ける。
「ここは段差があるから気をつけて。」
 木戸をくぐりながら注意を促されたが、その顔を見るのに注力していて意味を捉え損ねた。
「えと、何ですカあっっ!!」
 今まさに注意された木戸の枠に蹴つまずいてしまった。間一髪、千家が抱き留めてくれて、派手に転ぶのを免れる。
「ふふ。どこを見ていたのかな。」
 長い睫毛、形のいい唇、肌理細やかな白い膚が間近に迫り、どぎまぎしてしまった。
「・・・すみません。」

 木戸の向こうには母屋と渡り廊下で繋がる離れがあり、そこで教室が開かれている。生徒たちは千家の門をくぐるとそのまま木戸を通り、この離れへ勝手に入ってきているようだった。
「千家先生、新しい生徒さんですか?」
「あれ?イケメン~?」
「目の保養~きゃははは!」
 千家に付いて畳敷きの部屋に入ると、すでに待機していた女性たちが一斉に声を上げる。
 多くが30代後半以降の主婦と見受けられた。彼女たちは長机の前に座っており、それぞれの前には同じ皿と花束が置いてある。
「皆さん、今日体験にいらしてくださいました、帝都大生の柊くんです。お華は初めてだそうですから、困っていたら助けてあげてくださいね。」
 帝大という言葉にややざわめきがあったものの、そこは彼女らの年の功で、引かれるまでには至らなかった。いきなり紹介された時は焦ったが、充てがわれた席の隣に座る女性に「よろしくね」と微笑みかけられ、京一郎はほっとしたのだった。

 教室では、まずその日使う花の説明の後、家元がお手本として生けて、それから生徒が各自生け始めるという流れのようだ。
 生徒たちがめいめい生け始めると、千家は京一郎の横にやってきて道具の説明をしてくれた。
 この集合クラスでは、家元が生徒の横で長々と指導することは少ないようで、何人かの女性が羨ましそうにこちらをちらちらと見ている。
「・・・では、生けてみましょうか。私の手本を真似てもいいし、貴方が好きなようにやってみてもいいですよ。」
「はい。」
 一先ず、千家が先程やっていたように花材を鋏で切って、剣山に挿してみる。しかし、なかなか上手く立ってくれない。
「むぅ・・・」
 悪戦苦闘しているうちに、茎がずたずたになってしまった。
「こういう柔らかい花材の場合は、切り口をできるだけ斜めにしないようにするといい。」
 千家は京一郎の左手を取って花材を持たせ、鋏を持つ右手に自らの手を添えて、パチ、と切って見せた。
「さあ、もう一度、挿してみて。」
 抱き締められるような格好で、後ろから囁かれるような声が気になって集中できない。
「あぁの・・・」
「うん?」
「うふふ。千家先生、珍しく手取り足取りなさってるから、みんな焼きもち焼いてますよ。」
 横の席の女性が助け舟を出してくれた。
「おや、それは困ったな。なにせ珍しい若い男性の生徒さんだから、通ってくれたら皆さんも喜ぶかと思って、つい熱が入ってしまいました。」
 千家は立ち上がると、すっと机の間をすり抜けて行ってしまった。
 京一郎はこっそり息を吐いて、また花材に向き合う。

 最初の挨拶は皆揃って行うが、最後は出来上がった順に家元に作品を見てもらい、個別に挨拶をして片付けて帰っていいようだ。
 教室が始まってから1時間ほどすると、トメともう一人の男性が教室に入ってきて、早めに終わった生徒の片付けの手伝いを始めた。
「柊さん、来てくださったんですね。初めてにしては、なかなかじゃないですか。」
「あ、トメさん。・・・ありがとう、ございます。自分としてはなんとも・・・」
「どうでした?花を生けてみて。楽しかったですか。」
「ええ。こんなに難しいものだとは思っていませんでしたが。」
「もっと気楽に考えていただいていいんですよ。初めはね。ひととおり覚えれば、あとは感性の違いで個性が出てきますから。」
「はい・・・。それで、続けたいと思うのですが・・・」
 おずおずと言うと、トメはにっこりと微笑んだ。
「はいはい。こないだお伝えしたとおりのお月謝で結構ですよ。いついらっしゃいますか。」
「出来れば、今日と同じ時間がいいんですけど・・・」
「あー、それだとね。同じ通いかたの方がいないんですよ。今日と同じような、お姉様方ばかりでね。みんなと花材が違くなっちゃうんです。この後のクラスも、そうなのよねぇ。」
「うーん・・・お花は、全然違うものなんですか?」
「でもね、どちらも初級のクラスだから、やり方は一緒なんです。お花も似た感じのものですし。」
「であれば、今日の時間でがんばってみようと思います。」

* * * * *

 そんなわけで、京一郎は華道教室へ通うことになった。
 席に着くと、周囲の女性が興味津々に近づいてくる。
「あ!柊くんだ!」
「通うことにしたのね。よろしくね~」
「あ、不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします。」
「なにそれ、嫁に行くのかー」
「あらあら。さっそく人気者ですね、柊さん。」
 生徒たちがそろうまで、トメらが花器や花材の準備をしておいているようだ。
 時間になると家元が現れ、前回同様に花材の説明の後、生けて見せた。そして、皆と違う花材(少し安い花になるそうだ)を使う京一郎の横に来る。
「柊くん、続けることになさったのですね。」
「はい。今後ともよろしくお願いいたします。」
「ふふ。相変わらず、丁寧だな。それでは、皆の前で説明した花材と貴方の花材の共通点と違いについて、お教えしましょう。」
 初めのうちはしばらく、こうして横について教えてくれるようだ。個別教室みたいで羨ましいわね、と横の女性が囁いた。

 教室が終わっても、仲のいい数名の生徒たちは、残ってお喋りするのが常のようだ。何となくすぐに席を立ちそびれた京一郎も、女性たちの輪に混ぜてもらっていた。
「千家先生、今日も素敵だったね~。」
「和装の似合う男の人って、いいよね。」
 家元はその美貌はもちろん、人当たりが丁寧なことも相俟って、生徒たちから絶大な人気を誇っているようだ。実は京一郎も、密かに憧れている。今は学生らしく同年代の若者とわいわいやっているが、いずれはあのような落ち着いた大人の雰囲気を持つ男性になれたらと思う。
「ね、柊くんは着物着ないの?」
「あ、私は持ってないので・・・。」
「絶対似合うよ~。千家先生と二人揃ったら、最強だよ~」
 急に話を振られて困っていると、声が降ってきた。
「そうだな。柊くん、ちょっとこちらへ。」
 千家が廊下で手招きしている。
「なになに?柊くん千家先生に呼ばれてるよ~」
「いいないいなぁ。」
「ほら、早く行ってきなよ!」
 女性たちに押し出されて、廊下に出る。
「あの、先生・・・」
「着物の話をしていたでしょう。ちょうど今時間があるから、私のお古で良ければ着てみますか。」
「・・・いいん、ですか?」
「こちらへ。」
 すっと手を差し伸べられ、またうっかりその手を取ってしまった。
 今日の教室では、手と手が触れるようなこともなく緊張しなくて済んだのだが、また心が落ち着きをなくす。
「あの、伊織先生・・・」
「うん?」
「先生は、・・・どなたにもこのように、・・・されているんですか?」
 聞かずにはいられない。その意図を、あるいは何も意図がないことを、知りたい。無駄に緊張しないためにも。
「このように、とは?」
 千家は振り返って京一郎を見つめる。
「あの、だから・・・手を、引いてくださったり・・・」
「ああ。」
 ふふ、と笑う。
「君は少し、うっかりしたところがあるようだから、な。」
 そして少し強く手を握られた。
「え・・・?」
 触れる膚の面積が増えて、またどきりとしたところ、――
「ギャウゥ!」
「ひっ!」
――突然足元から奇声とともに、動物が飛び出して逃げていった。
「ほら。」
 気づくと、千家にしがみついてしまっていた。
「あっ!あのっ!すみません!!」
 慌てて離れる。
「いや、私がすぐに言えばよかっただけだ。あれはうちの猫だから、次は踏まないでくれよ。」
「すみません・・・」
「ふふ。さぁ、こちらだ。」
 通された部屋は和室が二間続いており、片側には天井まで届きそうな本棚が並んでいる。そのどの棚にも沢山の本が詰まっていた。
「わぁ・・・」
 本好きとしては溜息ものだ。和室なのに本棚がびっしりと並ぶのは少し不釣り合いだが、趣味が合いそうだと思った。
「本は好きか?」
「はい!図書館にもよく行きます。先生も、読書がお好きなんですか?」
「そうだな。これといった趣味もないから、気づくと何かしらページをめくっている。」
「わかります!」
 千家は微笑むと、部屋の奥の箪笥に近づいた。
「君もこちらへ。」
 そっと覗き込むと、引き出しの中には大きな包み紙にくるまれた着物がたくさん重ねてある。
「そうだな・・・」
 千家はいくつかの包みを取り出し、中を開く。
「わぁ、きれいですね。」
「これは、百群。同じ薄青でもほら、こんなのもある。これは紅碧だな。それから、・・・勿忘草色。君は若いから、明るい、彩度の高いものが似合いそうだ、な。」
 それぞれを持ち上げては、京一郎の胸に当てて顔の映えを確認している。 こんな風に着る服を人に選んでもらうのは小さい頃以来で、なんだか照れ臭い。
「・・・こんなのもあるな。これは丁子色。・・・少し地味か。女郎花の方が・・・」
 千家は真剣に選んでいる。まるで、少し年の離れた兄が、晴れ着を吟味しているようだ。
「伊織先生は、着るものにもこだわりがあるんですね。」
 何気なく言ってみたのだが、千家はまじまじと京一郎を見つめ、少し考える仕草をした。
「・・・今まで、そのように思ったことはなかったが、・・・成る程、そうなのかも、しれんな。」
 呟きながら、京一郎の前髪をそっと掻き分ける。
「っ!」
 急に頬に触れられて、またどきりとした。恐らく向こうに他意はないのだろうが、二人きりの部屋でこんな風に接触されると、少し困ってしまう。何せ物心ついてから、親も不用意には触れてこなかったし、高校時代に付き合っていた彼女とすら、手を繋いだだけだったのだ。
「これはどうかな・・・。うん、一番顔が明るく映るようだ。柊くん、こちらへ。・・・そうだ。鏡の前に立って。」
 京一郎の肩に薄緑色の着物を掛けてみせる。
「わぁぁ、居合道の道着はよく着ますけど、ちゃんとした着物なんて七五三以来です!わぁぁ」
「帯は、これがいいだろう。」
 少しくすんで光沢のある紫の平たい帯を合わせる。
「着てみるか?」
「・・・いいんですか?」
「あぁ。では、服を脱いで。」
「・・・あ、ここで、・・・ですか・・・?」
「誰も見ていない。私のことが気になるなら、むこうを向いているが。・・・しかし言っておくと、先日君の服を脱がせて湯で絞った布で体を拭き、新しい下着と浴衣を着せたのは私だ。つまり私は、君の身体を一度見ている。隅々まで、な。」
 反対側を向きながら目線だけこちらへ向けて、にやりとする。
 よくよく考えると、自分で着ることができないのだから、着せてもらうのであれば結局下着姿を見られることは避けられない。女子でもないのだから、と腹をくくった。
「・・・あの、今のは何でもないです、すぐ脱ぎます・・・」
「ふぅん。」
 観念してさっさと服を脱いで畳むと、千家はその間に準備していた薄い着物を着せ掛けた。
「これは・・・?」
「長襦袢という。下着の上に着けるものだ。」
 言いながら京一郎の手を上げたり下げたりさせて、手早く紐を体に巻き付けて結ぶ。そしてその上から、先ほどの着物を着せ掛ける。
「この色は、薄萌葱。帯は、・・・藤鼠あたりだな。ほら、できた。」
 鏡に映る和装の自分を見て、不思議な気持ちになる。これまで道着なら何度も着ているが、必ず袴がセットだったから、着流し姿はなんだか粋な感じがしてうきうきする。
「なかなか様になっているじゃないか。さあ、批評家の方々にもお披露目するか。」
「ええ?誰にです?」
「決まっている。生徒さんたちだ。」
「もう帰ってしまってますよ。」
「まだこのくらいの時間なら、誰かしらいるだろう。」
 さあ、と言ってまた手を差し出してくれる。一度来た道を戻るだけだから大丈夫です、と言おうとしたが、着物に拘束された体は案外と動かしづらく、結局その手を取らざるを得なかった。

「やだあ!似合ってる!」
 家元の言う通り、まだ数人の女性たちがおしゃべりをしながら教室に残っていた。
「でしょう。これから教室にはこれを着てきてもらおうかな。」
「いいですぅ!柊くん、よかったね~!」
「え?えっ?」
「ではそろそろ教室を閉めますから、皆さんもお帰りください。また来週。」
「ありがとうございました~」

 女性たちを帰すと、また千家の部屋へ戻って着替える。
「あの、先生、さっきの・・・」
「ああ。気に入ったなら、この着物は君が持っていくといい。」
「でも・・・」
「もう私が着るような色でもない。似合っているから、沢山着てやってくれ。」
「でも、高価なものなのでは・・・?」
「着物は、手入れ次第で長く保つ。着られず箪笥の肥やしになるよりも、君に着てもらう方が着物も本望だろう。まぁ、気に入らないなら無理にとは言わんが。」
「いえ、そんなことは。・・・ありがとうございます。大切にします。」
 遠慮がちながら目をきらきらさせて着物を眺める京一郎を、千家は眩しそうに見つめて微笑んだ。
  また無理矢理管理人の趣味の方向へ持っていくの巻。着物って高いはずなのに、何で簡単にあげたりもらったりするんでしょうね。

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