コヒステフ アルコヲル・レツスン 後篇


 宿に着くと、待っていた仲居は二人を2階へ案内し、明日の朝食はいつも通り、とだけ確認すると、部屋の説明もせずに下がってしまった。その様子から察するに、どうやら千家はこの宿の馴染み客であるようだ。
 部屋は二間あり、手前に10帖ほどの畳、奥は少しレトロな絨毯敷きで、深い色の木製の椅子とテーブルが備え付けてある。洗面室は温かみのある白木で統一されており、その奥に洗い場と内湯がある。洗面スペースから和風のバルコニーに出ると、檜風呂にかけ流しの源泉が湯気を立ち昇らせながら溢れていた。
「本当に露天風呂がある・・・。あ、タオルも沢山あります、入り放題ですね!」
 京一郎がはしゃいでいると、千家の携帯が鳴った。ちらと画面を確認して、千家は襖の向こうへ行ってしまう。
(いつもなら、何度鳴らしてもなかなか出ないくせに・・・)
 アンティークの椅子に座って、ウェルカムスイーツをつまんでいても、千家はなかなか戻ってこない。
 そっと襖を開けて部屋の入口を覗き込む。営業用の顔で談笑している千家は京一郎に気づくと、先に風呂に入っていろ、と身振りで示した。
 本当は待っていたいのだけれど、仕事の用のようだし、いつ終わるかもわからない。仕方ないので、京一郎は言う通りにすることにした。
 内湯でさっと身体を洗い、バルコニーに出て、鳥肌を立てながらいそいそと露天風呂に足を入れる。
「あっ!・・・つぅ・・・」
 冷めることを考慮して加温されているお湯は、思いのほか熱い。
 少しだけ水を入れ、湯かき棒でかき回して冷ます。その間、刺すような寒さが裸体にこたえる。適当なところで湯に飛び込んで首までつかると、溜息が出た。
「はぁぁ・・・温かい・・・」
 2階建の2階にあるバルコニーの前には背の高い木々が目隠しに植えられていて、その向こうには山々の稜線の影が見える。頭上には長方形の檜風呂の半分を覆うように雨除けがせり出しており、庇の下から見上げると濃紺の夜空には星が輝いていた。
 京一郎は、ストレッチをしながらあの星は何座だったかなど考える。田舎ではよく妹と早見盤を手に冬の星座を探したものだった。

 空を眺めていると、背後で引き戸を開ける音がした。
「待たせたな。」
 柔らかな千家の声が降る。
 京一郎は反射的に身を縮めて、端に寄った。
「・・・ぉお仕事は、もう、いいんですか?」
「あぁ。やっと逃げてきたというのに、こんな時間まで縛り付けられるとは、ほとほとうんざりしたがな。」
 ちゃぽ、と音がして、横に千家の気配。
「・・・温泉は久しぶりだが、悪くないものだ。」
 深く吐いた息が、近い。
 京一郎がそっと顔を上げると、目が合った。濡れないように髪を上げている千家の姿はとても新鮮で、けれど見ていられなくてつい目を逸らす。
「どうした。」
「・・・いえ・・・」
 本当はもっと見たい。
 千家の髪、千家の顔、千家の膚。
 もっと触れたい。
 もっともっと近くに居たい。
 しかしお互い服を脱いでいることだし、羞恥が先立って、電車でこっそり寝顔を眺めていた時のようにはゆかない。京一郎は隠れるように膝を抱えた。
 お互いの裸を見るのは初めてではない。けれど、先日、彼の誕生日に越えた一線は、少し会わない間に元に戻ってしまったような気がする。そうなりたいという己の願望が見せた夢だったのではないかとすら、今となっては思う。
「おい、」
「・・・なんです?」
「拗ねているのか?」
 全身に、千家の視線を感じる。
 水面が揺れると、まるで触れられているような気になってしまう。意識しすぎていることが厭で、京一郎はきつく目を閉じた。
「どうして私が拗ねないといけないん――わっ、」
 肩を引き寄せられた、と思う間も無く、後ろから抱き締められていた。
 湯の中で、京一郎の背と千家の腹とがぴたりと触れる。ふたつの身体の間に隔たるものはなく、緊張している気持ち、なにかを期待している気持ち、少し怖いと思っている気持ち、心の中にあるものがそのまま全て伝わってしまうのではないかという気になって、京一郎は身体を硬くした。
 首元に顔を埋めるようにして、千家は呟く。
「・・・厭か?」
 はっとした。
 そういうわけではない。
 ただ、突然、心構えをする暇もなく二人きりで旅行に来て、それに一緒に湯に浸かるなどということもこれまでなかったから。
「・・・やじゃ、ないです・・・」
「そうなのか。」
 掠れた声に、京一郎は小さくうなずいた。
 しなやかな腕が、身体を締め付ける。
 夜の空気が頬を冷やすけれど、千家の膚の触れているところが熱い。そして首と背から伝わる鼓動が心なしか速いように思われて。
(伊織先生も、私といてドキドキしているのだろうか。)
 もしそうだとしたら、同じだ。
(そうだったら、嬉しい。)
 京一郎は少しだけ身体の力を抜いて、千家に凭れかかる。
「気持ち、いいですね。」
「・・・そうだな。」
 目を閉じると、湯船に注ぎ込む温泉のちょろちょろという音と、千家の胸の音だけが聞こえていた。

「・・・そう、前からお前には言っておきたいことがあった。」
 京一郎の肩に顎を乗せたまま、千家が小さく言った。
「なんですか?」
「お前、酒に弱いのだろう?」
「・・・はぁ、まぁ・・・。」
 思えば雨の夜に酔いつぶれていた京一郎を千家が見つけたのが、初めての出会いだった。
 あれ以来、飲み過ぎないように気を付けてはいるが・・・。
「それが何か・・・伊織先生?」
 徐に湯から出て、戻ってきた千家が持ってきたのは、小さな丸い盆。その上に銚子が一本と猪口が二つ。
 湯船の縁に盆を置き、千家は小さな猪口に酒を注ぐ。
「日本酒・・・ですか・・・」
「飲んでみろ。」
「う・・・」
 渡された猪口を口元へ運ぶと、麹とアルコールの香りにくらくらしそうになる。京一郎は息を止めて杯を煽った。
「げほ、・・・けほっ」
「やはりな。そういう飲み方をするからいけないのだ。」
 むせる京一郎を、千家は呆れたように見つめる。
 息をすると揮発したアルコールの香りが鼻を直撃した。
「うぅ・・・飲み方も何も、強いか弱いかでしょう、お酒なんて・・・」
「違うな。アルコールが苦手ならば、水と同じように飲んでは駄目だ。もっとゆっくり飲め。」
「ゆっくり・・・?」
「そう。少しずつ、舐めるように。・・・ほら、やってみろ。」
 今度は先ほどよりも少量を注いだ猪口を渡された。舌の先で触れてみる。苦手だと思っていた焼けるような感じや麹とアルコールのの強い香りも、少量ならさほど辛くない。しかし――。
「こんなんじゃ、いつまでたっても飲み切りませんよ。」
「それでいい。飲み切らなければ、横から継ぎ足されても大して増えないしな。」
「なるほど・・・」
 千家も手持ちの杯に酒を注ぎ、ゆっくりと飲んだ。
「学生は良い酒に触れる機会が多くないのだろうが、酒は酔うためというより香りや味を楽しむべきだと、私は思うがな。」
 言われて、改めてそっと嗅ぐと、ふくよかな香りには一言で説明しきれない複雑さがある。それはまるで果物のようですらあると気付いて、京一郎はもう一度、杯の酒を舐めてみる。
「確かに・・・」
「日本酒だけではないぞ。ワインやウイスキーも同じだ。」
「カクテルは?」
「あれは他のものと混ぜているからな。だが、弱いことを自覚しているなら、カクテルだとしても、1杯酒を飲んだ後は都度水を飲め。」
 確かに、酒と水とを交互に飲めば、腹も膨れるし、同じ量だけ酒を飲むより遥かに負担が軽い。
「サワーでも、ですか。」
「軽いと思ってついつい飲みすぎた結果、雨の中で路傍の神と共寝。・・・違うか。」
「・・・違いません」
 言われたとおり、ちびちびと舐める。何かの本で"酒をちびりちびりと"という表現があったが、こういうことなのか、と京一郎は得心した。
「ふ・・・猫のようだな、お前。」
 千家は京一郎の顔を覗き込んでくすくすと笑う。
「むぅ、伊織先生がそうしろって言ったんでしょ――」
 言い返す唇を、ちろりと舐められた。
 どき、とする。
 呆然と見つめているうちに、また唇が重なる。
 誘われるように京一郎が舌の先で触れると、そのまま深く口付けることなく千家の唇は離れていった。
・・・物足りない。もう一度キスしてほしい。
 次は、もっと、深く、長く・・・。
 けれど、それきり千家は酒ばかり舐めている。じっと見つめていると、妖艶な瞳が楽しそうに細まった。
「・・・不満そうだな、京一郎。」
 そう言うだけで、触れてすらくれない。
 欲しいなら請うてみろと、流し目が言っている。
「ぅ・・・」
 悔しいけれど、欲しい。こんなに近くにいて、触れずになどいられない。
「伊織先生の、意地悪・・・」
 京一郎は向かい合うように千家の膝の上に乗った。白い頬を両手で包み、唇に口付ける。
「・・・は、ふ・・・ん、・・・んぅ、ん」
 絡んだ舌から甘い酒の味がする。
「・・・なぁ、京一郎。」
 頬から首筋を掌で撫でながら、千家は囁く。
「・・・・・・ふえ?」
「このところ、お前に構っている暇がなかったが、・・・寂しかったか?」
 実際、千家の誕生日以来、ほとんど会えていない。
 教室のある日にいつもどおり彼の部屋に行っても、別の仕事で外出していることが多かった。それに、教室の時間が始まっても、その日のテーマや花材の説明、手本の制作はトメや平岡が行い、本人は終了間際に遅れてやってきて、各作品の評価だけ行うということも何度かあった。
 個人的に会う機会は、無かった。
 メールなど本人が面倒臭がるから滅多に送らないし、電話だって毎日できるわけではない。
 忙しいだろうか、疲れているだろうか、などと気にして、一度電話を掛けるにしても何度躊躇ったことか。
 会いたかった。
 せめて、声だけでも。
 素直にそう言ったら、何と答えが返ってくるのだろう。
「・・・先生は?」
「うん?」
「寂しかった、ですか?・・・私と、会えなくて・・・」
 京一郎は千家の目を覗き込む。
 深紅の瞳は、ぼんやりと浴場を照らす間接照明の暖色の灯にきらきらと輝いて、柔らかく細められた。
「・・・ねぇ」
「先に聞いたのはこちらだ。お前が言ったら教えてやる。どうなんだ、京一郎。・・・そら」
「っ!」
 いつの間にか千家の手が触れていた。京一郎は慌てて膝から降りようとするが、触れているのと反対側の腕がそれを許さない。
「ふふ。もう、こんなだ。」
「・・・ちが・・・んっ」
「何が違う。・・・私に会えなくて、ではなく、触れられなかったから、寂しかったのか?」
「べ、つにそん・・・あぁ、ぅ・・・」
 ゆるゆると追い立てながら、千家の唇は首筋や耳を責め始める。
 悩ましげに瞼を閉じて、京一郎は背を反らした。
「や、あ、・・・伊織先生、あ・・・っ」
「友人たちとの会食を途中で抜けてまで、私に逢いたかったのだろう?」
「ぅ・・・あぁっ・・・伊織せんせ、や・・・」
 責め立てはするけれど、決定的なものまでは与えてくれない。
 とろんとした表情で見つめる京一郎の耳元に唇を寄せて、千家は甘く囁く。
「さあ、どうなのだ、京一郎。」
「んぅ・・・ん・・・いじわる・・・早く・・・」
 京一郎は千家に口付けてねだる。
「淫らだな、お前・・・。酒のせいか?」
「んぅ・・・伊織先生の、せいだ。」
 千家の愛撫は、アルコールに似ている。
 触れられたら恥ずかしいし、心臓に悪いし、正直、苦手だけれど、気持ち良くて、嬉しくて、もっともっと、欲しくなる。
「欲しい・・・伊織先生。」
「何が?」
 見上げてくる千家の濡れた膚には、京一郎が夢中で撫で続けていた髪が解けてしまって貼り付いている。いつに増して凄みのある色香に、京一郎はごくりと唾を飲んだ。
「・・・逢いた、かった・・・・・・寂しかった・・・!」
 気持ちの強さに反して抑えた声が、掠れた。
「・・・京一郎」
 京一郎の燃える瞳を、千家は切なげに見返す。
「ずっと、電話もできなか、ったし、・・・私はっ、貴方の恋人なのに・・・っんん!」
 見つめながら唇を重ね、京一郎の求めに応じる。
「京一郎、」
「あっ、い・・・伊織先生と、早く、んん、」
「・・・分かった。」
「・・・いぃ・・・せんせい、あぁっ、・・・すき・・・好き・・・ぁっ!」
「京一郎・・・」
「ぁ・・・だ、あっ、あ!・・・んぐ・・・っ・・・・・・ぁぁ・・・」

* * * * *

 目が覚めて、ぼんやり視界に写る長い黒髪に京一郎はぎょっとした。それが千家であることに気付いて幾分安心するも、見慣れない和室に布団の中で首を傾げる。
(えっと、ここ、は・・・?)
 ちょろちょろと湯の音が聞こえて、温泉宿に来ていたのだったと思い出す。
 風呂の中で、風呂から上がっても、久しぶりの情事は何度果てても満ちたらないような気がして、幾度も千家にねだり、まぐわい続けた。
 らしくなかったと思う。思い返すだけで身体が熱くなる。
(だって、私は酔っぱらっていたのだから、仕方ないんだ。)
 心の中で言い訳をして、口をゆすごうと布団を抜け出した京一郎は、枕元に小さな包みがあるのに気が付いた。銀色の包み紙に、綺麗な青色のリボンが掛かっている。
(これ、昨夜はあったかな・・・?)
 洗面所から戻ってきて、もう一度布団に潜り込み、うつぶせになって包みを眺める。
「・・・伊織先生の、かな。」
 枕元に置いておくなんて、まるでサンタクロースが来たみたいだ、と微笑んで、今日はクリスマスであることに気が付いた。
「え?もしかして・・・」
「起きたか。」
 長い睫毛がふわりと上がる。
「おはようございます。」
「昨日は、随分と激しかったな、お前。」
 からかうように言われて、京一郎の顔は火が出そうなほど熱くなる。
「・・・っ!・・・ぁの、・・・あれは・・・、お酒が入っていたから・・・」
「ふふ。今後、お前をその気にさせたいときは、酒を与えることにしよう。」
「厭ですよ、私は弱いんですから・・・」
 千家は京一郎の真っ赤な頬をつまんで、くすくすと笑った。
「ぁ、伊織先生、あの、これ・・・」
「あぁ、来たのか。」
 京一郎が枕元の包みを指差すと、千家はこともなげに言う。
「?・・・来た、とは・・・?」
「昨日はクリスマスイブだっただろう。良かったな、いい子にしていて。」
「何ですか、それ・・・・・・あ、え・・・サンタ?」
 間抜けな声が出てしまったが、千家はあくまで白を切りとおすつもりらしい。
「えぇ・・・だって、・・・えっ、ふ、」
 彼がサンタのまねごとをするなんて、らしくない。柄じゃない。
「ふふっ、サンタ、ですか・・・っ」
 滑稽で、嬉しくて、ついつい笑うのをこらえられない。千家は真顔で、そんな京一郎を見つめている。
「あの、開けてみてもいいですか?」
「私に聞くな。」
「・・・はい。」
 丁寧にリボンを解いて、包み紙を開く。
 しっかりした箱を開けると、品の良い上質な腕時計が入っていた。ベルトは焦げ茶の革、文字盤はほんのりゴールド味がかった光沢のある柔らかな白色で、インダイヤルが3つ付いている。目盛りや針は落ち着きのある金で、装飾は控えめ。大きすぎず、ごつすぎず、京一郎の手首に巻いても細さが見劣りしない丁度いい大きさだ。
 千家の選ぶ時計がどのくらい高級なのか分からないが、少なくとも自分が気軽に買えないような代物であることには違いない。
「こんな・・・こんな立派なもの、いただけません!」
 京一郎は慌てて返そうとするが、千家は反対側を向いてしまう。
「私に言うな。」
「伊織先生!」
「文句があるのなら、サンタとやらに言えばいいだろう。」
「文句なんて、そんな・・・」
 改めて、京一郎は時計を見つめる。
 会う時間もないほど忙しかった千家が、京一郎のために用意してくれたクリスマスプレゼント。
 クリスマスイブに会う約束をしてくれなかったけれど、それは万一直前になって都合がつかなくなった場合を考えてのことだったのかもしれない。京一郎をがっかりさせないために。
 急だったが宿を取れた、などと言っていたが、考えてみればこんなに良い部屋をイブの当日になって取れるはずがないのだ。
本当はずっと前から、こうして二人で過ごそうと思って準備していたに違いない。
(嬉しい・・・)
 きっと千家も、京一郎に会えなくて寂しいと思っていたのだ。
「伊織先生・・・!」
 京一郎は千家の背中に抱き着く。
「・・・こら、どうした。」
「プレゼント、嬉しいです、とっても。・・・忙しいのに準備してくれて、ありがとうございます。」
「私に、言うな。」
 カーテンの隙間から、温かな日差しが差し込んでいる。
 京一郎は、千家の髪の毛をそっと撫でた。
「ねぇ、伊織先生・・・、お風呂、入りませんか?」
 耳元に囁くと、千家は振り返って、苦笑した。
「お、前・・・ふふ。朝から、か。随分と元気だな。」
「だって・・・」
「なんだ」
 甘い声に、甘い笑顔。
 艶やかな声、そして色めいた微笑み。
 京一郎が一番欲しいのは、いつだって千家そのもの。
「だって、・・・私は貴方が、好きだから。」
 面映そうに目を細める恋人に微笑んで、京一郎はそっと唇を重ねた。

<了>   
  いつもどおり朝チュンですみませんした! 最近雑でいけないなぁ・・・(>_<;)

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