コヒステフ アルコヲル・レツスン 前篇


「いた。伊織先生!」
 手を振ると、千家は早く来いと言わんばかりに背を向けて改札前へ進む。
 小走りに追いついた京一郎へ握らせた切符の示す行き先は、小田原。
「急げ。乗り遅れるぞ。」
「こんな時間に、いったい何しに行くんです?」
「着けばわかる。」
 出発直前に駆けこむように乗り込んで指定の座席に着くと、千家はそれきり何も言わず、コートも脱がず、目を閉じてしまった。
「・・・ねぇ、伊織先生?」
 返事の代わりに、すぅすぅと寝息が返ってくる。薄っすらと隈の浮かぶ目元。
「寝ちゃった・・・」
 電池の切れたように眠る恋人の横顔に小さく溜め息をついて、京一郎は微笑んだ。

* * * * *

 今年のクリスマスは、デートとまではゆかなくとも、何かしらイベントらしいことができるかもと期待していた。しかし案の定というか、やはりというか、やっと若手扱いを卒業しつつあるがそれでもまだ中堅がせいぜい、大御所というには程遠い千家は、営業兼接待で複数のパーティー会場を回らねばならず、会う約束すらしてもらえなかった。
 そのため当日に何の予定もない京一郎は、独り者礼賛会なる残念な会への参加を余儀なくされたのであった。

 喫茶 聖樹のドアを開けると、いつもの木製ドアチャイムではなく、ウィンドチャイムが掛けられており、雪の結晶を思わせるようなきらきらした音が鳴った。
「お、来たか。待ってたぜ失恋男!」
 カウンターから出てバイトのワカとツリーの飾り付けをしていたマスタァのミサキが、にかっと笑う。
「別れちゃいませんよ!今日は、相手が忙しいだけで・・・」
 むっとして言い返すと、トナカイの角を模した飾りを頭に付けたワカが、手をひらひらさせる。
「お前の為に時間も割かないバリキャリ女なんて、さっさと捨てちまえ。」
「なんてこと言うんですか!」
 すでにパーティー開始前からほろ酔い加減になっている面々がからからと笑う。京一郎と親しくしている者たちに加え、常連客もたくさん集まって、めいめい酒を手に寛いでいるようだ。
 すっかりこの店の馴染みになった館林が、奥から出てきてグラスを渡してくれた。
「柊、千家は来ないのか。」
「えっ」
 急に聞かれてどきりとする。
 が、そういえば京一郎の通う大学の教員の彼は、千家とも知り合いなのだった。先日千家が百貨店でライブ制作を行ったことを知ったのも、元はと言えば館林がこの喫茶店に彼の作品が表紙の雑誌を持ってきたからだったのだ。
「あ、・・・えっと、知りません。」
 その千家が師匠だということまではここでも周知のことだが、思わずしらばっくれてしまった。
 何故なら京一郎は、歳上の社会人女性と付き合っていることになっているから。
「そうか。一応電話は入れておいたのだが、あの男も忙しいからな。どうせ今夜も接待なのだろう。良い相手も居ないのなら、たまには付き合い良くしろと言っておいてくれ。」
 京一郎は曖昧に微笑んだ。
 考えてみれば千家の口から館林の話題が出たことはない。そもそも彼らはどういう関係なのだろう。聞いてみようかと口を開きかけると、野々村に手を引かれた。
「ほら、こっち来いよ!準備できたから!」
 マスタァを囲んでお互いに冷やかし合いながらの挨拶があり、ワカの親戚から送られてきた自家製シャンパンで乾杯する。
 ひととおりグラスをぶつけ合った後、アルコールがあまり得意でない京一郎は、さりげなくグラスをソフトドリンクに取り替えた。
「おい、ちゃんと飲んでるか?」
 赤い鼻を付けたワカが機嫌よくサイダァ片手にやって来る。
「う、ん。・・・ワカくんそれ似合ってるね。」
「なんだ?褒めてるのか、それ。」
「褒めてる褒めてる。君がトナカイってことは、マスタァはサンタの格好するの?」
「後でみんなにプレゼント配るんだとよ。そのときにはサンタ帽くらい被るんじゃないか。あ、これはまだ内緒だぞ。」
 楽しみだね、と微笑んで、スマホの着信に気付き、京一郎はそっと表に出た。

「もしもし、京一郎です。」
――明日は講義があるのか。
 出た途端名乗りもせず唐突に質問してくる相手は、もちろん千家だ。
「いえ、もう冬休みですけど・・・」
――そうか。これから新宿に来られるか?
 それはつまり、これから会えるということだろうか。諦めていただけに、急に期待が高まって、京一郎は右手で持っていたスマホにもう片方の手を添えた。
「えっと、あと1、2時間くらいは掛かりそうです。伊織先生、お仕事終わったんですか?」
――あぁ、やっとな。お前は今どこに居る。
「若杉河田の喫茶店です。クリスマスパーティーをしていて・・・」
――適当に抜けて来い。
「え・・・でも・・・」
――時間が無い。急げ。
 こちらのパーティーが楽しくないわけではないし、喫茶の仲間を置いていくのはとても後ろ髪が引かれる。けれど。
(伊織先生に、会いたい・・・)
 クリスマス以降、千家は新年を迎えるための依頼が殺到していて、時間を取れないという。今を逃したら、また次会えるのはいつになるか分からない。それに来年の今頃は、今年以上に忙しいかもしれない。
「分かりました。新宿のどっち口ですか?」
 電話を切ると、京一郎はいそいそとコートを羽織った。

* * * * *

 プレゼント交換用に持ってきた包みをワカに渡し、周りの皆からは散々文句を言われながらも、京一郎は走るようにして新宿へ急いだのだった。
 しかし、電車に乗るなり千家は寝てしまったから手持無沙汰になって、店を出がけにミサキが持たせてくれた包みを開いてみる。
「・・・さすがミサキさんだなぁ。」
 少し皺のある紙袋に入っていたのは、ラザニアと、パン。今日のメニューの一つだったのだろう。急いで使い捨て容器に詰めたようで、形は崩れてしまっているけれど、万一液漏れした時のためだろう、使い捨てパックをナフキンで包んだ上からビニール袋が被せてあるのが彼らしい。別容器でケーキと、赤色のラッピングに包まれた手作りのクッキーも入っていた。
「ふふ。お母さんみたい。」
 ひとり分の食事に満たないほどの量しかないが、千家にも一応声をかけるべきかと様子を見ると、ぐっすり眠っているようで起こすには忍びない。彼が食事を済ませているか分からないけれど、ひとりだけ食べるのもどうかと思い、京一郎は窓の外を眺めた。
 小田原方面は東京よりは少し暖かい気候の地域だったように思うが、雪が風に乗って舞っている。ホワイトクリスマスにはなりそうにないが、少しだけ雰囲気が出てきたようだ。
(いったい、伊織先生はどういうつもりなんだろう。)
 行き先の駅は小田原だが、そこからどこへ向かうのか全く見当もつかない。
 しかし、突然呼び出されて二人きりでどこかへ行くなど初めてのことで、京一郎の胸は期待に躍った。

――次は小田原、小田原。
 気付くとうつらうつらしてしまっていた。慌てて千家を揺り起こす。
「伊織先生、伊織先生!」
「・・・ん・・・・・・」
「小田原に着きますよ、起きてください。」
「・・・あぁ、もう、か・・・」
 小さくあくびをしながら千家が立ち上がる。
「そういえばお前は、夕食は済ませたのか。」
「あ・・・はい。」
 電車の中で一度は紙袋を閉じた京一郎だったが、ひとたび匂いを嗅いでしまうと空腹を意識してしまい、こらえきれずついついつまんでいるうちに、全て平らげてしまった。なんだか申し訳ないような、恥ずかしいような気がして、俯く。千家は気にする様子もなく改札を出ると、タクシー乗り場を確認した。
「これから強羅へ向かう。」
「ゴウラ・・・?」
 聞きなれない響きに京一郎は首を傾げる。
「知らないか?温泉地だ。急だったが宿を取れた。ただ、夕食には間に合わないと言われてな。」
「そう、ですか・・・」
 泊りがけだろうと予想はしていたが、改めて旅行であることが分かり、照れの混ざった嬉しさが込み上げる。
「温泉は好きか、京一郎。」
「はい!・・・あの、伊織先生は、夕飯は・・・?」
「一応済ませたから、なくてむしろ好都合だ。」
「あぁ・・・良かった。」
「客室には専用の露天風呂もあるらしいぞ。」
「わぁぁ、楽しみです!」
 素直に喜ぶ京一郎を見つめ、千家は眩しげに微笑んだ。

  ずっとやりたかった温泉デート編がクリスマスに重なったぁ!(+_+;) 次回はちょっとエロティックな感じに、なったらいいな・・・。

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