メルティ・キッス



 年末、実家に帰ったのは30日。
 大掃除やらお節料理の準備やらを手伝わされ、スマホを手に取る間も無く除夜の鐘が鳴り、そのうち年賀メールの通知が立て続けに来はじめ、忙しなく振動する携帯端末をかじかむ手で弄りながら元朝参りの列に並び、久しぶりに再会した地元の友人らと甘酒を啜っているうちに世が明け、朦朧とした頭で帰宅した。
 年明けの早朝、やっと己の布団へ辿り着いた京一郎は、泥のように眠りについた。

「お兄様、もう!いい加減起きてよね!お雑煮とおせち、用意できたんだから!」
 可愛らしい妹の声に眠りを妨げられ、渋々重い瞼を持ち上げて時計を見ると、既に午前10時を過ぎていた。普段ならあるまじき朝寝が常々小煩い母より許されるのも、今日この日くらい。それだってあと15分でももたついていようものなら、年の初めから自堕落とはと小言が始まることが目に見えている。
「分かった、分かったから櫻子、すぐに行くよ」
 京一郎は慌てて顔を洗いセーターを羽織って、雪の積もった庭を眺めつつ冷んやりする縁側を足早にゆく。
 ふとスマホに目をやると、また数件のメール受信と、バタバタしている間に電話の着信があったようだ。気にはなるが、スマホを眺めているところなど見つかろうものならば、朝から母と妹に何を言われるかわからない。ポケットにしまいながら居間へ着くと、しっかり振袖で着飾った櫻子がお雛様よろしく卓の前に鎮座していた。
「明けましておめでとう、お兄様。」
 澄まし顔の妹は、少しだけ化粧を施しているらしい。赤い頬と唇が数年前の七五三を思わせ、京一郎の口元はつい綻んだ。
「明けましておめでとう、櫻子。とても可愛いよ。振袖、お母様に着せてもらったの?」
「うん。お母様は、ご飯の後に着るんだって。お兄様も着物着る?」
「私は持っていないからなぁ。」
「お父様の借りたら?ってか伊織さんは着物なのに、お兄様は洋服なのね。影響されたりしないんだ。」
 急に出て来た名に、京一郎は、はっとする。ここ数日、連絡すらろくに取っていなかったことを思い出した。
(どうして私は、真っ先に伊織のことを思わなかったのだろう。)
「彼の着物は仕事着みたいなものだからね。高価なものばかりで、私がおいそれと真似できる感じではないかな。」
「ふぅん。」
 伊織さんこっち来ないのかな、と妹は呟いた。
 帰省してからこの方、忙しさにかまけて彼を思い出す暇もなかったことに、京一郎はかなりの落胆を覚えた。良いお年を、とも、明けましておめでとう、とも言えていない。メールでも、電話でも。
(もしかしてさっきの電話・・・!)
「あ、お母様。」
 ポケットに手を伸ばした時、父母が居間に揃い、自宅での恒例の正月行事が始まってしまった。

 地元の名家、と言うほどでもないが、正月はのんびりできないのが柊家の常である。
 元旦は家の決まった行事があり、いつもの神社へ改めての元朝参りに行ったり、父の訓戒を聞いたり、写真を撮ったりしていると、父方・母方の親戚が続々と集まってくる。
 広い家なので泊まっていく親戚のための寝具を用意しているうちに、宴会の準備が整い、成人した京一郎は酒の相手をしながら大人たちの夜通しのおしゃべりに付き合う。
 二日も引き続き朝から晩まで終始来客対応に追われる。
 親戚はおおよそ午前中に帰宅するが、今度は家長へ挨拶に来る地元の人々が、これまた続々と柊家を訪れる。流石に昼から酒、とはならないが、成人した旧家の長男に期待の眼差しを向ける大人は多く、父に任せて部屋に籠るわけにもゆかない京一郎は、うっかりすると居眠りをしそうになるのを堪えながら、笑顔を振りまき続けたのだった。

「京一郎くん、随分頑張っていたそうじゃないか。」
 ひととおりの客が帰り、台所でぼんやり茶を飲んでいると、肩越しに柔らかいバリトンが降ってきた。
「伯父さん!」
 元旦に来られなかった伸彦伯父だ。
「あけましておめでとう。せっかく帰省したというのに、働かされ通しじゃ、冬休みものんびりできないね。」
「あけましておめでとうございます。伯父さんこそ、元旦からお仕事のお付き合いで休めなかったんでしょう?」
 東京で世話になっている伯父は年始から多忙のようで、他の親戚と異なり2日の夕方に柊家を訪れ、終電で東京へ戻るのがお決まりである。伯母は早速母を手伝い、今晩の食事の準備に取り掛かっているようだ。
「私はもういい加減慣れてしまったからね。だが、君はこれからさ。期待されているということだと思って、頑張れ。はい、お年玉。」
「ありがとうございます!伯母さんも!」
 成人してもまだ学生扱いでもらえるお年玉は嬉しいものだ。
(いくら貯めたら、着物って買えるのかな。)
 来客対応もひと段落したことだし、そろそろ千家に連絡をしてみようかと思ったとき。
「京一郎さん、もう十分休んだわね?そろそろ居間を片付けて、ご飯の準備手伝ってちょうだい。」
 その後も母にあれやこれやと言いつけられ、その日もスマホを手にする余裕のないうちに意識が無くなっていた。

 そして明けた三日目。
 流石に前日までの忙しなさも落ち着き、柊家もやっと静けさを取り戻していた。
「今日は、お母様と一緒にケーキ焼くのよ。うふふ、お兄様楽しみにしててね!」
 そう、そしてこの日は京一郎の誕生日でもあるのだ。
 やっと手に入れた平和な日常こそが、何よりの贈り物であると京一郎は胸中溜息を吐いた。
「うん。できればこってり系じゃないのだと嬉しいかな。」
「分かってる。果物たっぷり入れて、お兄様がびっくりするくらい可愛いのにしてあげる。」
「期待しているよ。・・・櫻子、ちょっと私はそのあたり散歩してくる。」
「はぁい。」
 玄関を出ると、一面の雪景色が広がっていた。
 青空の下、真っ白な雪に覆われた大地は眩しい。
 緑の鮮やかな柊の葉の間に、まだ少しばかり残った白い花が慎ましく咲いている。
 京一郎は、きんと冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 慣れ親しんだ雪の匂いとともにどこからか飛んできた仄かな山茶花の香りが、東京に置いてきた花好きの恋人を思わせた。
「・・・伊織、どうしてるかな。」
 この景色を見て、あの華道家は何を思うのだろう。
 私の故郷を花で表現してくれと言ったら、どのような作品が彼の手から生まれるのだろう。
(会いたいな。)

 ポケットに入れたスマホが振動し、久しぶりに画面を眺める。
 思っていた通り、これまで何度かあった電話の着信は千家からだった。
苦い焦燥が胸に湧く。面倒くさがりの千家から連絡してくることなど、そう滅多にないのだから。
「あれ・・・」
 そして今の着信は、またしても千家からのメール受信だった。
 文面は、たった一言。

――これほど寒いとは思わなかった。

「・・・・・・なにが?」
 寒い、とは、千家はどこかに出かけているのだろうか。
 そう言えば彼の正月三が日の予定について、実家に挨拶に行くことと、仕事の依頼があることくらいは把握しているが、具体的にどこに行くとまでは聞いていなかった。
(いま電話しても、迷惑じゃないだろうか?)
 いま彼はどこにいるのだろう。誰か一緒なのだろうか。
 気になりだすと止まらない。彼の声が聴きたい。
 京一郎はスマホを耳に当てた。
 メールが来てからそう時間を置かずに掛けたせいか、数回のコールで呼び出し音が消える。
「伊織?」
 返答はなく、ただ震える息遣いが聞こえる。
「伊織?いまどこにいるんです?大丈夫ですか?」
「・・・駅だ。」
「どこの?とにかく建物の中に入ってください。」
「そんなものはない。駅舎は閉まっている。駅前を探したがコンビニも見当たらん。」
 掠れた声は、あまりの寒さに歯の根が合わないといった様子だ。
「えぇ・・・?ねぇ、貴方はいったいどこにいるんです。」
「・・・――」
「・・・・・・え?・・・なんですって?」
 やっと聞き出した駅名に、京一郎は思わず駆けだした。

 ざくざくと雪を踏み抜いて進む。
 最寄りの駅から自宅までの舗装されている道路については、道沿いの家が朝に各々雪かきをしているから、ほとんど歩くのに問題はない。が、近道となると別だ。
 林を抜けるこの道は、雪のない時期ならば多くの村人が利用するが、冬は専ら獣専用。それも、兎や栗鼠など身体の軽い動物くらいしかこの辺りには出てこないため、残念ながら道らしい道にはならない。
 それでも積もっているのが粉雪だったなら、滑りやすく、さすがの京一郎でも行くことを躊躇したところだが、目の粗いぼたん雪であったのは幸運だった。つまり、雪に慣れた人間からしてみれば、まだ極寒というほどではないということだ。
(でも、寒さに慣れていない伊織には・・・)
 早く行って温めてやらなければ。風邪でも引かれたらたまらない。
 駅舎が見えてきた。
「伊織!」
 無人の改札を通り抜け、ホームを見回すと、惚けた様子で千家が椅子に座っていた。
「あぁ・・・、なんでこんな薄着で来たんです?天気予報を見たら、気温くらい分かるでしょうに。」
「京一郎・・・」
 上質なマフラーを首に巻いてはいるものの、着物の上から羽織っているコートは、都会ならまだしもこの桃木村には不適合だ。父だって外出の際は綿入れを羽織る。お洒落と実用は時に相容れないことをこの地の人は良く理解しているから、不作法だなどと言う者はどこにもいない。
「待っててください。いま駅舎開けますから。」
「なんだと・・・」
 京一郎は消火器の入った木箱の中から鍵を取り出し、駅舎の引き戸を開けると、のろのろと立ち上がった千家の手を引いて中へ入れた。
「そんなところに鍵を置いておくなど、不用心にもほどがある。」
「待合室のだけで、駅員室は閉まってますよ。ここの人は皆知ってるんです。こんな寒いときに青空ホームで待ってなんていられないですから。」
 マッチを擦って石油ストーブに火を入れる。
「・・・もう少しで温まってきますからね。」
 手袋を外し、青白い頬に触れる。
「こんなに冷たくなって・・・。」
 京一郎は熱を移すように千家の顔を両手で包み込んだ。手の甲に零れ落ちた髪の毛も、かなりひんやりとしている。彼はそれなりに長い時間、ここにいたようだ。
「・・・ぁ、挨拶が後になってしまいましたね。あけましておめでとうございます。」
「あぁ、そうだったな。あけましておめでとう。」
 手の平とストーブの熱に一息ついたのか、やや血の気の戻った膚に、京一郎は胸中安堵した。
「それで、急にどうしたんですか?桃木村に用事でも?」
「・・・仕事のついでだ。」
「なら、言ってくれたら迎えに来たのに。」
「電話なら何度も掛けた。出なかったのはおまえだ。」
 そうだった。年末からずっと慌ただしくしていて、着信の確認すらままならなかった。
「すみません・・・家の手伝いでばたばたしていました。」
「そんなことだろうと思っていた。」
 俯く京一郎の頭を指先で小突いて、千家は小さく笑った。
「貴方は?年末からどう過ごしてしていたんですか?」
「大体が仕事、合間を縫って実家だな。」
 年末はカウントダウンイベント、年明けは百貨店の初売り用の飾りなどの仕事に加え、また親戚や個人的に深い付き合いの賓客への挨拶回りなど、京一郎とは逆の立場で慌ただしくしていたらしい。
(本音は、ずっと家に引きこもっていたかったのだろうに。)
 表向き人あしらいに長け、どんなことも器用にそつなくこなしている千家だが、本当は面倒くさがりで人嫌いであることを、京一郎はよく知っている。
「それで、こんな田舎の方まで営業にいらしたんですか。」
「・・・・・・まぁ、な。」
 急に歯切れの悪くなった返答に首を傾げながらも、京一郎は手を叩いた。
「そうだ。折角だからうちに寄っていってくださいよ。母も妹も喜びます。」
「遠慮する。」
「えぇ、そんなこと言わずに。・・・あ、そうそう、今日は私の誕生日なんです。だから今晩もそれなりに美味しいものが出るはずですよ。ケーキも今、妹たちが作ってくれているし。」
 おめでとうと言ってくれるかな、とやや期待しながら口にしたものの、千家は無表情で黙っている。
「・・・・・・。」
 何かまずいことでも言っただろうか。
「伊織?」
「・・・生憎だが、次の電車で帰る予定だ。」
「まだ正月ダイヤだから、次の電車は3時間後ですよ?それまでずっとここにいる気ですか?」
 少しの間でもより温かい場所で過ごしてほしいというつもりで言ったのだが、千家は口をへの字に曲げてそっぽを向いてしまった。
「ねぇ・・・伊織、どうしたっていうんです?寒いの、嫌いでしょう?」
「・・・・・・。」
「そもそも、田舎の駅なんてどこもこんなものですよ。私がメールに気付かなかったら、どうする気だったんです?」
「・・・・・・。」
「もう・・・万一貴方が凍えて倒れたりでもしたら、私は誕生日がトラウマになってしまうところです。」
 再度さりげなく主張してみると、千家はぼそぼそと何か呟いた。
「え?何ですか?」
「何でもない。」
「気になるなぁ。言ってくださいよ。」
「うるさいな。」
「伊織ってば!」
 食い下がると、今度は迷惑そうに大仰な溜息を吐かれた。
 それでも京一郎は無言で期待を込めた眼差しを送る。
 そのうち根負けしたのか、再度小さく溜め息をつき、千家は口の中でもごもごと言った。
「・・・・・・・・・・・・だから来た。」
「”だから”・・・?・・・んん・・・えっと・・・?」
 ぴんとこない京一郎をじとりとした目で見遣り、仏頂面の千家は早口で呟く。
「おまえの誕生日だから来た、と言った。」
「ぇ・・・・・・ぁ・・・」
 知っていたとは。
 てっきり、偶然が重なっただけかと思っていたのに。
(嬉しい。)
 千家はぶすっと唇を尖らせてぶつぶつ続ける。
「だというのに、用意したものを家に忘れた。とんだ無駄足だ。」
「無駄足なんかじゃありません!」
「祝えないのなら意味がない。」
「嬉しいです、私。貴方が来てくれて。」
 今更ながら、久しぶりに会えた喜びが込み上げてくる。
 体調を気遣う気持ちに追いやられて気付くことができなかったが、ホームに千家を見つけたときの沸き立つような思いは、間違いなく彼を求めていたがため。
(自覚はなかったけど、私は伊織に会えなくて寂しかったんだ。)
「・・・会いたかった。あと数日で東京に戻るんだって分かってはいたけれど、それでも早く、私は貴方の傍に帰りたかった。」
 胸に縋るようにして、京一郎は告げた。
「京一郎・・・」
(この甘い声も、ずっと聞きたかったんだ。)
 千家は擽ったそうに微笑んで、京一郎の髪を指先で梳いた。
「誕生日おめでとう。帰ったら改めて祝うつもりだ。」
「ありがとうございます。・・・ねぇ、伊織。」
「なんだ。」
 京一郎は千家の掌に頬を寄せて、囁く。
「誕生祝い、いますぐ欲しい。」
「さっきも言ったはずだ。ここにはない。」
「ものじゃなくて、・・・ね?」
 普段は照れ臭くて、こんな風には強請らないけれど、今日くらいなら許されるだろう。
 京一郎は上目遣いで千家の瞳を見つめる。
「いいのか、知人に見られるかもしれんぞ。」
「外からは見えやしませんよ。ね、伊織、早く。誰か来ちゃう。」
 石油ストーブに温められた空気は狭い待合室の窓に細かな結露を生み、その表面は白く曇っている。
「ふふ。私は知らないからな――」
 懐かしい唇の感触に京一郎は小さく震え、それから千家の首に腕を回す。
「伊織、もっと・・・」

 小さな待合室の外には、雪が再び舞い始めていた。


<了>   
  そして翌日、桃木村中に、京一郎が駅舎で髪の長い美女とキスしてたという噂が飛び交うのであった。
  
  

NOVEL