ma bouillotte 前篇


 肌寒さに身を縮めると、背から温もりに包まれた。
 温かい。
 声を潜めた小鳥のお喋りが、そろそろ起きろと促してくるけれど、もう少し。
 春眠暁を覚えずとはよく言う。とはいえまだ朝焼けが空に浮かんでいる頃だろう。
 だから、あと少し。
 母鳥の胸に抱かれるような気持ちで、京一郎は心地よい温もりに潜り込む。
 しかし明け方の布団はこれほど温かかったかしら。
 昨夜は湯湯婆でも入れて寝たのだっけ。
 そういえば湯湯婆という単語は、抱いて寝る妻の代わりという意味から来るらしい。
「・・・・・・」
 首元にかかる、どこか無防備で甘い、溜息のような寝息に、京一郎は己が何に包まれているのか理解した。
 己をまさに湯湯婆代わりに抱いて眠る男は。
 いつか彼が道を踏み外したときには、彼を殺し、自らも命を絶つという盟約を交わした相手。
 止むを得ず紐帯することになったけれど、それは決して情愛によるものではないと、そう思いながら共に居ることを決めた相手。
 だというのに、何故、朝の目覚めは凪いだ水面のように穏やかに、優しいのだろう。
 己を蹂躙した男を母鳥のようだと思ってしまうほど、彼の体は温かく、抱き締める腕は柔らかい。
(おかしいな。私は決して、心を許すまいと思ったはずだったのに。情を寄せることなど、ある訳がないと思っていたのに。)
 あれからひと月弱経った今であっても、その立場を完全に崩したわけではない・・・はずだ、表向き。
――しかし。
 寝返りを打ち、彼と向き合う。
 まだ目を閉じたままの美しい顔は、ぴたりと密着していたはずのふたつの身体の間へ忍び込んだ冷気に眉を顰め、右腕を伸ばして片割れを引き寄せた。
 京一郎は引き寄せられるがまま、しっとりとして内側から熱を発する膚に頬を寄せる。ゆっくりとした鼓動が聞こえる。
「・・・京一郎・・・」
 吐息に交えて囁く声に顔を上げるも、長い睫毛は伏せられたまま。
「・・・なんです」
 囁き返しても、返事はない。
 常ならば冷たい微笑と威圧的な軍服で周囲を脅かしているというのに、寝言に己の名を、それも意図せずいつになく威のない声で優しく囁いてしまうような男を、どうして憎めようか。
「ずるいんだ、・・・貴方は。」
 寝言まで計算ずくだったなら、いっそ心から嫌悪することもできただろう。機械的で事務的な関係であると割り切ることもできただろうに。
(こんなところを見せられてしまうと、ね・・・)
 守りたいと、思ってしまう。
 そして、彼の失った家族に代わるとは思わないけれど、それに近しい温もりを与えることが己にできるのなら、そうしたいと、京一郎は思うのだ。
 私のものだと呟いた、彼の声はとても頼りなく、それでいて愛おしげだった。彼の持つたったひとつだけの所有物であることを噛み締めているようだった。
 京一郎は、気づかれぬようそっと手を伸ばして、千家の艶やかな髪を撫でる。彼の姉や母であったらこうしてやったのだろうかと、知らぬ人間の優しい微笑みを思いながら。
 それは、激しい交わりの後朝の、京一郎だけの知るささやかで密やかな慣いとなりつつあった。

* * * * *

 その日の午後は市ヶ谷にある士官学校を訪れた。
 第一線で活躍する現役少将として、また同校の交友として、千家が特別講和を行うのである。
 全校生徒が直立不動で耳を傾ける中、校長たっての願いで呼ばれた彼は、四時限を丸丸使い、世界における現時点での日本の立ち位置、今後の展望、そして我が国の益々の平和繁栄のために同校生徒諸君がいかに貢献することを期待されているか、甘く深い魅惑の声で分かり易く丁寧に語った。
 袖に控えた京一郎は、将来軍人として華々しい活躍を夢見る青年らが目を輝かせて壇上の千家を一心に見つめるのを、一方で冷ややかに、また一方で一種の羨望を覚えながら眺めていた。その繁栄がどのような手段によってもたらされるのか君たちは知っているのかと、今なお完全に疑念を拭い去れぬ心がそうさせる。それでいながら、明日のみを信じて迷わず進んで行くのだろう彼らの純粋さはただただ眩しく、己もそう在れたならどんなに楽であろうと思わずにいられなかったのだ。

 講和が終わると実務演習の様子を視察、校長からの大袈裟なほどの謝辞を浴びつつも用意されていた接待を辞退した千家による、生徒らの夕食に同席して懇談したいとの提案を、校長及び教官らは大喜びで歓迎した。
 京一郎は夕食の間は車で待ちたいと申し出たが許されず、渋々大食堂の千家の横の席に腰を掛けた。
 そもそも軍籍を目指していたわけではなく、様々の手続きを飛ばして異例の特別扱いで現在少尉職にある京一郎は、正統な階段をひとつずつ上る彼らからしてみれば面白くない相手に違いないと推しての辞退であったが、陸軍省で浴びるような妬み嫉みの入り混じった視線をここで感じることはなかった。どころか、実戦中に遭遇した千家に自ら志願し、予想もできぬ戦果を挙げての大抜擢であると生徒らには伝わっているらしく、千家同様眩しいほどの憧れの眼差しを受け、思ったのとは逆の居づらさを感じるほどであった。
「・・・何やら皆さん、私のことを勘違いしているようです。」
「良いではないか。三宅坂では理不尽な思いをしているのだから、せめてここでは得意げにしていればいい。」
「分かってるなら、もっとうまくやってくれればいいじゃないですか。それこそ陸士に私を編入させるとか。まだ素人なんですから。」
「そんな悠長なことをしていられるか。お前は私の横で実践から学ぶのだ。その為の大抜擢なのだぞ。」
「私は希望したわけじゃないんですが。」
 小さく憎まれ口を呟いたところで、柊少尉殿、と声をかけられた。
 振り向くと、今年入学したての新入生と思しき少年が、遠慮がちに横に座ってもいいかと尋ねてきた。了承してやると、嬉しそうに頭を下げた彼だけでなく、数名が食事の乗った盆を手に京一郎を囲む。
 思わず千家を見遣ると、「せいぜい今後の役に立つ訓示を与えてやれ」と言われた。軍籍を賜ってから、先輩風など吹かされこそすれ自ら吹かせたことなどない京一郎は困惑する。何を言ってやればいいのやらと途方に暮れていると、初めに声をかけてきた少年が椅子を寄せ、弾む声を抑えるように言った。
「僭越ながら、柊少尉殿は、大変にお強い異能をお持ちであるとお見受けいたします。」
 異能を持つ人間は、同類を嗅ぎ分けると聞く。恐らくはこの彼もそうなのだろうが、であれば千家の方にこそ並外れた力を授かっていることに気付かぬわけがない。しかし、彼の周りはいかにも上級士官候補生といった優秀そうな生徒が囲み、国際情勢の話に花を咲かせている。こちらに居る彼らはまだ年少であることもあり、流石に千家に近寄ることはできず、歳近い京一郎の方へ声を掛けたようである。
 京一郎の無言に無礼を働いたと思ったか、彼は「突然失礼いたしました、自分も異能を扱う者であります」と小声で付け加えた。
「ここに居ります4名は幼馴染で、皆同様の能を持っております。これを知る者は我らの他にはありませんが、尊敬する少尉殿に本日お会いし、我らと同じ力をお持ちであるようだと思い、居ても立っても居られず、僭越ながらお声を掛けた次第であります。」
「・・・いや、私は――」
 まるで異能を用いて千家の眼鏡に適う働きをしたと言い当てられているようで、認めていいものかと言葉を選んでいるうちに、別の少年が興奮気味に口を開いた。
「我ら、幼い頃から己の能力に悩んでおりました。少尉殿のように胸を張れる軍人になるべく、切磋琢磨する所存であります。」
「自分も少尉殿にお会いできて光栄であります。」
「また視察においでになるのを楽しみにしております。」
 彼らは言いたいことだけ言うと満足した様子で、直立不動の姿勢で敬礼すると、盆を持って去っていった。
 京一郎は呆気に取られてそれを眺めているしかなかった。
「大人気だな、柊少尉殿。」
「ろくに会話もできやしませんでしたよ。・・・それより、この懇談の目的は彼らのような・・・」
 声を潜めると、千家は不敵に微笑んだ。
「察しのとおり。我々の把握していない異能者を定期的に探しに来る良い足掛かりとなったな。特に、お前は慕われているようだから、今後はお前ひとりを寄越しても十分役を果たせるだろう。」
「我々の道へ年若い彼らを引き摺りこむのですか。」
「彼らが、我々の道へ進んでやってくるのだ。」
――その道の未来は本当に明るいんですか。
 喉元まで出かけた言葉を、京一郎はそっと飲み込んだ。
 未来が明るいか暗いかなど、現時点で分かるはずもない。行ってみなければ、その時になってみなければ、知りようもない。だから、己にできる最善を尽くすのだ。何時であろうと、何処であろうと。

  えと・・・桜は後篇に出てきますです。

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