ma bouillotte 後篇


「あ、・・・」
 生徒らとの懇談もつつがなく済ませ、車に乗り込んだ長髪に、何か付いている。京一郎は奥に腰掛ける千家の肩に手を掛けた。
「少し、動かないでください。」
「なんだ。」
 糸屑かと思いきや、小さな花弁だった。
「桜の花びらです。・・・そんな時期なのですね。」
 千家はさして興味もなさそうに、ふぅん、とだけ言った。
 桜の花。春の花。妹の名と同じ花。
 昨年までは、村有数の桜の木の下に家族で出かけ、母と妹手製の弁当に舌鼓を打ったものだったが。
(今年は花見すらも、望めないだろうな。)
 千家が運転手に何か告げている。恐らく明日の外出先についてだろう。
 市ヶ谷の若者たちは、己と国家の未来へ瞳を輝かせていた。
 かつてあの学校で学んだ千家は、恐らく同じ歳の頃すでに親類の大半を失い、今のように目をぎらつかせ、己の能力を如何に利用して国を護ってゆくか日々考えていたに違いない。
 京一郎に声をかけてきた異能者の生徒たちは、近い将来千家の部下となり、死霊を扱う指揮官として活躍することだろう。
 彼らの未来はすなわち、千家の描く日本の平和繁栄である。
 しかし千家の明日に、彼自身の平和繁栄は訪れるのだろうか。
 京一郎が千家と歩く道の先に、千家を幸福が優しく包む未来はあるのだろうか――。
(・・・明日のことは考えるまい。帰ったら軽く湯を浴びて、さっさと寝よう。)
 背もたれに寄りかかり、目を閉じたところで、車が停まった。
 千家の自宅まではもう少し時間が掛かるはずなのだが、まだ業務が残っていたのだろうか。
「京一郎、降りろ。」
 今度は何だろう。内心溜息を吐く思いで、京一郎は車外から差し出された千家の手を取る。
 ここは何処なんです。そう聞こうと、顔を上げると――。
「・・・・・・わぁ・・・」
 月明かりに照らされて、白い花弁が夜空に浮かび上がる。
 満開の桜の木々を前に、千家は微笑んだ。
「少し、寄り道するのも悪くない。」
 市ヶ谷を出てさして長距離を移動した様子もなかったから、御霊神社の近辺だろうか。そういえば陸士の校長が帰りに寄ったらどうかなどと言っていたような気もする。
 裏手なのか、桜の下に陣取って花見をする者も居らず、静かだ。
 夜桜見物など、したことはなかった。家族と出かけるのはいつも、天気の良い日中であったから。

 外套が軍服に擦れる音と、軍靴が土を踏む音だけが規則正しく聞こえる。たまに枝を揺らす風のさやさやという音は、まるで花々を仄明るく照らす幻想的な月光が、下界へ降り注ぐ際に鳴らしているかのように思われた。
「綺麗、ですね。」
 京一郎は、手を繋いだまま歩く千家の横顔をそっと見る。市ヶ谷で車に乗り込んだ時はいつもどおり人当たりの良い笑みを湛えていたが、いまは幾分か気を楽にしたのか、特段の表情は認められない。そんな顔でも、透き通るような白磁の膚は夜の空に良く映えていた。
「そうだな。」
 ふと立ち止まり、千家は花を見上げた。
「・・・誰かと花を見るなど、何時以来だろう。」
 まるで風の囁きのような、消え入りそうな呟きに、京一郎の胸は締め付けられる。
 彼が真に心を許し、美しいものを美しいと言い合えるような相手は長いことなかったのだと、その独言から察せられた。
(千家少将は、私と一緒に、桜を見たいと思ったのだろうか。)
 それとも、いつもの気まぐれなのだろうか。
 言葉の奥に隠される心を知りたくて、京一郎はその瞳を覗き込む。
 千家は京一郎の頬に触れ、そっと上向かせた。
 その仕草が優しかったから、彼の頭を撫でた今朝のような温かい気持ちになり、京一郎は目を閉じた。
 春先の花の香りが、ふわりと頬を掠める。
・・・しかし、降ってくると思ったくちづけは施されない。
 まるで誘いを無視されたようできまりが悪く、京一郎は逡巡したが、いつまで待っても何も起こらないので、意を決して薄く目を開く。
 果たして千家は息のかかりそうな近さから京一郎を見つめていた。
 くちづけが欲しいのか、など揶揄われるかと先回りして予想し、顔が熱くなる。事実、期待していたわけではあるが、それを口に出して暴かれるのは避けたい。何故なら京一郎は千家の稚児でなく共犯者なのであり、だからつまり、愛を求め合う仲ではないのだから。
 何も言わず京一郎を見つめる千家の瞳は、逆光に隠されて、何を思っているのか知ることができない。
 何か用ですか。照れ隠しに冷たく言おうと口を開いたとき、やっと彼の唇が触れた。
「・・・っ」
 温かく柔らかな感触に続き、閉じようとした唇へ舌が潜り込む。
 意外にも揶揄われなかったことに少しだけ安堵したせいか、京一郎の舌は無意識のうちに千家の舌を迎え入れていた。
 触れ合った瞬間、体の内側が悦びに震える。
「ん・・・ぅ・・・」
 胸にしがみついた京一郎の背を、千家はもう片方の手で支えた。
 快感から逃げようとする舌を追うときも、唇を甘く噛むときも、その仕草は柔らかく、まるで花弁の触れるようだ。
 さらさらと頬をくすぐる長い髪の毛も、たまに舞い落ちて実際に髪を撫でる花弁も、心地良くて、二人の触れ合いを祝福しているような気にさせる。
 昨夜とは全く違う穏やかで優しい接吻に、京一郎はゆっくりと溺れていった。

 唇が離れ、京一郎が瞼を開くと、千家はやはり穏やかに微笑んだ。
 その笑みは、陸士の壇上で皆に向けたものとも、校長との歓談の際に湛えていたものとも、夕食の場で生徒ら個別に向けていたものとも違って、何のカリスマも感じられぬ、肩の力の抜けた、彼の本来のものであるように思われた。
(・・・私は、貴方のこの笑顔が、一番美しいと思う。)
 そう言ったら、千家は何と答えるのだろうか。
 見惚れる京一郎を置いて、千家は桜の林を進んでゆく。
「・・・ぁ、待って」
 ゆったり歩く千家の足は、しかし何故か速く、なかなか追いつけない。今の今まで横に並び、手を繋いで歩いていたというのに、不思議だ。
「千家少将、」
 呼びかけてみるが、振り向かない。
(どうしたんだろう?)
 これまでの様子からして気分を害したとは考えにくい。何か用を思い出したにしても、車を停めているのは彼の進む先と逆の方向だ。
 速足では到底追いつけぬと知り、京一郎はついに駆けだした。
 走っても走っても桜の木が途絶えることはなく、時折風が千家の長い髪を揺らし、また薄っすらと輝く仄白い花弁が纏わりつくように彼の周りを舞う。
 千家は変わらず悠然と歩いている。しかし、腕を振って走る京一郎には、どうしたことか追いつくことができない。
「待って、くださいよ、千家――」
 再度呼びかけたとき、桜吹雪が舞った。
 何処から吹き付ける風なのか、枝中の花を散らさんばかりの勢いだ。
「千家少将・・・」
 やっと振り向いた千家は、淡く輝きながら散りゆく花弁の中に立っていた。
 花の舞う様子もその中に佇む千家も、まるで幻想的な絵画の様に美しい。あまりに美しくて、・・・否、美しすぎて、怖くなる。
「急にどうしたんです?」
 尋ねながら、何か良くないことが起こるような気がして、京一郎は手を伸ばした。
「ねぇ、そろそろ帰りませんか。」
 しかし、千家はその手を取ろうとしない。ただ、青白い顔に儚い微笑を湛えているだけ。
「千家少将?」
 京一郎は一歩踏み出す。しかし千家との距離は縮まらない。
 もう一歩。戯れるように桜吹雪が舞い踊る。
(何か・・・おかしい!)
「千家少将っ」
 京一郎は再び千家に向かって駆けだしたが、まるでその場で足踏みでもしているかのように、京一郎の身体は前進することができない。足元に積もった雪のような花が飛沫のように飛び散るだけ。
 そうしているうちにも、千家はどんどん遠くへ行ってしまう。
「待って、・・・千家っ」
 桜の太い根に絡み取られ、京一郎の足が止まる。千家はこちらを見ているのに、その姿はどんどん遠ざかってゆく。
「行かないで、」
 花弁に囲まれながら、千家は少し淋しげに、優しく目を細めた。
 彼の向こうに見えるのは、どこまでも広がる夜空・・・闇――――。
「厭だ、行かないで。お願いです・・・・・・・・・伊織・・・」
 ひときわ大きな風が、視界を奪うほどの花を散らす。花弁に壊されるように、千家の姿が塗り潰され、少しずつ見えなくなってゆく。
「伊織・・・!」

* * * * *

 伸ばした掌は温かな体温に包まれた。
 目の前に、柳のような黒髪が垂れ下がっている。驚いて思わず手を引こうとしたら強く掴まれた。
「おい、どうした。」
 聞き慣れた、甘く掠れた声。
「・・・・・・せんげ、しょうしょう・・・」
「っふふ、・・・お前。」
 目元を指で拭われると、ぼやけていた視界がはっきりしてきた。
 気の抜けた様子で笑う千家が覗き込んでいる。枕元の洋燈の橙色の光が、その顔を常になく柔らかく優しく見せた。
「いったいどんな夢を見たのやら。泣いていたぞ。」
 言いながら手を伸ばし、京一郎の前髪を指で梳いた。
(夢、だったのか・・・?)
 千家はここに居る。声も聞こえる。触れる感触も温かい。
 それでもまだ、夢から続く不安な気持ちが消えず、京一郎は両手を伸ばす。
「何だ。」
 触れ合う時はいつだって身勝手な彼は、抱擁を求めていることに気づかない。不思議そうに見返している。
 焦れた京一郎は千家の首に腕を回し、抱き締めた。
「・・・・・・」
 首筋から感じる鼓動に、京一郎は深く息を吐いた。
 一瞬身体を硬くして抱き返さずにいた千家は、ややしてから京一郎の背に手を回し、静かに笑った。
「寝惚けているのか。」
「・・・そのようです。・・・だから、ねぇ」
 布の窓掛けの向こうの空は、まだ漆黒の闇。暁まではまだ間がある。ちらほら散って見える白いものは、邸内の桜の花弁だろう。
 京一郎は抱き締めたままの千家を寝台へ引き込んだ。
「こうして、いましょう?」
「・・・どうした。随分と甘えただな。」
「貴方を湯湯婆に、私は二度寝するんです。」
「私が大人しく抱かれていると思うか?」
 両腕で京一郎の身体を囲うように圧し掛かり、千家は目を細める。
 常ならば慌てて逃げ出そうとするところだが、京一郎は千家の頬を両手で包んでじっと見つめた。
「・・・・・・私を置いてどこかへ行ったり、しないでくださいね。」
「・・・なんだ、藪から棒に。」
「いいから。分かった、って、言ってください。」
 千家は怪訝そうな顔で、京一郎の隣に身体を横たえた。
 その顔を覗き込み、京一郎は念を押す。
「・・・ね?」
 見つめ返す瞳は、何か思い出したのだろうか。一瞬、遣る瀬なさそうに逸らされ、それから恨めしそうに細められた。
「・・・・・・お前が私から離れなければ良いだけの話だ。」
 拗ねたように呟いて、千家は目を閉じる。
「私は貴方の側に居ます。でも貴方の方から離れてしまったら、どうしようもないこともあるでしょう?」
「そうだとしても、離れるな。」
「そんな、無茶な・・・」
 だって私は全力で追いかけたんですよ。なのに貴方はまるで人外の様子で、どこかへ消えてしまったんだ。
 京一郎は言おうと口を開き、しかし黙っていた。夢の話など、したところで何になろう。
 吐く息が、鼻腔を通る際に少しだけ震えた。
 その音を耳聡く拾ったのか、千家は薄く目を開け、囁いた。
「・・・そのような、夢だったのか?」
 京一郎の頬を包むように、細長い指が撫でる。
 その優しい触れ方は、夢の中の彼も同じだった。
 いや。昨晩、市ヶ谷の帰りに桜を見に行ったのは事実なのだ。千家と手を繋いで、御霊神社の裏を歩いたのも。
 異なっていたのは、既にほとんど花が散ってしまっていたこと。
 それでも辛うじて残っている枝を引き寄せて、千家は、香りはあまりしないのだな、など言っていた。
 桜の木の下で、くちづけは、したのだったか。
 ふと切ない気持ちになり、京一郎は頬を撫でる千家の指に掌を重ね、無言で頷いた。
「そうか。」
・・・くちづけは、したのだった。夢と同じように、甘く、優しく。
 あのとき、京一郎は、ずっとこうして千家の腕に抱かれ唇を触れ合わせていられたなら、もう何もいらないと思ったのだった。
 まだ肌寒さの残る春の夜風に吹かれながら、お互いの体温に暖をとり、お互いを求める熱に暖をとり、優しい吐息だけ感じていたいと・・・――。

 愛を求める相手ではない。
 そう、言うことはできない。
 けれど、確かに、お互いを求め合っている。
 求め合い、与え合うことが、ささやかでも彼の幸福に繋がればいいと、京一郎は思う。
 千家は優しく目を細めて、そっと京一郎の唇にくちづけを落とした。
「・・・温かい。」
「そうか。」
 mon cheriと、言えないのなら。
 差し詰め今のところは、こういうことにしておこう。
「お休みなさい。」
――ma bouillotte.
 京一郎は千家の膚に頬を寄せ、目を閉じた。
<了>   
  夜中に起き出していた千家少将殿は、きっとおトイレだったのでせう。
  bouillotte:湯たんぽ だそうです。

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