One more time, One more chance 千家 1 記憶
物心ついた頃から、気付くとその名を祈るように呟いていた。
誰かは知らない。
いや、よく知っている。
しかし、よく知っているのは、私ではない誰か。
その誰かというのは、それでもどうやら私のようで、私は幼い頃よく己とその”誰か”の記憶を混同して発言し、家族に首を傾げられた。
「いお、この間一緒に弾いたのはベートーヴェンのメヌエットでしょ?ユモレスクはまだやってないよ。」
「麹町区?伊織はよく知っているな。確かに戦前はそう呼んでいたようだが、今は千代田区というんだよ。」
私にはどうやら私の与り知らぬ記憶があるようだ、と気付いたのは、小学校に上がった頃だったか。
人格が二つあるわけではない。
記憶の持ち主は、確かに私自身であって、別人ではないのだ。
しかし、生きている時代が異なり、考え方も異なり、そしてその人生は、ともすればいま私の生きる世界を変えていたかもしれない、とんでもないものであったようであるにもかかわらず、それはいくら調べても、私の生きるこの世界の歴史とは符合しないのだった。
前世でもない。なぜならこの世界に、記憶の私が居た歴史など、ないのだから。仮に確かに私が居たというのなら、何らかの痕跡が残っていないとおかしい。そのくらい、記憶の中の私は軍事的・政治的に影響力を持つ人間だった。
では二重人格でも前世でもないのならば、何なのか――たとえば、別の世界線にいる私であると考えるのはどうだろう。
それはなかなかに面白い遊びだった。
私と関係ないどこかの世界に居る私が、幽霊を使役して戦う。
周りからは嫌われているようであることが少々玉に瑕だが、それにしても強い使命感の下、国を護るため突き進む姿に嫌悪感を抱くことはなかった。
私の同級生や学校の先輩には、その謎の記憶に登場する人物に酷似した人間も数名いた。しかしながら、彼らには私のように不思議な記憶、或いはもう一つの人格を持っていたりするような様子はなかった。
記憶ははじめから、完全ではなかった。
断片的な映像が私の中に存在していて、ふと思い出した新たな記憶は、これまでに私の知るそれとつながりがあるものもあれば、関係性が不明瞭なものもあった。
記憶がよみがえるきっかけには全く規則性がなく、突然、不意にイメージとして浮かぶので、それが本当に己の経験したものであるのか、違う世界の誰かのものであるのか、瞬時に判別の付かないことも多い。
手にした記憶を頭の中で組み替えて、時系列を辿り、別の世界の私がどのような人生を送ったのか考える作業は、まるで推理小説でも読んでいるようで、やはり楽しいものであった。
しかしながら、大きなパズルを埋めるようなこの作業を繰り返していくうちに、私はよみがえったはずの記憶が消えている可能性があることに気が付いた。確かに先日までは憶えていたはずの、何かが思い出せない。それがいったい、何に関わる記憶なのか、大きな画の中のどのピースに当てはまるものであるのか、全く見当もつかない。一度そうなると、ただただ頭の中に靄がかかったように不快で、それまで丁寧に作ってきたパズルを卓上にばらまきたいような気になった。
そこで、私は記録することにした。
たかが子供の想像のようなもので、或いは妄想小説を書いているようでもあり、どこか不本意ではあったが、私は記録を続けた。
なぜなら、この私とは異なるもう一人の千家伊織という名の男が辿った人生をどういう因果か私が知っていることには、何か意味があるのだと思ったから。
そして、気づくとつい口ずさんでしまう、私の知らないある男の名について、その秘密を知りたいと思ったから。
成長に伴い、私が新たに手に入れる記憶は、過酷なものばかりだった。
まだ無邪気に記憶を弄んでいた頃は、少年心に楽しいものが多かったような気がするが、歳を重ねるに連れ、この別世界の私にはあまりに重く悲惨な使命が課されていたことが分かってきた。そしてその私は、使命に拘るあまり随分と非道なことも平気でやってのけたようだった。嫌われ者だった理由も、徐々に分かってきた。
彼――もとい、私の、必要あらば目的を阻む人間や組織を排除する冷血振りにも怖気が立ったが、とりわけ柊京一郎という青年――私が気付くと口にしてしまう名は彼のものだ――への仕打ちについて、その馴れ初めというか、関係するようになった最初のうちの記憶を得たときは、正直あまりに恐ろしくて、数日の間、当時の千家伊織を多少若返らせただけで瓜二つの己の顔を鏡で見ることすら、不気味に思えるほどだった。
彼があのような無体を働いた理由は、さらに前の記憶に手掛かりがあったようで、私はそれを思い出したこともあったような気がするのだが、記録を始める前にやはりどこかへ消えてしまったのか、すでに思い出せなくなっていた。
当時私はまだ中学に上がったばかりで性にも疎く、大人になったら自分もあのようなことをするようになるのかとただひたすら怯え、初潮に戸惑う少女のように自己嫌悪に悩まされた。
別世界の私の死に際がどのようなものだったか知ったのは、成人した後のことだ。
その頃にはさすがに、己と記憶とは別のものであると切り離して見ることができるようになっていた。
壮絶そのものの人生ではあったが、千家伊織という男は、柊京一郎の登場により、総じて己の短い命を悔いずに逝ったのだということが分かり、少なからず安堵の心持ちがしたのを憶えている。
しかし、そこで私の中に疑問が浮かんだ。
本当に、彼は悔いていないのだろうか。
もしそうだというのなら、なぜ、こうして私に記憶が絡まり付いてくるのか。
なぜ、事あるごとに、柊京一郎を恋うのか。
彼の京一郎に対する情念は並大抵のものではなく、それは記憶の傍観者であるはずの私の感情まで支配する。
京一郎、と、見たことも会ったこともない誰かの名を口ずさむと、私の胸はささやかに温まり、それでいて切なく疼く。
迷惑だ、と思った。
私は京一郎など知らない。だから、彼を想って胸を焦がすなど、まるで他人事のはず。
だというのに、記憶は飽かず私に彼の名を呼ばせ、甘く優しく悩ませる。
ここに居るわけでもない、どこに居るとも知れない、いや、そもそもどこにも居るはずのない人間を、それでも呼び続ける。
そんなことを無関係のはずの私にさせる千家伊織に悔いはないなど、どうして言えようか。
次回は伊勢兄弟とのエピソードです。