One more time, One more chance 千家 2 端緒



 己の記憶がただの妄想ではないと思い始めたのは、華道の年少者向け体験教室で、ある子供に出会ってからのことだ。
 あの日、姉に請われて渋々顔を出した教室が終わると、参加者たちはめいめい花を手に帰っていったはずだった。
 一日中子供の相手をさせられて草臥れた私は後片付けを済ませ、気分転換に近くの公園へ向かった。そこの東屋の椅子で読書をするのが、あの頃の私の少ない楽しみのひとつだったからだ。
 公園へ向かう途中にある路地を通りかかったとき、異様な気配にふと足を止めた。電信柱の陰に、小さな子供が隠れている。こちらを、強い眼差しで見つめている。
 普段ならば気にも留めないところだ。しかしそのとき私はなぜだか、引き寄せられるようにその子供に近づいたのだった。
「何か、用か。」
 腰を屈めて、目線を合わせる。子供と話すときはそうするよう、姉に言われていた。
「見つけた・・・」
 その子供は、まるで地の底から滲み出るような低い声で呟いた。
 おや、と思った。見覚えがある顔だ。今日の教室で持ち帰らせた花束を抱えているから、参加者のひとりだろう。だが今日会ったから覚えているわけではない。私はこの顔をもっと以前から知っている。さて、いったい誰であったか。
「見つけた、千家伊織。」
 はっきりと名を呼ばれた。今日の教室で私は単なるサポート役だったから、生徒たちへの紹介は姉が適当に済ませ、確かいーちゃん先生などと呼ばれていた。興味がなかったからもう半ば忘れかけているが、少なくとも伊織という名であることを知る者はいないはずだった。
 その子供らしからぬ獰猛な片目は、彼の震える肩とは対照的に、明らかな殺意をもって私を捉えていた。
・・・思い出した。これは伊勢薫だ。
 私と敵対する幼馴染みの将校の部下だった。私を殺そうとした男の術で、死んだ体に魂を繋ぎ止めていた、幽霊人間――死霊だ。
 ふと、私は彼の殺意の理由に思い当たる。
 もし彼があの伊勢薫であるのなら、あの記憶を持っているなら、彼は恐らく、その術を施していた男を殺した――本当は彼も既に死んでいたのだが――のが私だと思っているはず。・・・まぁ、ほとんど正解だ。
 彼の上官が死んだのも私のせいだと思っているのだろう。・・・それも、間違ってはいない。
 そして何より、記憶の伊勢薫は彼をこの世に繋ぎとめる術と同じものを使って戦おうとする私を憎んでいた。幽霊人間は、幸福にはなれない。真の意味で幸福を呼ぶこともない。――たとえ愛しい人のそばに、定められた時間より長くいることが出来るのだとしても。
「僕はあんたを・・・」
 薫は私に向かって手を伸ばした。
 頸を締めようというのか、それとも掴み掛かろうというのか。
 悩ましい思春期をなんとか通り越した私は、詰まるところ己と記憶の千家伊織とは別のものであると結論付けていた。それに従えば、仮にいくら伊勢薫が私と同じ記憶を持ち帝国陸軍少将千家伊織のことを憎んでいようが私には無関係の話であり、彼を無視して去っても良かったはずなのだ。
 にもかかわらず、私はその場を動くことができなかった。
 なんとなしに、この子供の好きにさせてやっても良いのではないか、という気がしてしまったのだ。
 それが、幽霊人間・伊勢薫に対する憐憫或いは惻隠の情によるものなのかは知らない。
 だが、それもいいか、と思ったのだった。
 子供の力で殺されるとはついぞ思わなかっただけかもしれないし、いざとなったら反撃できるという自信があったのかもしれない。そのときの己の感情を、私は複雑に記憶していない。単に、どうでも良かったのかもしれない。
 とにかくそうして様子を見ていると、私の目の前で小さな手はぴたりと動きを止めた。
 時間にして数秒だったろうか。
 いい加減億劫になった私は彼に目線を合わせるのをやめて、腰を伸ばした。
 すると、伊勢薫はその手を天高く突き上げ、私が身構える間も無く、高い声で叫んだ。
「背ぇ高っ!」
 何をしているのかと思えば、どうやら私の背を計っているようだ。
 まるで初めてキリンでも見たかのようなはしゃぎようだった。呪い殺しそうだった恐ろしい目はいま、憧れにきらきらと輝いている。
「どうしたらこんなに伸びるの?僕はねぇ、毎日牛乳飲んでるんだ!」
 ぴょんぴょんと飛び跳ねて、私の頭の先に手を届かせようとしている。
 私は呆気にとられてそれを眺めていた。
「えぇっと・・・、あ、思い出した、いーちゃん先生!ねぇ、先生は小さい時から背が高かったの?やっぱりチビだったこともある?」
 子犬のようにキャンキャンとうるさいと思った。私は何と答えるべきか分からず、沈黙していた。
「ねぇねぇ、なんで喋ってくれないの?ねぇ、いーちゃん先生ってば!」
 その呼び方、どうにかならないか。そう言おうとして、薫が私を陸軍将校の千家として認識していないようであることに気付いた。先ほどは確かに、私を千家伊織と呼んだというのに。
「君は、誰だったかな?」
 訊くと、薫は得意そうに答えた。
「薫だよ。伊勢薫。それよりねぇ、 先生はチビだったの?教えてってば。」
 本心から言っているのだろうか。彼は「僕はあんたを」の続きを忘れてしまったのだろうか。
「・・・・・・」
「ちょっとぉ、いーちゃん先生ってもしかしてコミショー?」
 薫は少し憐れむように目を細めてこちらを見た。コミショーとは何だ。
「オトナにもいるんだ。会話できない人って。」
 そして私の太腿を横から、ぽん、と親しげに叩いた。
「仕方ないなぁ。でもいいよ。僕は優しくしてあげるからね。」
「こら薫!」
 と突如、背後から叱責が飛んできた。
 振り向くと、薫と姿形のそっくりな少年が、息を切らして立っている。
「急にいなくなるからどこへ行ったかと思えば!何やってるんだ!」
「えー、いーちゃん先生がコミショーだからさー」
 少年はつかつかと薫に歩み寄り、彼の後頭部を掴むとぐいと引き倒した。
「千家先生、無礼なことを弟が言いました!どうもすいませんでした!」
「痛い!痛いよ兄様ぁ」
 あぁ、そうか。これは薫の双子の兄の馨だ。
「お前、先生がどんなにすごいか分かっているのか?!そもそも僕、たちが体験教室に来ることにしたのは、い・・・千家先生のライブ制作を見たからだろう!」
「だけどぉ・・・」
 薫の手をしっかり握って、馨はもう一度頭を下げた。
「すいませんでした!弟にはちゃんと言いますから、すいません!」
 そして、逃げるように走って行ってしまった。
 私はといえば、やはりそれを呆然と見ているだけだった。

 慌ただしい子供達を見送り、やっと公園までたどり着いた私は、東屋のベンチに座って考えた。
 伊勢薫は確かに殺意をもってこちらへ接触してきた。それは恐らく間違いない。
 しかし、突然一転して、やけに馴れ馴れしくなった。あれはいったい何だったのか。
 例えば私を欺くための罠だとして、ならばなぜ初めからそうしない?あそこまで殺気を放っておきながら、途中で方針を転換するにしてもやり方があまりに雑だ。彼はそこまで頭の足らない人間ではなかったように思う。
 それから兄の馨だが、彼はやはり私のことを陸軍少将と認識してはいないようだった。どころか、どこかで私の制作様子を見てこの教室に参加したようだ。あの平謝り振りからして、こちらに害なそうという気があるようには思えない。
 つまり、薫には私と共通する記憶があったが、それが私との会話の間にどこかへ消えてしまい、馨にはそもそもその記憶すらない、ということか。
 記憶が消えるというのは私にも起こっている症状だから、可能性として大きい。しかしだとすれば、そのきっかけはいったい何なのだろう。
 薫が態度を一変させるまでの間の出来事を、私は丁寧に反芻してみた。
 彼は私を見つけ、見詰めた。
 気付いた私が近づき、何か用かと話しかけた。
 薫は低く、見つけた、千家伊織、僕はあんたを、と呟いた。
 私に向かって手を伸ばした。
 それだけだ。
 どれがトリガーだったのか。記憶の消失は一時的なものなのか。

 これまでは子供などさして興味がなかったが、伊勢薫が今後私に対してどのように関係してゆくのか、俄然知りたくなった。
 幸い、今回の教室に満足したらしい伊勢兄弟は、後日正式に姉のクラスに入室した。その頃、作品制作の方に力を入れていた私は、華道教室では単発の特別講座しか持っておらず、代わりに時間のある日には姉の教室の手伝いに駆り出されることが割と頻繁にあった。
 先日の一件以来、教室で私を見かけると、薫は一層懐いて絡み付いてくるようになり、馨は薫の勢いに巻き込まれておずおずと話しかけてくるようになった。
 小学生など煩いだけだと思っていたが、彼らの発想や発言は大人と異なり独特で柔軟で、相手をするのは思いの外退屈ではなかった。
 そして薫が、あの日の路地でのような、怨恨の籠った視線を再びぶつけてくることは、以降二度となかった。

 一方、私自身の記憶については、柊京一郎の出現から私の死亡までの時期について、概ね抜けなく再構築された。しかし日にしてそれはたった十日やそこらのことであり、それ以外のものについては結局ボロ布のように穴だらけのままだった。
 きっと既に手に入れたピースもあったのだろうが、パズル自身が完成することを拒んだのか、いつの間にか抜け落ちて、もはやどこに行ったか分からなかった。そして、それ以上、新たに記憶が蘇ることもなくなった。

  いーちゃん・・・w
  次回はついにイヤホン野郎と出会います。

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