手翰 一


 ゆらゆらと、反す落陽は波の上に揺蕩ふ。

 甲板では黒色の外套に身を包んだ将校が、落下防止の為設けられた鉄柵に身を凭せ掛け、水面を虚ろな瞳で眺めてゐる。
 揺れては消えかけ、また揺れては強く光を反す其れはまるで、彼が何より失ひたくない命の、将にいまを映してゐるやうに思はれた。

 数日前迄、如何なる時も彼を側近く控へさせ、時には周囲に見せつけるやうに抱き寄せるなどしてゐたこの艦の長はいま、其の横に居ない。
 殉職してはをらぬ、まだ。
 併しながら此処数日、其の姿を艦上に見せてゐなかつた。

 柊少佐が艦長室の扉に手を掛けると、張りのある声に呼び止められた。
「柊少佐殿」
 少尉職の将校が駆け足で近づく。
「千家大将殿宛の手翰が届きましたが、大将殿にお取次ぎいただけますでしやうか。」
「私が代理で受け取らう。差出人は誰だ。」
 すると将校は気まづさうに目線を彷徨わせ、恐る恐る答へた。
「はいツ・・・あの、必づ、大将殿に手渡すやう、厳しく言ひ渡されてをりまして・・・」
「誰が言つた。」
「千家大将殿で、あります・・・」
「大将殿より代理を仰せ付かつている私が受け取つて、何の問題がある。寄越せ。」
「はいツ、いえ、併し・・・」
 将校はまごまごしてゐて、一向に手翰を渡さうとしない。
「上官命令だ。聞けないと?」
 拒まうものなら首を撥ねさうな底恐ろしさを滲ませる冷やかな声にびくりと肩を震わせ、然し其れでも少尉は蒼白のまゝ直立不動を続ける。常であれば聞き分けの良い此の男の煮え切らぬ態度に少佐は苛立ちを募らせ、其の手に持つ手翰を奪ひ取らうとした。
 少佐の細い腕が伸び、少尉が手翰を持つ手を背へ回した時。
「其ンな風に、部下を虐めるものではない。」
 甘く掠れた声に、少佐は思わず振り返つた。
 真暗な艦室から、とつ、とつ、と足音がして、色白の肌が、まるで幽霊のやうにぼうつと浮かび上がる。
「・・・なア。お前も、苦労してゐるだらう。」
 ぬらりと現れた艦の主は長く垂れる髪を掻き上げもせず、少佐の肩に顎を乗せて小さく笑ふ。上衣どころか手拭ひすらも纏わず惜しみなく曝す膚は雪のやうに白く女のやうに艶やかで、然し薄暗い夕闇の中、其の膚の表面には傷痕のやうな数多の細かな線が見えた。
 少尉はごくりと唾を飲み込み、其の刹那、音を鳴らしたことを後悔する。
「・・・敬礼。」
 徐に響いた可憐な声にはつと顔を上げると、当人の居らぬ処ではまるで少女のやうだと幾分の憧れを込めて囁かれ、男のみ載る此の艦内でほゞ無二の癒し役として密かに崇められてゐる少佐は、其の眼差しで射殺さんばかりに少尉を睨めつけてゐた。
 少尉は声も上げられず反射的に敬礼の姿勢をとり、それから絶望的な顔をして目を閉じた。其の目蓋は恐れにひくひくと痙攣する。
「こら。虐めるなと云つただらう。」
 千家大将は楽しさうに笑ひながら、少佐の頬を撫でた。
「少尉を叱るのなら、先づお前が敬礼して見せないか。」
 白い指先は艶めかしく蠢き、顎をくすぐる。少佐は変はらず少尉を睨めつけたまゝ、氷のやうな声で答へた。
「此処で私が敬礼をすると、背に載つてゐる大将殿が落ちてしまひます。」
「口の減らぬことだ。」
 大将は気を悪くするでもなく少佐の口答へを流し、少尉に向かつて手を伸べた。
 手翰を寄越せといふことだと察し、慌てて背の後ろに隠した文を渡すと、大将は其のまゝ闇のやうな室内へまた、とつ、とつ、と音を鳴らしながら戻つてゐつた。
「本日は以降此処へ誰も寄越さぬやうに。」
 念を押すと少佐も後へ続く。
 此処までの命かと一度は覚悟を決めた少尉は、咎めのなかつたことに安堵し、其の場にへなへなと座り込んだ。

  遠征する頃には柊少尉もせめて少佐くらいにはなってるだろうということで。仮名遣いに間違いを見つけた方はぜひご指摘くださいm(_ _)m・・・って早速10個以上見つけた!orz

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