手翰 二


「部下の前に出る際は着物を着てくださひと、何時も申し上げてゐるはずですが。」
 真暗な室内で灯も点さず寝台へ腰掛ける大将を見降ろし、少佐は呆れたやうに呟いた。
「寝覚めに小言とは、閉口させられる。」
 千家大将は笑ひながら女のやうに長い髪を掻き上げてゐる。
「暗いな。洋燈を点けろ。」
「灯など無くとも見えてをります。」
「幽霊か化物かと陰口を叩かれてゐる大将の室に入つて灯が点らないとなると、お前迄御同類かと疑はれるぞ、プリマ少佐殿。」
「久し振りに起き出したかと思へば、無用のお気遣ひ痛み入ります。」
「おやおや、御機嫌斜めだな。鉄のプリマ・ドンナとは云つたものだ。」
 柊少佐へ憧れを抱く部下の一部が密かに使ふ彼の呼び名を持ち出しても動じぬので、苦笑いをしつつ大将は手づから洋燈を点した。
 橙の光に浮き上がつた躰は、少佐の知るよりずつと痩せ衰へ、ひ弱であるやうに見えた。
「貴方が眼を開けぬ間も、私の血をお口に含ませてはゐたのですが・・・」
 少佐は唇を噛む。
 未だ帝都へ出て来て間も無い頃。
 学生の身であつた少佐を惑はし其の手中に収めた、當時少将であつた千家の躰は精力迸り、石像のやうな膚は滑らかで、鍛へた肉は盛り上がり、強健な美しさが宿つてゐた。
 併し、いま。
 時に禍々しくすらあつた筈の彼の美貌からは不吉さが薄れ、精悍さより唯々可憐さのみが増してゆく一方、代りに其の精力は木の器から滲み出る雫のやうに、漸う消えてゆくのであつた。
「幾らお前の血液とて、其れのみで肉体は保てぬといふことだらう。少なくとも、私は吸血鬼ではなかつたらしいな。」
 云ひながら大将は乾麺麭をかりゝと囓つた。其の音の余りにさゝやかなるを聴き、少佐は思はずにゐられない。
 此処が麹町区の邸であつたなら。
 軟らかでより滋養のある温かな食事を、腕利きの料理人に供さすことも出来たであらうに。
 好みの茶を淹れ、好みの読本を傍らに、長椅子に脚を投出して寛がせてやれたであらうに。
「あゝ・・・。」
 少佐は堪へ切れず、千家大将の頭を掻き抱いた。
「どうした。」
 此の甘い声も、いつたい後何度聴くことが叶ふのだらう。爾思ふと、少佐の胸は引き裂かれるかのやうに悲しく痛んだ。
「何を弱気になつている。私が惰眠を貪つてゐる間、何か変つたことでもあつたか。」
 抱かれながら、大将は子でもあやすやうに少佐の背を柔らかく叩いた。
 少佐は唇を噛み、声を押し殺し、努めて冷たく應じる。
「戦況に附いては憂ふに及ばず。只・・・、只、貴方が何時迄経つても起きないから、私は退屈で仕方がなかつた。」
「ふうん。其れで。」
「・・・其れだけです。」
 覗き込む血色の瞳を避け、少佐は俯く。
 千家大将は柊少佐の細くしなやかな前髪を指の先でそつと持ち上げ、囁いた。
「・・・京一郎。何故、泣いてゐる。」
 涙を溜めた大きな瞳を瞬きさせた少佐は、唇を震はせつゝ生意気な口答へをする。
「起き掛けに頭でも打ちましたか。私は泣いてなどをりません。」
 其の頬の上を、大粒の雫がほろほろと転がる。
「やれやれ、今度は八つ當りか。プリマ殿は構つてやらなかつた事に余程御冠らしい。」
 大将は優し気に眼を細め、少佐の肩に手を置いて、獣の毛繕ひするが如く、濡れた頬を舐めた。
「お前が胸を痛めると、私の息も苦しくなるから迷惑千万だ。笑へ。」
「可笑しな事など何も無いと云ふのに、笑へるものですか。」
 少佐は大将の胸を拳で叩いた。
 其れすら、海上にあつても毎日の鍛錬を欠かさぬ渾身の力で以てすれば、線の細い胸は砂糖菓子のやうに壊れてしまいさうな気がして、少佐は子供が駄々を捏ねるやうに首を振つた。
 悲しみに歪む眉を、大将は親指の腹で撫でる。
「此処に皺の寄る男は見て呉れが恐いと、女から嫌はれるさうだ。」
「女など知るものか。」
「私も好まぬ。」
「知るものか、貴方など。」
 少佐は復た零れた涙を手の甲で拭ひ、着てゐた上着を脱ぐと、大将の肩に掛けた。
「・・・貴方、なんか・・・」
 白い頬を両手で包んで、何時ものやうに微笑を作る唇に、己の唇を押し当てる。
 此処で云ふべき言葉ではない。まだ。
 全て終わつたときに初めて、伝へることを許される。・・・そう、思つてゐる。
 少佐は想ひを飲み込み、代はりに大将の掌を握つた。
「笑へ、快活に。」
 口を触れ合はせたまま、大将は命じた。
「爾したら、与へてやらう。」
「其ンな、無茶な・・・」
「お前の得意の想像だ。何時だか、横濱の別邸で云つてゐたのを忘れたか。」
 大将は少佐の腰を強く引き寄せ、其の膝の上に座らせた。
 柊少佐は復た眼を瞬かせて、千家大将の頬を撫でた。止まず零れる涙の粒を、大将は花の蜜を吸うが如く、唇を窄めて呑み込んでゆく。
 少佐は震へる声で、小さく呟いた。
「・・・貴方は、ピアノを弾いて・・・、」
「さう・・・お前は船を眺めて。」
 大将の唇に接吻を落しながら、少佐は長い髪を何度も指で梳いた。
「伊織、・・・・・・伊織・・・」
「少しの辛抱だ、京一郎。先づお前のさゝやかなる希望が叶ふ迄、後少し・・・」
 甘い声は眠りへ誘ふかの柔らかさで少佐の心身を開かせてゆく。
 千家大将の唇に官能を与へられ、小さく声を上げながら、少佐は其れでも考える。
(私の希みは、・・・私の倖せは、貴方無くして叶ふ事など無い――。)
 さう伝へたくて開いた唇に、ようやつと温まつて来た大将の舌が差し込まれた。

  ううむ戦争モノつぽい感じになつて来たゾ。
  ”左様”で”そう”と読ませたいのだけれど、ルビがないので已む無くひらがな表記にしますた。

NEXT NOVEL PREVIOUS