手翰 三


 髪を優しく撫でてゐた手が離れた為、柊少佐は眼を開いた。
 夜が明けるには未だ早い。
 息を潜めて様子を伺つてゐると、千家大将はするりと寝台を降りた。
 とつ、とつ、と記録机に近づき、置いたまゝにしてゐた手翰を取ると、封を切ることもせず、鍵付きの箱へ仕舞ふ。
「・・・読まないのですか。」
 中を確かめないとゐふことは、業務に係る文書ではない。となると、親書。而も、必ず當人へ渡せと念を押す程個人的の。
「気になるか。」
 振り返つて大将は人の悪い笑みを浮かべた。
 爾云はれると、素直になれぬ少佐である。
「私にも見せられぬものが貴方にあるとは、思ひもしなかつたものですから。」
「見ても構わないが、破り棄てられても困るからな。」
「・・・其れはつまり、どうゐふ事です。」
 思はせ振りな言葉に僅かながら苛立ちを覚え、少佐は眉を顰めた。
 柊少佐は千家大将の、そして千家大将は柊少佐の、唯一である。
 今更其れを不安がるやうな間柄でもない。
 併し、呪を喰ひ続ける事も遂に限界の迫りつつある躰を目の前にして、いまは互ひのみを見詰めてゐたいと、少佐は思ふのである。爾して又此れに就き、何人にも水を差す事を赦す余裕は無いのであつた。
 手翰の差出人は嘗ての許嫁の婦人だらうか。
 或は幼い頃親しく交わつた相手だらうか。
 少佐が破り棄てる事を恐れ、且つ其れを知りながら自ら棄てる事もせず鍵付きの箱へ仕舞ふとなると、其れだけ大将に取り重き意味を為す文であるに違ひない。
「読みたいのであれば開けて構わん。但し私も内容が気にならぬ訳ではないから、お前が読んで聞かせろ。其れが条件だ。」
「私は他人の親書になど関心ありません。」
「お前は何時になつても素直でないな。気になるのなら大人しく読めば良いものを。良いと云つてゐるのだから。」
「気になつてなどをりません。強いて云へば、私が何度声を掛けても起きなかつた貴方が、文如きで目醒めさせられたとゐふのが、やや癪であるくらいです。」
「ふうん。手翰を妬むか。偶には可愛らしいことを云ふ。」
「伊織。」
 少佐は嫣然と微笑む大将に向かつて両手を広げた。
「私の前に居る時、余所見は許さない。」
「・・・悪かつた。」
 愛おしげに眼を細めた大将は寝台に腰掛け、少佐の躰を抱き寄せる。
 少佐は大将の髪を引いて下向かせると、噛み付くやうに唇を重ねた。
「・・・京一郎、そろそろにしないか。明日に障る。」
 大将は躰を横たへ、寝具の中へ滑り込む。静かな眼で宥めるやうに少佐の肩を叩いた。併し少佐は不快さうに眼を細め、体術の稽古でもするが如く大将の上に馬乗りになり、乱暴に其の首筋へ唇を這はせた。
「京一郎。」
「何時であらうと懇願も聴かず、私の正体が無くなるまで止めない貴方の言葉とは思へませんね。」
 挑発の言葉に大将は苦い顔で笑ふ。
「なア、京一郎。」
「どうしました?ほら、何時ものやうに手酷くすれば良い。」
「・・・お前、寝てゐないのだらう。」
 千家大将は柊少佐の頬を両手で持ち上げる。
「こんなに隈を作つて、如何する気だ。」
 気まづさうに少佐は目を逸らす。実の処、大将が何時目を醒ますとも知れぬと思ふとまんじりともできず、此処数日は少しの異変も見逃すまいと気を張り詰めてゐた。暗闇の中どのやうにして気付いたのかは分からぬが、大将の指摘は的を得てゐる。
 窪んだ眼の下を撫でる親指を、少佐は強く振り払つた。
「余計なお世話です。」
「休め、柊少佐。此れは上官命令である。」
「聞けません。」
「寝ろ、と云つてゐる。」
「厭だ。」
「聞き分けの無い奴だな。また明日があるだらう。」
 大将は、少佐の顔に垂れる髪を掻き上げる。上げろと云はれても聞かず垂らしたまゝの前髪に隠されてゐた瞳は、何時の間にか復た悲しみを得てゆらゆらと揺れてゐる。
「・・・厭なンだ、伊織」
「何が厭だ。」
「次目覚めた時、貴方が居なくなつてゐるかも知れない。爾思ふと・・・私は眼を閉じるのが怖い。」
 少佐は大将の頬を、まるで薄い硝子細工に触れるやうに撫でる。其の実体を確かめるかの如く、何度も飽かず繰り返す。
「私は居るさ。」
「戦場に居て明日の確約などできるものですか。」
「お前が私から離れなければ良いだけの話だらう。」
「もし叶はなかつたなら?」
「京一郎・・・」
「私が目を離した隙に貴方が力尽きたら?私が流れ弾に當たつて死んだら?未だ・・・私達は未だ帰れないンです。どころか、」
 千家大将は柊少佐の唇を白い指先で制した。
「弱音は聞かぬ。其ンなに云ふのなら、望み通り抱き潰してやる」
 組み伏し、其の躰を高々と持ち上げ、貫く。
 唇を割り舌を嬲る指を、少佐は涙に濡れた恍惚の表情で舐める。
「お前はかうまで淫乱だつたか。」
 訝しげに見降ろす大将を、少佐は喘ぐ吐息の合間から不敵に見上げた。
「貴方を得る為なら、何だつてしませう。」
「・・・・・・。」
「私の血は貴方の精。貴方の血は私の精。・・・私が貴方に与へた分は、返して頂かないと。」
「・・・・・・馬鹿」
 ぽつりと呟いて、大将は笑つた。

* * * * *

 柊少佐が目を醒ました時、千家大将は何時明けると知れぬ眠りに再び墜ちてゐた。
 何度呼んでも揺すつても、人形のやうに倒れたまゝ。返つてくる規則正しい息のみが、辛うじて未だ命の在る事を示してゐる。
 小さく溜息を吐いた少佐は、脱ぎ捨てた服を拾ひ、緩慢な動作で身に付けた。
 さうしてゐる間に、大将が目を醒ますかも知れぬと、しても詮無い期待を棄てられずにゐる。
「私は、馬鹿だ・・・」
 己を嘲笑ひ、甲板へ続く扉に手を掛けた時、きらりと輝く箱が目に入つた。
 昨晩大将が手翰を仕舞つた、鍵付きの箱である。
 良く良く見ると箱には細かな宝石が装飾され、少佐の思つてゐた以上に、大切にしてゐる物のやうであつた。
 大将を見遣ると、変らず安らかに眠つてゐる。
 むくりと湧いた好奇心と僅かばかりの悋気が、少佐を動かした。
 箱の鍵を探すと、無用心にも其れの置かれてゐる机の引き出しの中に在つた。
 そつと、音の出ぬやう気を払ひつつ、鈍い金色の鍵を穴へ入れ、回す。
 かちやりとゐふ音に慌てて振り返るも、大将の起き出す気配は無い。
「・・・貴方が、開けて良いと云つたのですからね。」
 云ひ訳がましく呟き、少佐は箱の蓋を開いた。
 中には、封書や葉書が幾つも重ねて入つてゐるやうだ。
 ひとつを手に取り、少佐はおやと首を傾げる。
「何故、私宛の手翰が・・・?」
 裏を返し、其の顔は青褪めた。
 直様次の手翰を確かめる。
 爾して次、其の次、復た次・・・。
「・・・どうして、・・・」
 箱の中に在る手翰の宛先は、総て、見覚えのある懐かしい筆跡で、「柊京一郎様」と記されてゐた。其の裏には、少佐の実家の両親と実妹の名が連ねられる。
 どれも封を切らず、其の内の幾つかは、皺だらけであつた。
 少佐には憶えがあつた。
 未だ麹町区の千家の邸に居た頃、実家より届いた手翰を読まずに握り潰し、屑籠へ棄てた。当然、裏の焼却炉で処分されたと思つてゐた。
 丁寧に開き伸ばして仕舞われてゐる此れは、恐らく彼の時の封書に間違ひあるまい。
 誰の仕業かなど、云ふ迄も無い。
 其の場を彼が見てゐたのか、或は屑籠に紛れた手翰を拾つた使用人が届けたのかは知れぬ。
「私には要らぬ物だと・・・何となれば貴方だつて爾思つてゐると、・・・」
 箱の中に大将へ宛てた手翰は見当たらず、柊少佐宛の物の他何も無いやうだつた・・・が、底に一枚、紙切れが落ちてゐる。箱の底面とほぼ同じ大きさの為、化粧紙かと思ふ処であつたが、どうやら異なるやうだ。
 少佐は爪の先で慎重に拾ひ上げる。
 表には何も無い。
 裏を返すと何か書かれてゐるが、薄暗くて良く見えない。
 もうすつかり陽の昇つた頃合いだ。
 明り取りへ近寄り少佐は紙片を光に透かす。
 薄いインキが浮き上がる。
 少佐の良く知るやや女性的で柔らかな筆跡。
 一言だけ記された其れは、誰が誰に宛てたかなど訝る迄もなく。


――お前の生を。


 少佐は激怒したやうに顔を顰め、其れから泣き笑ひのやうな顔になり、其れから深く、長く、息を吐いた。
「・・・・・・・・・馬鹿伊織。」
 千家大将の眠る寝台に腰掛け、鼻を思ひ切り摘む。力一杯やると、初めは反応のなかつた大将も整つた眉を潜め、苦しさうに口を開け閉めした。
「下らぬ事をした、罰ですよ。」
 十分苦しめてから指を離すと、喘ぐやうに息を吸ひ込み、形の良い鼻は子供の如く赤く腫れた。
 少佐は草臥れた顔で復た小さく溜息を吐く。
 上擦る声を抑へ、震える唇を強気に引き結んだ。
「・・・貴方のかうゐふ処、大嫌ひです。」
 破り棄てやうと紙を強く掴み、少佐は力を込めた。
・・・併し、結局何もせず、其の手を降ろした。
 のろのろと書物机へ寄り、インキ瓶にペンを浸す。
 紙片を暫し見つめ、目を閉じたまゝの大将を眺め、少佐は文字の下側に、書き足した。


――愛し君と共に。


 手翰を開かず総て箱に戻し、其の上に紙片を載せ、柊少佐は蓋を閉め鍵を掛けた。
「次に何か文の届いた時には、必ず目醒めて、復た此の箱を開けて下さいね。」
 もう一度寝台へ寄り、耳元に囁き髪を撫でる。昨夜より以前と比して多少血の色が増した頬に、少佐は柔らかく口付けた。

 甲板へ出ると、真南の太陽が鉄の床をぎらぎらと照らしてゐた。
 少佐は手袋を脱ぎ、刺すやうな光へ掌を翳す。
 指の間から溢れる陽は血管を透かし、赤く輝いた。其れはまるで、少佐の身躰を循環する血液に力を与へるかのやうに心強く思はれた。

 ゆらゆらと、陽光は溢れて躰を巡る。
 波の音が快晴の空に響く。
 少佐の姿を認めた下士官が、小走りに遣つてくる。
「・・・爾して光は、愛し君へ戻る。」
 天を仰いだ少佐は祈るやうに呟き、微笑した。

<了>   
  着想は『のらくろ少尉』にヒントをいただいて。読みづらかったでしょう。ご読了ありがとうございました!

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