そして貴方は、また。 1
五行莫无が行われたと、分かった。
そんな言葉、聞いたこともないのだが、左手の伊織が五本刀の術だと知っていたから、私もすぐに気付いた。
大陸に派遣している死霊兵が使役できなくなれば、戦局に多大な影響を及ぼす。統制を失った死霊が、術者を襲って暴走する可能性も多分にある。
とにかく、いったいこの状況がどの程度の速度で進んでいるのか、実際の影響は現時点でどのくらいあるのか、知らねばならない。私は部下に大至急調査するよう指示した。
しかし、情報を得たら直ぐ戻るよう言いつけた部下どもは、いつまで経っても報告に来ない。新たに同じ命を与えた者どもも、同様に帰らない。
裏切るような者達ではないと思っていたが、甘かったかと、いよいよ自ら担当局へ出向こうと立ち上がったとき。
突然謹慎を言い渡された。しかも、御上の勅命。
これは謀られたと気付いても時すでに遅く。急ぎ秘密裏に昴太后陛下へ文を送ったが、辛うじて捕縛を免れた密使は信じられない報告と共に、私の書いた文を持ち戻った。
――昴太后陛下が暗殺され、同時に、術式作戦の廃止が決まったという。
どうする。
いつものように伊織の血に耳を傾けた私はそして、静かに、私の中の伊織が消えていくのを感じた・・・・・・
すべては突然、まるで自然発生的に起こったように思えた。
五本刀は全滅したはずだったし、それまでも不穏な動きにはよくよく注意していたわけで、混乱した私には、なぜこれを防げなかったのか悔いるよりもひたすら、現状が理解できなかった。
私の中に微かに残る伊織は、この如何ともし難いしくじりへの反省を促すことも、今後の対応についてしるべを仄めかすこともなく、ただ、手で掬った砂が指の間からすり抜けて落ちてゆくように、さらさらと消えていった。
どんなに強く想っても、どんなに深く恨んでも、もとは神からの借り物である術の力によって私の血に絡み合い留まっていた伊織の欠片は、その消散に引き摺られるのを止めることが出来ない。
千家京一郎という人間を組み上げている決定的な要素が忽然、泡沫と消えゆく様を為んすべなく感じているしかない私にはもはや、哀しみや絶望といった感情が生まれる精力すら無かった。
間髪を容れず、私への沙汰が降るだろう。
絞首か、銃殺か。
明日の朝、未明の頃、或いは今夜、床に就く直前。
己のしてきたことは当然承知している。いまさらどのような処遇に逢おうと従容として受け入れる準備もある。そのつもりで生きて来たし、何より伊織がそういう人間だから。私もこの国を護るために私たちのすべてを捧げるだけだ。天命尽きるその日まで。
ただ。
ただ、私は。
天命がここで死ねと言うのなら、逝った先で逢えるとも知れない、出会ったときの面影すらもはや己の容貌に溶けて曖昧になったあの人を、この現世でいま一度思い起こしたくなって。
ひとり、品川沖へ向かった。
あの日。
彼の暗殺を企てた面々に追われながら私たちが手を取り駆けた道は、もう十年も経ったというのに未だ拓かれず、ひたすら崖と森とがあるだけだった。
本当に久しぶりにここを訪れて、懐かしみを覚えるまではゆかずとも、せめてあの例えようもなく美しい微笑みを思い浮かべることくらいできようかと期待していたのに、甦るのは今感じている以上にひたすらの喪失感ばかりで、私は、いまだ心はかけらばかりも癒されていないことを、いまさらながらに知る。
「は。」
乾いた声だけ、笑いのような形をつくって、ぽとりと落ちた。
あのときのように、私は崖から下を見下ろす。
あの人の面影を、必死に思い起こしながら、手を伸ばす。
長い髪が、さらさらと肩から落ちた。
髪がここまで伸びてしまうと、鏡を見ればふと映る己の姿を彼かと間違え、また彼を知る人は私をうっかり彼だと思って呼びかけることもあり、そうこうするうちに、私は己の顔と彼の面差しの記憶が混ざり合ってしまっていることに、そういえば随分と長く気付けないでいた。そんなことを、また思い出す。
ああ。
もっとはっきり。
きっと私の命は間もなく尽きるから。
だからせめてそのときに、貴方の顔を思い浮かべてゆきたいから。
私は彼を呼ぶ。
「伊織。」
・・・気付いては、いた。
私を追う何者かの気配に。
誰が、なぜ。
だが、そのようなことにはもはや欠片の興味すらない。
だから私は、振り返りもしないし、逃げもしなかった。
そして誰とも知れない腕は強く、崖の下を覗く私の背を押した。
私は、波砕ける海へ、落ちていった。あの日の伊織のように。
貴方とおなじ死に方をしたら、そちらで逢うことができるのかな。
教えてよ。
ねぇ、伊織。
* * * * *
夢の中でも、貴方は会ってくれなかった。
お前の傍に居る。そのうえ何が不満だ。
そう、言われているようにも思った。
不満に決まっている。
だって私を絡めとったのは貴方なのに。
貴方を殺せと言ったのは貴方なのに。
私が殺さないうちに行ってしまうなんて、卑怯じゃありませんか。
恨み言を思うと、貴方の血は、笑った。
貴方が笑うと、私の胸は切なく疼く。
でも、貴方は私の中からも消えてしまったね。
だから私は渇いてしまった。
早く。
貴方で満たしてほしい。
ちゃんと、私を迎えて。
もう、私から逃げるなんて、許さない・・・――――
* * * * *
――――・・・波の音が聞こえる。
此処は彼岸なのか。
それにしては川の流れの音が力強いものなのだな。
現実など、そういうものか。
現実。
その言葉に意識が浮上した。
いまは、いつだ。
ここは彼岸などではない、現世だ。なぜなら私はまだ、根の路を通っていないのだから。
私の身体は、どこかに横たえられているようだった。
「・・・ぅ」
身体を動かそうとして、声が出た。目を開けたつもりだが、暗くて何も見えない。
「あ!」
女の声がする。ずいぶん近くに誰か居たのにも気付けないほど、私は弱っているようだった。
「気付いた・・・意識が戻りましたよ!」
声色からして、私を殺そうとした輩ではないらしい。浮き立つ声で誰かを呼んでいる。
「早く、・・・早く来てキョウイチロウ。」
・・・京一郎?
しかし女の声は私に向けられたものではない。
数奇なこともあったものだ。
命拾いした先で、同じ名の人間に出会うとは。
私はゆっくりと、今度は本当に瞼を上げた。
足元から差し込んでくる光がまぶしい。
京一郎なる人物がやってきたのだろう。光が遮られて、明るさの塩梅がちょうど良くなり、私の目は周りを徐々に映し始める。
「あぁ。良かった。」
優しく、柔らかな声。
こんな声を私にかけてくる人間など、これまで長いこと、なかった。
そう、あの人が最後に私を呼んだとき以来。
現状をまだ把握できていない段階で、気を許すわけにはゆかないのだが、不思議と穏やかな気持ちになった私は、その男を見上げて、言葉を失った。
「お気分はいかがですか。」
枕元に膝をつき、私を見下ろして微笑む、京一郎と呼ばれたその男は。
・・・・・・・・・。
千家伊織、だった。