そして貴方は、また。 2


「貴顕の方とお見受けします。貴方をここに連れてきた経緯をお話しする前に、少し、なにか召しあがっていただけますか。なにせ5日も眠っていらしたから、お声を出すのも一苦労でしょう。」
 そう言って伊織は、水の入った茶碗を差し出す。
 私は受け取ろうとしたが、腕がうまく上がらず、結局伊織が口に運んでくれた。
 何と言うべきか。
 何故ここに?いや、何のつもりだ?それよりも今までいったい何をしていた?
 聞きたいこと、言いたいことは山のようにあるのに、まず初めに言うべきは何か、憔悴した私の脳は判断を下すことができない。言葉にならなくて、しかし感涙が込み上げるより驚きの方が大きくて、私は口を開けたり閉めたりした。
 それを、彼に対する不信又は怯えと受け取ったのか、伊織は、安心していい、貴方の味方です、などと嘯いた。何が何だか分からない。
「申し遅れました。私は京一郎と申します。」
 私の混乱をよそに、伊織は小さく微笑んだ。私の名を名乗って。

 改めて、彼をまじまじと見る。
 ともに生活していた時は、自宅ではガウン、それ以外は軍服姿しか見たことがなかったのに、今は襟付きのシャツの上から長着を着て袴姿。長かった髪は首元で揃えたざんばら。
 まるで、十年前、帝都へ出てきたばかりの頃の私さながらの体である。
 何のつもりなのか。
 質の悪い戯れか。
 だが私は、目の前のこの男が千家伊織であることについては、少しも疑いを抱かなかった。
 私の中の伊織はもう欠片も無くなっていたから、血が呼応したとか、そういう神秘の力により確信したのではない。
 しかし、整った顔立ち、少し異国風のすっとした鼻筋、吸い込まれるような紅い瞳、形の良い唇。これらが変わらない伊織の特徴を強く私に主張する。いくら己のそれと記憶が混ざりあっていたとして、本人を目の前にした私が見誤ることはない。
・・・それに何より、彼の左手首から先は、無かったのだ。

 では何故、彼は私の名を名乗り、あの頃の私のような格好をしているのだろう。
 十年前であれば、私はきっと彼の首に縋り付いて、おかしな冗談はやめてくれ、なぜ今まで私の前に現れなかったのかと、咽び泣いたかもしれない。
 しかし、いまの私はすっかり千家京一郎が板についてしまった。
 つまりは、千家伊織のようになってしまった。
 だから、そんなこと、できない。
 かといって目の前の伊織の行動も理解できるものでは無く、どのように相対すべきであるか、私はらしくなく逡巡した。

 水を飲むと、肋が軋んだ。 ついむせ込むと、痛みが首を伝った。どうやら何度も痛みに耐えられるほど、私の身体は回復していないようなので、粥と味噌汁はほんの僅かだけ、慎重に流し込んだ。
 多少人心地がついた私は、ふと思いついて、京一郎と名乗る伊織に尋ねた。
「姓は?」
「はい?」
 伊織は小首を傾げた。
「お前の姓は、なんと言う。」
 威丈高に尋ねる。再開して初めて交わす言葉が、それか。昔の私ならもう少し湿っぽい言葉も口を突けただろうに、己の乾燥ぶりに嫌気が差す。千家伊織の話し方だって、いまの私よりよほど優しかったように思う。
 だが、かつての柊京一郎のやり方を、私は忘れてしまった。
「あぁ。」
 そして伊織は、千家伊織のようにではなく、かつての柊京一郎のように、あどけなく応える。
「憶えて、いないんです。そもそも私の名が本当に京一郎であるかどうかすら、定かではありません。」
 私は眉を顰めた。
 何を言っているのだろう。
 あっさりそう言うところからすると、私の真似をしているわけではないのか。
「どういうことだ。」
 重ねて問うと、彼は困ったように微笑んだ。
「十年ほど前、私も貴方のように海に落ちたらしいのです。先ほどまでここに居た女性に拾われて。気がついたときには何も憶えていませんでした。ただ、うわ言のように"京一郎"と呟いていたそうです。その名のほかに私の身の上を知らしめるものはなく、それで皆、私を京一郎と呼ぶようになりました。」
 身の上が分からなかった?そんな筈はない。軍服を着たまま、階級章を襟につけたままだったのだ。救助の際に脱がせたか捨てたか、或いは誰かが隠したのか。
 伊織の様子は真摯で、嘘を言っているようには見えなかった。彼が何か企んでいるのなら、その表情でわかる。そういう風に、見せる人間だった。或いはもっと、疑われる余地など残さず完璧な微笑と穏やかさを携え、上品に、それでいて自信に満ち溢れた様子で話した。
 しかしいまの彼は、やはりかつての私のように、どこか頼りなく、それでいて純粋に、ただ己の知るところのみを述べているようでしかない。
「その腕は。」
 手首から先のない左手を指差す。
 すると彼は居心地悪そうに身じろぎして、袖の中に腕を隠した。
「・・・私が拾われた時は、すでに無かったと聞きます。刀で斬られたようだった、とも。失血がひどくて、この腕の治療には時間がかかりました。」
 何を言っている。
 それは、貴方が自ら斬ったのではないか。
 私を残して逝ってしまうために、私に貴方の左手だけを残して逝ってしまうために・・・。
 私はとても意地の悪い心持になって言った。
「・・・お前の左手は、此処にあるぞ。」
「・・・・・・え?」
 伊織は間の抜けた顔で私を見つめる。何を言っているのだろう、という表情。そんな邪気の無い顔に、胸が締め付けられるような気がして、私は同時に少し苛立つ。
「見ろ。私の左腕と手首の間には切断された痕があるだろう。これは、お前の手首を私の手首と差し替えた時にできたものだ。」
 さあ、伊織。
 どう返す。
 いい加減に、企みを明かしたらどうなんです。
 私はあまり気の長い方ではないのでね。
 いつまでも貴方のお遊びに付き合っていられるほど、この十年は楽しいものではなかったんですから。
 けれど、私の心の中など彼が知る由もなく。
「っふふ。」
 伊織は、くすくすと笑った。
「・・・なんだ。」
「貴方はその怖そうな見かけによらず、冗談がお好きなようだ。」
 何を言っている。
「そんなことを言われたのは初めてですよ。ふふ。・・・ええと、なんとお呼びしたら。」
 私は本当に混乱しながら、何と答えるべきか少し迷って、それから恐る恐る言った。
「・・・・・・伊織。」

 しかしこの名を聞いた伊織は花が綻ぶように微笑み、そして言ったのだ。
「伊織さま。素敵なお名前ですね。」

 今度こそ私は、全身から血の気が引くのを感じた。

  腕コレクター・ラングィディア・千家京一郎姫。まあまあ、そうツマンネと言わず、もう少しお付き合いくだせぇ。

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