そして貴方は、また。 番外編 ある船宿にて



 初夏にしては快活に過ぎる日差しは、水面に跳ね返る。返った光は船宿の砂壁や丸い木枠の障子に柳の影を揺らしながら、時折吹く風の気まぐれに乗り、踊るようにまた揺れる。
 左手首の上に顎を乗せ、窓の外へ半分顔を出して、京一郎は川沿いにそよぐ細長い青葉を眺めている。

「・・・暑いぞ、京一郎。」
 膝の上から漏れる声に、京一郎は歌うように答えた。
「そうですね・・・」
 うっそりとしたまま団扇で扇いでやるが、それでは満足できないらしい。不満そうに声は言い募る。
「暑いと言っている。」
 扇ぐのが希望ではなかったようだ。
 滑らかな髪を撫でてやる。
「知ってますよ。」
 京一郎の膝を枕に転がっていた伊織は不機嫌に鼻を鳴らし、どこか上の空で髪を梳く指先を払い落とした。
 漸く目線を向けてやると、仏頂面の恋人がじとりとした目で訴えている。つい、いじらしくて笑みが零れた。
「なんとかしろ。」
「雨でも降らせられたら良かったのでしょうけど。生憎私は雷様ではないので 貴方を涼ませることは出来ないんです。」
 意地悪を言ってみると、無言でごつごつと腹に頭をぶつけてくる。これには流石の京一郎も閉口した。
「わ、ちょ、も、痛いから、伊織!」
「現実的な方法でどうにかしろと言っている。」
 まるで年端のゆかない子供だ。
 いったい今年この人はいくつになるのだっけ。
 呆れながら、揺れる頭を捕まえて京一郎は伊織の顔を覗き込む。
「さっき、冷えた枇杷を食べさせてあげたでしょう?」
「たった2粒で涼を取れという方に無理がある。」
 折角目を合わせたのに、今度はぷい、と顔を背けてしまう。
「京一郎と名乗っていた時はあんなに慎ましく聞き分けの良い子だったというのに、記憶を取り戻した途端これだ。」
 芝居がかった溜息を吐く京一郎は、しかしどこか楽しそうだ。ひと回り近く年長の情人に小言を言うのは最早日課と言っても過ぎない。
「いいですか伊織。いまは物がないんです。果物を分けていただけただけ、恵まれていると思わなければ。」
「・・・ふん」
 鼻を鳴らすと、伊織は徐に起き上がり、着物を脱ぎだした。
「な、いきなりどうしたんです?」
「どうにも出来ぬと言うのなら、脱ぐしかなかろう。」
 しゅるしゅると博多織の角帯を解き、畳の上へ投げ出す。柔らかものの袷がふわりと落ちた。
「いつ客人が到着するか分からないんですよ、だらしのない格好は止してください。」
「待たせる方が悪い。」
「もう、伊織!」
 くすくすと、廊下から笑う声が聞こえてきた。
 京一郎は慌てて襦袢姿の伊織に長着を掛ける。
「桂(けい)先生、一寸、よろしいですか?」
 妙齢の女性の声。
 この船宿で要人との密会が予定されていることを唯一知る、頭の切れる仲居だ。彼女は他人に知られてはならぬ用途でこの店を使う人間達から、絶大な信頼を得ている。
 表向き、既にこの世に居ないことになっている伊織と京一郎は、戦争終結のためその交渉能力を必要とする人物の要請により、名を隠し、藍(あい)と桂という暗号名を用いて活動している。
「はい、すぐに。」
 薄着の伊織を戸口から見えない位置へ座らせ、京一郎は細く襖を開けた。
「何でしょう?」
「蔵で冷やしていたお番茶、良かったらどうぞ。」
 仲居は匂い立つような笑みを隠しもせず、茶碗の二つ載った小さな盆を差し出した。
「あぁ、わざわざすみません。」
「仲がよろしいんですね。」
「聞こえておりましたか。」
「ふふ。何だか。」
 そこでやっと、仲居は袖を持ち上げて、顔を隠すような素振りをした。
「何です?」
「男の方にこんなことを言うと怒られてしまうかしら。」
「気になりますね。私は怒りませんよ?」
 京一郎は涼し気に目を細めて見せる。この微笑に絆されぬ女はこれまで一人たりとも居ない。
 もっとも、この技を盗ませたのは他でもない、京一郎がいま奥へ隠している伊織なのだが。
「いえね、何だか夫婦の会話みたいだと、つい思ってしまいまして。御免なさい。」
「殆んどそんなものですから、お気になさらず。つくづく我儘な伴侶です。」
「あら。否定なさいませんのね。そんな仲なのは羨ましいわ。お二人とも美男子なのに。」
 仲居は袖で口元を隠しながらにこにこと戻っていった。

「冷たいお茶をいただきましたよ。」
 振り返ると、襦袢姿のままの伊織は先ほど京一郎が腰掛けていた窓際に座り、外へひらひらと手を振っていた。
「ちょっと、何やってるんですか。」
 京一郎は盆を卓袱台へ置くと慌てて窓へ寄り、障子戸を閉める。
 そんな様子をゆったりと仰ぎ見て、伊織は艶然と微笑む。
「・・・誰に手を振っていたんです?」
「さて、な。」
 細く戸を開けて覗き見ると、川向うに男がひとり立ち尽くしている。こちらへ熱いまなざしを向けていたその男は、洋装の京一郎と目が合うと、大袈裟なほどがっくりうなだれ、踵を返してとぼとぼと去っていった。
「・・・あぁ。」
 伊織の髪を一束摘み、京一郎は不機嫌に溜息を吐く。
「遠目に、貴方のことを遊び女か何かと勘違いしたようですね。」
 十年来に再会した時はざんばらだった伊織の髪も、漸く肩口まで伸びてきた。きょうびこのような頭の男は滅多と見ないが、またあの綺麗な長髪を見たいという京一郎たっての希望でそうしている。加えて、着ていた襦袢が朱色がかっていたから。
「ふぅん。」
「貴方、知っていてやったんでしょう。」
「さぁ、な。」
 伊織は悪戯っぽく目を細める。
 白い額に掌を滑らせながら伊織の前髪を掻き上げ、京一郎は声を低くした。
「悪い子には、お仕置きをしないといけないかな。」
「似合わん台詞を使うのは止せ。」
「むやみに衆目を集めるべきでないことくらい、分かっているでしょう。」
 唇が触れんばかりの距離で、囁く。
 その頬に、伊織の右手が触れる。
「お前だって外を眺めていたではないか。」
「私は通行人を誑かしたりなんか、してません。」
「ひとりだけだ、からかったのは――」
 言い訳を聞かず、京一郎は唇を重ねた。
「駄目だよ、伊織。」
 重ねたまま、柔らかな襦袢に包まれた体を押し倒す。
「・・・貴方を抱くのは、私なんだから。」
「私に抱かれるのが、お前、・・・だろう?」
 畳の上に転がりつつ、互いに襟を開く。
 肌蹴た襯衣の合間から伊織の白い指先が鎖骨をなぞると、京一郎の唇から熱い吐息が漏れた。

「先生方。お客様がそろそろお付きになるようですよ。」
 階下から仲居の声がする。
 熱く絡み合ったまなざしが、苦笑に変わる。
「・・・おあずけに、なってしまいましたね。」
「待たせてやっても構わんのだがな。」
「そういうわけにはいきません。」
「つれない奴だ。」
 くすくす笑い合いながら体を起こし、乱れた着物を直す。
 これからの折衝に火照った身体のままで挑むわけにはゆかない。
「お茶をいただいていて良かったですね。身体を冷ますのにちょうどいい。」
「客が帰ったら、もう一度持ってくるようあの女に言っておけ。」
「分かりました。」
 伊織の角帯を結び直した京一郎は、ぽんと貝の口を叩いた。

「よろしいですか、藍。」
「通せ。」
 色白な鼻頭に唇を落とすと、桂は狭い階段を降りてゆく。
 纏っていた熱が消える。
 藍の紅い両眼は青い炎の燃えるように煌めき、形の良い唇にはいつしか不敵な笑みが浮かんでいた。

<了>   
  寒さに耐え切れず、初夏に焦がれて。
  船宿→屋形舟の方じゃなくて、剣客商売で秋山先生なんかがお酒飲んだり、誰かの密会を覗いたりしてる川沿いの木造宿的なアレです。
  

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