アイノコトバ


「見えますか、伊織。燃えるような夕陽が。」
 黒い革手袋の指す先、巨大な太陽が地平に向かって降りてゆく。
「もう斃すべき夷狄はいない。ここには、私と貴方の二人だけだ。」
 京一郎は私の頬に唇を触れさせながら囁く。
「満足そうですね、伊織。」
 甘い声が笑み、私たちの周りの大地は夷狄の屍が埋め尽くして虫の這う隙間もない、と、歌うように続ける。私の髪を優しく梳きながら。
「貴方も、もう間も無く、ですね。」
 その声に、悲哀の情は感じられない。
 そのように躾けたのだから、当然だけれど。
「最期に、私の血をもう一度、あげましょう。」
 此の期に及んでそんなことをしても何の意味も為さない。私の身体はもう、呪詛に蝕まれて、声を出すことすらままならないほどなのだから。
 これまでいくらお前の血が私を癒し、延命を施してきたからといって、もはや半刻も延ばすこと叶わぬ。
・・・わかっているだろうに。
 そんなに私を失うのが惜しいか。
 そう言ってからかってやりたいが、生憎私の口は思うように言葉を紡ぐことができない。
「・・・ふふ、貴方の言いたいことなんて、お見通しですよ。"そんなに私が居なくなるのが寂しいか?"でしょう。」
 これだから分身はつまらない。もう少し、そんなことない、など言って私を楽しませてもいいではないか。今際の際なのだから。
「でもね。」
 京一郎は微笑みながら、あの守り刀を抜く。いったいどれほどの血を吸い込んだか知れないその刀は、しかし今日も、初めて目にした時と変わらず瑞々しく輝いた。
「私は貴方を失って泣いたりなんか、しませんよ。」
 口元に運び易いよう、手首のあたりを切るかに見えた刃は、角度をぐるりと変えると、その主の腹に向けられる。
 待て京一郎、いったい何をする気だ。
 私の心中を敏く読んだ半身は、笑みを濃くする。私がもはや彼の為すことを止められないのを知っていて、勝ち誇ったように。
 馬鹿なことはやめろ京一郎。お前は私を殺すのだろう。対象を間違うな。お前まで狂ったか。
「いいえ伊織。私は狂ってなど、いません。」
 間髪入れず、肉を断つ音。死体ではなく、生身の肉を、骨もろとも引きちぎる音が。
「ぐ・・・・・」
 突き立てられた守り刀を、血がびょうびょうと伝う。
 京一郎は一瞬眉を顰めたが、直ぐにその口からは、押し殺した笑いが漏れた。
「・・・っは。なんて顔、してるんです?」
 表情筋を動かすことすらままならない私の顔はもうずっと、薄ら微笑を湛えたまま固まっているはず。なのに、見透かしたように囁く。
「ねぇ、貴方は今・・・っこう、思って、いる。・・・お前まで狂って、しまったのか、私と血を、分け、合った・・・ばかりに。・・・なぜ。私を、殺すのはお前であっ・・・て、お前が先に死んで、しまったら、私を・・・だれが殺すのだ、とね。っ違いますか。」
 そうだ、その通りだ。だから京一郎、早く私を殺せ。
「貴方、自分が死ぬ・・・ときは、私が・・・傍に居ると思ってるでしょう。・・・っだ、から、決して何も、恐れない。」
 何が言いたい、京一郎。
「・・・私、が、貴方を、・・・失って泣くの、見たかった、ですか。」
 あぁ、血が止まらない。京一郎、いったい何を。
「様を見なさい。」
・・・・・・・。
「これだけ、では、済まないよ、伊織。」
 どんどん血の気が失せて、顔が白く透き通っていく。止めどなく零れる血を戻したいけれど、私にはもう力が残っていない。京一郎の血の癒しを以ってしても。
「貴方に、は、仕返しを、し・・・てやるんだ、私。」
 京一郎、・・・お願いだ、もうやめてくれ。早く私に、死を。
「残念。やめません、よ・・・っ・・・」
 咳き込んだ口からまた血が溢れる。京一郎は私の唇に、血塗れの舌を差し込んだ。唾液に混じって、私の中に、輝く陽の血が流れ込む。
 つい先ほどまで桃色に艶やかだった唇は、落陽のように赤い血に濡れて乾いていく。柔らかくて、温かくて、甘い、私だけの唇が、弱弱しく動いた。
「貴方、は、っ私・・・が欲しいものを、くれ、なかった」
 お前が欲しいもの?
「・・・っふふ・・・でも貴・・・方、だって、欲しが、っていたの、知ってる。」
 私が、欲しいもの?
 京一郎は虚ろな目で、私を見つめる。
「だから・・・っいま、貴方にあげる。」
 私の顔を両手で包み込んで、いたいけな童顔は、蕩けるように微笑んだ。

「・・・愛している、伊織。」

 京一郎。

「私は、貴方を、愛しています。心の底から 。」

 どこまでも甘い声は私を包み込みながら。
 愛の言葉は私を切り裂く。

 京一郎・・・。

「大好きだよ、伊織。」
 
 私の髪を撫でて、もう一度花のように笑った京一郎の頬を、涙が伝う。
 求めることのできなかった言葉。
 与えることを躊躇って、結局口にしなかった、短い言葉。
 その響きは私の心を甘美に愛撫しながら、心臓を握り潰す。

 京一郎・・・、
・・・京一郎、京一郎、京一郎・・・!!!

「かわい、そうな・・・伊織。私に、・・・っは、言えない、でしょう?」

 京一郎の手のひらで無残に引き千切れた心臓は、それでも京一郎の血により動きを止めない。

 京一郎、私もお前を、・・・私はお前のことが――

「あぁ、・・・倖せだな私。・・・ねぇ、伊織。」

 京一郎、待ってくれ、お願いだ。
 私の声を聞いてくれ。
 京一郎!

「貴方に、愛して・・・る、・・・て、い・・・え・・・・・・・・」

 動けない私の上に、血に塗れた京一郎の身体が倒れてくる。
 抱き留めることもできず、私は京一郎の亡骸の下敷きになる。
 陽の血の力でまだ死ぬことのできない私は、愛おしい半身の冷たくなってゆく様を、身じろぎせず、ただ感じているしかない。
 緩んだ筋肉は未だ私の顔に微笑みを貼り付け、涙を流すことすら許さない。

 身体中にまとわりついた京一郎の血は、私を苛む肉体的苦痛のすべてを取り除いてゆく。
 けれど、苦しい。・・・苦しくてたまらない。
 呪詛体の儀式を受けた時より、家族を亡くした時より、苦しいことなど、もう何もないはずだったのに。
・・・狂ってしまいたい。
 夷狄の魂よ、私をもっと呪うがいい。
 呪詛よ、疾く我が身を食い潰せ。
 京一郎のいないこの世界など、一秒たりとも生き長らえる意味がない。
 京一郎に愛を伝えることのできないこの世界など、私には何の意味もなさない。
 早く、早く私を殺してくれ。
 早く・・・
 京一郎・・・・・・・・―――――


* * * * *


「――い」
「――んせい!」
「伊織先生!!!」
 呼び声に目を開く。
「あぁ、やっと起きた。大丈夫ですか?なんだかうなされていたけれど、厭な夢でも見てたんですか。」
 飛び込んできたのは、丁子色の着流し姿の、懐かしい顔。
「・・・京一郎?」
「呼んでも揺すっても起きないから、ちょっと心配しちゃ・・・えっ」
 あどけない大きな目が見開かれる。
「・・・えっ、伊織先生、どう、・・・したんです?・・・え・・・っ」
 困り顔で、恐る恐る手を伸べてくる。
 私の頬に触れたら、白い指が濡れた。
「なんで、泣いてるんですか・・・」
「京一郎。」
 もう一度、確認するように呼ぶ。
「はい?」
 不安そうに私を覗き込むその顎を上向かせて、唇を重ねた。
「っ、・・・ふ、ん」
 たどたどしく返してくる舌は、血の味がしない。温かで、甘いだけ。
 頬と頬が重なったから、京一郎の顔も私の涙に光っていた。
「・・・ふ。」
「?」
「なぁ、京一郎。」
「なんです?」
 あぁ。
 やっと、言える。
 私は京一郎を抱き寄せ、その愛らしい瞳を見つめた。
「・・・お前を、愛している。」
 言えなかった言葉。
 いつ、言えなかったのかなど知らない。
 生々しく脳裏に焼き付いた夢の情景はあまりに残酷で、あんなことは物語にも聞きたくない。あれがまさか、前世の記憶だろうかなどと、考えようとも思わない。
「なんです、急に。」
 昨日、別れ際にそういえば言ったかもしれない。
 けれど、何度だっていい。私はお前に言おう。
 頬を染めて伏せる目尻に、くちづけを落とす。
「愛している、京一郎。」
 声に出すと、その言葉は私の身体を縛るようにして、深く、深く満たす。
 口にして伝えられる幸福に酔いしれながら、急に落ち着きを失くして忙しなく震える睫毛を見つめる。
「・・・――」
「――私も!」
 口を開きかけた私を遮るように、京一郎は私を見つめ返した。が、すぐに面映そうにはにかむ。
「・・・愛してる、伊織先生。」
 小さな声で囁き、顔を見られるのが照れ臭いのだろう、私の唇を奪う。掌と掌を重ねて、指を絡める。

 私は、私の恋人を腕に抱き、何度も、何度も囁いた。
 後悔に切り裂かれることなどないよう。
 その言葉が、愛する者に倖せを与えるためだけに響くよう。

 お前が好きだ、京一郎。

  口にするそばから腐ってゆくのなら、腐る前にまた言い継げばいい。
  伊織さんも京一郎もお互い、馬鹿みたいに素直に好きって言ってればいい。

NOVEL