One more time, One more chance 10(拍手お礼より)



 今日は何の予定もない日だ。
 千家は命令でも約束でもないと言っているのだから、そもそもなんでもない日だ。
 私は彼に会いたくはない。
 否。
 すごく会いたい。
 でも、やっぱり厭だ。
 私の名すら呼ばないのに、あんなに愛おしそうに私を抱きしめたりする、あの人が分からない。
 R奈風に言えば、ムカつく。
 だから私は別に、彼に会いたくて来たわけではない。
 居なければいいと思いながら、ハーブティーを飲みに来ただけだったのに。

 いつもの壁際の2人掛けに、千家は居なかった。
 少し安心して、ほんの少しだけ落胆して、私は何気なく窓際の席に目をやり、――
――・・・心臓を掴まれたような気がした。
 日当たりの良い窓際の4人掛けに、千家が居る。
 その向かい、奥側の席には、亜麻色の髪の少年がひとり座っている。
 テーブルにはケーキと焼菓子が乗っていて、少年はケーキを食べながら、焼菓子の皿を千家の方に押しやった。
 千家はいつも茶請けを頼まない。ケーキなんてもってのほか、以前私が頼んだクッキーですら、いらないと言って食べなかったのに。
 あろうことか、千家は少年の勧めるフィナンシェをひとつ、口に入れた。
 嬉しそうに少年が笑う。
 なんで。
 私が勧めた時は断ったのに。
 クッキーが嫌いでフィナンシェは好きだというだけ?
 本当に?
 彼が勧めたから食べたのではないのか。
 言葉を失って佇む私に、少年が気付いた。
 こちらをちらと見ながら千家に何やら言っている。千家の顔がこちらへ向こうとする。
 私は思わず背を向けて、出口を目指す。
「おい」
 後ろから腕を掴まれた。
 つい振り払う。
「なんです」
 見上げた私をまじまじと見つめ、千家は片眉を上げた。
「今日はまた随分不機嫌だな。」
「気のせいです」
「少し付き合え。いま来たところなのだろう。」
 そんなふうに言われるのも初めてだ。よく分からない苛立ちが腹の中に広がる。
「いえ、用を思い出したので帰ります。」
「紹介したい人間がいる。」
 何故。
 あんな人懐こい少年が千家と一緒にいるなんて、考えたこともなかった。どちらかと言えば取っ付きにくいタイプの人間だと思っていたから。
 私は千家のことを何も知らないくせに知った気になって、私の知らない彼を知りたいと思っていたにもかかわらず、それを知る他の人間がいることに、簡単に言えば妬心を覚えていた。
「・・・あの子、誰です。」
「それを今から説明しようと言っている。まずは席に着け。」
 不本意だ。
 私は小さく呟いた。
「恨言なら後でいくらでも聞いてやるから、ほら。」
 そう言って優雅に差し出された手を、うっかり取ってしまった。
 千家に導かれ、窓側にかけた彼の横に座る。
 私が来ると、向かいにいる少年は身を小さくして窓の方に寄った。背は低くはないようだが、中学生くらい、だろうか。片目に眼帯をしている。
「彼は伊勢くん。私の姉の生徒だ。」
「生徒・・・あぁ、お華の教室の。」
 千家は頷き、続いて私を紹介する。
「薫、彼は私の友人の柊くんだ。」
 薫?
 それは伊勢という少年の下の名なのだろうか。
 呼び捨てにした。
・・・私の名は呼ばないくせに。
 伊勢薫は窓にぴったり身体を付けて、上目遣いに私を見る。
「彼を知っているか、薫。」
 千家が優しい声で訊くと、薫は首を横に振った。
 当然だろう。私だって彼のことなど知らない。
 というか、なんだその猫撫で声。
 千家はウェイターを呼び、勝手にハーブティーを頼んだ。私の分のつもりだろう。勿論私はハーブティーを飲みに来たわけだが、注文の前にそれでいいか私に確認くらいしても良いのではないだろうか。今日の私は小さなことに都度苛ついている。
「ねえ。」
 急に薫が口を開いた。
 幼さを感じさせる声に、私の警戒心は少し和らいだ。どうやら彼は私よりずっと年下のようだし、まぁ子供には優しくすべきだろう、いくら千家とはいえ。
「柊くんって、伊織先生のネンユー?」
 ネンユー?
 聞いたことのない単語に思わず千家を見ると、彼も一瞬目を見開き、そして人の悪い顔でにやりとした。
「どこで覚えた、そんな言葉。」
 千家は彼の言わんとするところが分かるらしい。薫はというと、先程までの子犬のような様子と打って変わり、こちらを値踏みするような目でじろじろと見ている。
「うふふ。」
「最近の高校生は随分古びた言葉を使うのだな。」
 仕草や喋り方からはもっと幼い印象を受けたが、彼は高校生だったようだ。しかし、ネンユーとは何のことだろう。古い言い回しのようだが・・・。
「で、当たった?ねえねえ、伊織先生ってば!」
 テーブルに覆いかぶさるようにして、薫は千家を上目遣いで見上げた。鼻にかかるような声で、完全に甘えている。
 私の中に、また苛立ちが沸々と湧いて来る。
 千家に甘える薫が腹立たしい。それから二人だけが分かる単語をネタに会話しているのも不愉快だ。高校生も知っている言葉を帝大生の私が知らないというのは正直情けないが、悔しいので訊く気にはならない。
「なぜ、そう思う。」
「えー、だってぇ。伊織先生、柊くんが来てからなんだか機嫌良いしぃ。さっきだって手ぇつないで来たしぃ。」
「えっ」
 先ほど確かについ千家の手を取って着席してしまったが、なんというか彼一流のエスコートだと思っていた。が、やはり側から見たら手を繋いでいるとしか見えないのだろうか。いや、そう見る方が自然ではないか、恥ずかしい。
「伊織先生は、こういうおぼこいタイプが好みなのぉ?」
 おぼこい・・・とは、子供っぽいとかそういう意味だっただろうか。
「お前の方が余程乳臭いくせに、よく言うな。」
 何やら千家は楽しそうにくすりと笑った。
 私はやはり置いてけぼりにされたようで面白くない。
 薫はテーブルの上に伸びたまま、今度は私を見上げながら、口の横についたクリームをぺろりと舐めた。その猫のような、それでいて獲物を狙う狂暴さを孕むような片目に本能的な危険を感じて、思わず私は千家の着物の袖をそっと掴んだ。
「へぇ。柊くんもまんざらじゃないみたい。なんだよ、つまんないなぁ。」
 何を言っているのだ、この人間は。突然、会ったばかりの相手に対して。全然ペースについて行けない。
「そろそろ教室の時間ではないのか、薫。」
 千家が懐中時計を開けて、やんわりと彼に退席を促した。
「このフィナンシェ全部食べたら、お邪魔者は退散しますよーだ。ちぇぇっ。あーあ、やりてえなー。」
 顎をテーブルに乗せたまま焼き菓子に手を伸ばし、また薫は私を見た。
「ずるいなぁ伊織先生、可愛い子をキープしてるんだ。もう僕なんでもいいから欲しいー。あ、兄様をネンテーにしちゃおうかな。」
「こら薫!」
 背後から叱責の声がして振り向くと、やはり亜麻色の髪の、薫とそっくりな少年が立っていた。
「聞こえたぞ。なんてことを言っているんだお前。」
「あは!見つかっちゃった。」
 薫は楽しそうに舌を出してみせる。
「千家先生、いつもすみません。」
 少年が頭を下げると、千家は小さく頷いた。
「ほら、もう時間なんだ、早く行くぞ。」
「伊織先生ご馳走さま。また奢ってね。柊くんもまたねぇ。」
 少年に連れられて、薫は手を振りながら去って行った。
 私は呆気にとられてそれを見ているしかなかった。

「騒がしいのがやっと行ったな。」
「貴方の連れでしょう。」
 くすくすと笑いながら、千家は残った焼菓子を勧めてきた。私はいらないと言った。
「何をむくれている。」
 分かっているくせに。
 黙っていると、千家は私の髪をそっと撫でた。
「私が他の男といたのが、そんなに不満か。」
 それだけではない。私のことは呼ばないのに、彼の名は親しげに呼んだ。それから・・・
「ネンユー?とかネンテー、とか言ってましたけど、いったい何のことです?」
 お茶をすすりながら訊くと、千家はまた思い出したようにくすりと笑った。
「知りたいか。」
「・・・別に。」
 千家は私のことをじっと見つめている。薫が帰ってからも特に席の移動をしていないから、千家は私の隣にいる。真横から視線を注がれるのは落ち着かないけれど、見返してやるのも癪で、私はぎこちなくカップを口に運んだ。
「あれは、要するに男色の相手という意味だ。」
「ダン・・・ショク・・・・・・」
 流石の私もそのくらい、意味は知っている。
 つまり薫は私と千家がそういう関係なのではないかと言ったのだ。そして、千家はそれを肯定こそしなかったが、否定もしなかった。
「男子校に通っているらしいから、欲求不満なのだろう。」
 厭では、なかったのだろうか・・・。
「だからって、そんな・・・なんで私と貴方が、そういう・・・」
「さて、な。」
――伊織先生、柊くんが来てからなんだか機嫌良いし
――柊くんもまんざらじゃないみたい
 本当に、そんな風に見えるのだろうか。
 千家は、私が来てから機嫌が良くなったのだろうか。
 そっと顔を伺うと、彼は眩しそうに目を細めた。深く紅い瞳が私を映して熱っぽく揺れる。
 ただの友人相手に、こんな表情を見せるものだろうか。逆に、今私はどんな顔をしているのだろう。
「お前・・・」
「・・・・・・ぇ?」
 彼から目が離せない私は。
「・・・抱いて欲しそうな顔をしている。」
「っな・・・!」
 プラネタリウムの中で抱きしめられ耳元で囁かれたときの感覚が、急に身体の中を駆け抜けた。
「何をっ、言ってるんです!」
 心臓がばくばくと音を鳴らす。
 あのとき、本当はこのまま時が止まってしまえばいいと思った。千家に抱きしめられたまま、名を呼んでもらえるなら。
「そもそもですね、仮にそういう関係だとして、なんで私が、・・・抱いてほしいとかその、・・・女役なんです?」
 けれど、彼は私を呼ばなかった。
 寂しかった。
 悲しかった。
 もう、千家なんか嫌いだと思った。
 なのに、またここに来てしまった。そして、彼が他の少年と一緒にいるのを見て、妬心を覚えた。
「そんなこと言う貴方こそ、本当は私に抱かれたいんじゃないんですか。」
 何を言っているんだろう、私は。
 男どころか女ですら抱いた経験も無い、おぼこい私は、いったい何を口走っているのだろう。
「・・・っふふ。」
 顔が熱い。恥ずかしくてなのか、怒っているからなのか、悲しくてなのか、もうよくわからない。
 千家は私の髪に指を絡めながら、そっと言った。
「そうかもしれん。」
 湿度を含んだ彼の囁きは、私の頭の中に混乱の渦を生んだ。
 千家と親しげな薫に私は腹を立て、その薫に千家と懇ろな仲なのではと指摘されたことを知って戸惑い、千家には抱いて欲しそうだとからかわれ、逆に私に抱かれたいのかと聞いたらそうかもと言われた。
 つまり?
 つまり、千家は・・・――


  

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