One more time, One more chance 9(拍手お礼より)



 その日は朝から雨だった。
 プラネタリウムのある天文台は駅から離れていて、バス停からも少し歩く。着くまでの間に、服が少し濡れてしまった。
 生憎の天気だというのに、企画ものであるからか、傘を差した客が入場のため列を作っている。千家は人より背が高いので、すぐに見つけることができた。襟付きの半袖シャツにスラックス。和装もよく似合うが、パンツだとスタイルの良さが際立つ。
「今日は着物じゃないんですね。」
「さすがにこんな日にまで着ないさ。」
 二度目に会った時は、着物姿で濡れ鼠になっていたことを思い出す。あの日は私と別れた後に彼の担当する華道のクラスが予定されていたとのことで、帰って慌ただしく着替えたのだと後から聞いた。教室は、彼と母、姉の三人で教えているそうだ。あの時、昼過ぎに女性が集まっていたのは、千家ではなく彼の母の担当クラスだったらしい。

 チケットの示す座席は、いわゆるカップル席だった。彼の姉が、子供が動き回ったりぐずったりした場合を考えて、他の客に迷惑のかかりづらい席を選んだのだろう。
 隣の席とは直接接続せず独立したソファ型。しかしこのタイプの席は僅かしかない。他は皆、映画館やホールのように隣とくっついている。
 周りを見回すと、意外にも若い男女の二人組が多く、羨ましげにこちらを見ている。少し、居た堪れない。これを知っていたから千家は厭がっていたのだろうか。
「なんだか、恥ずかしいですね。」
「何がだ。」
 寛いだ様子で背凭れに身体を預ける千家は、他人の視線など興味がないらしい。
「だってカップルばかりですよ、ここ。」
「お前がどうしてもと言うから来たのだ。」
「それは、そうですが・・・」
「いっそのこともっと恋人らしくしてみるか?」
 楽しげに目を細めると、千家は右腕を伸ばして私の腰を引き寄せた。
 薄い布越しに伝わる温もりに心臓が跳ねる。
「ちょ、何するんですか!」
 慌てて身体を引き離そうとするが、千家はより腕に力を入れてくる。
「他の人たちが変に思いますって!」
「しっ。ほら、始まるようだぞ。」
 彼の言うとおり、司会らしい女性が半円状に並ぶ座席に囲まれた中心に現れ、挨拶をしている。
「あの人に見られます!」
 肘で脇腹を突いてもがくと、恥ずかしがる私の様子に満足したのか、やっと千家は腕を緩めた。
「何なんですか突然、ほんとに、もう・・・」
 こんな事されたら気が保たない。ただでさえいつもと違う格好の千家といつもと違うところに来て、気持ちが浮き足立っているというのに、こちらの情報処理能力を超えてしまう。私は小さな幸せをひとつずつ噛み締めたいのだ。
 うるさい鼓動を抑えながら、千家の横顔をちらと盗み見る。
 薄明かりの中、天を見上げる姿はやはり美しく、しかしどこか、切なげに見えた。

 ナレーションと共に、だんだんと照明が落とされてゆき、ついには周りの何もが見えなくなる。
 まるで本当の星空を眺めているように、私たちの視界には暗闇に浮かぶ小さな灯りしかない。
――南の空にひときわ大きく輝く星の名を、皆さんは知っていますか。
 ゆったりとしたナレーションが、天空の世界へ私たちを誘う。
 星座は神話に基づいているものも多いから、動物やものの名前だけでなく人の名前もある。そういえば七夕の織姫と彦星について、幼い頃はそういう名前の星座があると思っていたのに、実際は星座に含まれる星のひとつであると知った時は不思議に思ったものだった。
 いまなら、複数の星をひとりの人間にたとえるより、ひとつの星をひとりの人間にたとえる方がそれらしい気がする。天の川を挟んで瞬く二つの星が、互いの名を呼びあっているように見えるから。
 普段東京に居ては決して見ることのできない星の海は、時間と空間の感覚を狂わせる・・・――。

 私と千家を繋ぐひとつの記憶が甦る。
 こんな満天の星空の下で、絶体絶命の状況下で、千家は美しく微笑みながら私の名を呼んだ。
――京一郎。
 あの声を、もう一度聞きたい。
 あんな風に、また呼んでほしい。

・・・そして唐突に、私は千家に名を呼ばれた事がないことに気が付いた。
 左側に座る彼を見ようとしたが、真っ暗で全く見えない。
 彼は確かに私の横に座っているはずなのに、まるで宇宙の真ん中に置き去りにされたように、私は心細くなった。
「伊織さん」
 小声で呼んでみる。
「なんだ。」
 一拍空けて小声が返ってきた。
 今までの私なら、それだけでもう満たされてしまって、何も言えなかったところだ。だが、傍に居られるだけでもいいと思っていたはずの私は、どんどん欲に駆られる。私の求めるものは、それだけでは足りない。
 千家の方を向こうと座り直したら、腕が当たった。彼の二の腕は、冷んやりして鳥肌立っていた。
「寒いですか?」
「・・・いや。」
 屋内は冷房が効いているから、私より先に来て斜めに降る雨が当たっていた千家は、結構冷えてしまっているのかもしれない。
 しかし今更膝掛けを借りに立つこともできないし、生憎何か羽織るものも持ち合わせていない。どうしたものか。
「お前は?冷えるか。」
 いえ、と言ったのだが。
 心なしか、左の腕のあたりの空気がほんのり暖かくなる。千家が私に寄って座ったようだ。
 嬉しい。
 欲を言えば暗闇に紛れてもう少し近付きたいけれど、私にそんな勇気はない。
・・・でも、やはり、彼は私の名を呼んではくれないのだ。
 けれど、返事は返ってくる。
 このような場で私語は慎むべきだけれど、今なら、顔も見えない真っ暗なここでなら、いつもだったら言えないような言葉も口にできるような気がした。
「ねぇ、伊織さん。」
 千家から返ってくる返事は少し間が空いていて、遠いどこかにいる彼と無線か何かで会話しているような気になる。
「うん?」
 自然、私も彼の返事から一呼吸おいて返す。
「どうして・・・私の名前を、呼んでくれないんですか。」
 聞いてしまった。
 私は息を飲んで、彼の回答を待つ。
「・・・呼んだことがなかったか。」
 また少しおいて帰ってくる千家の声は掠れていて、そこにどんな感情が宿っているのか、或いは宿っていないのか、聞き分けることはできない。
「ありません。」
 ソファが軽く浮いて、また沈む。千家が、組んでいた足を組み直したのだろう。
「そうか。」
 それだけ・・・?
 私が考えすぎなのだろうか。

――十二星座にも数えられている、うお座には三等星より明るい星がありません。そのため、他と比べると、少し見つけづらいのですが、・・・
 少しの間沈黙していたナレーションが、また星座の説明を再開する。
「ねぇ、・・・伊織さん。」
 私は、彼の名を呼ぶ。
「なんだ。」
 心なしか優しく響いたように思えたその声が、私の背を押した。
「私の名前を、呼んでください。」
――二尾の魚は、いつも互いの近くに居て、決して離れることはないのです。
「急に、どうした。」
 星座を結んでいた線が消えると、ひっそりと星座を構成する星たちは他の星に紛れてしまい、今さっきまで確かに見えていたはずなのに、どこにあったのかも分からなくなってしまった。
「だって・・・」
 こうして呼ばないと、貴方がどこにいるかさえ分からない。
 そして貴方が私を呼んでくれないと・・・。
「・・・貴方といても、私は私がここに居るのかどうかすら、分からなくなってくるから・・・・・・」
 またナレーションが途切れ、沈黙と暗闇は、確かにそこにあるはずの存在を不安にさせる。
 私が望むのは、そんなに欲深いことだろうか。
 名を呼んで欲しいというささやかな願いも、聞き入れるに困難なことなのだろうか。
 私は私と千家との間に互いを繋ぐものが確かにあると信じたいだけなのに。
「おかしなことを言うな、お前は。」
 吐息が頬に当たった。
 冷んやりした腕が身体に巻きつき、私の顔は温かな胸に押し付けられる。布越しに感じる彼の膚の湿度に、息が止まるような気がした。
 聞こえる鼓動はゆっくりと、ゆったりと、私を拒絶しているのではないと伝えているように感じられた。
「心配などせずとも、お前は確かにここに居る。」
 千家の囁きが、耳の縁に落ちる。
 ぞくぞくした感覚に喉からおかしな音が出そうになって、私は必死に彼の腕にしがみついた。
「・・・・・・ん・・・っ」
 そのとき、会場から一斉に溜息が漏れた。
 ドーム型のスクリーンいっぱいに燃え盛る炎が散らばる。
――尾を引いて高速で移動するこの大きな星は、彗星です。
 画面は徐々にズームアウトしてゆき、真っ暗な空、細く短い糸のような星が無数に降り始めた。その中、ひときわ大きな尾を持つ星が、ゆっくりと流れてゆく。
――大気圏へ突入して消えてしまう流星とは異なり、自らを燃やしながらどことも知れない遠くへと突き進むほうき星は、まるで掛け替えのない誰かを探し求めて旅をしているようです。
「お前が不安に思うなら、こうしていくらでも抱いてやる。」
 そういうことじゃない。
 私の求めるのは、そうじゃない。
「私は、貴方の・・・言葉が欲しい。」
 私を抱く千家の腕は一瞬硬くなり、そしてより強い力で私を包んだ。
 ただの友人を、こんな風に抱くものだろうか。
 こんなに強く優しく抱きしめたり、するだろうか。
 千家は私に対して並々ならぬ情を抱いていると勘違いしてもいいのだろうか。
「伊織さん・・・」
 私は懇願の気持ちを込めて呼ぶ。
 ひしと抱いていた腕はゆっくりと解かれ、温かな掌が私の髪を、頬を撫でる。
「ねぇ、・・・」
 私は暗闇の中温かな胸に縋って、もう一度呼ぶ。
 呼びかけに応える声はなく、代わりに熱くて柔らかいものがしっとりと触れた。
 小さく、口付ける音が聞こえた。

  

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