One more time, One more chance 11(拍手お礼より)



 混乱が回り回って、私は冷静になった。
 この場で私が千家に言うべきことを考えろ、柊京一郎。
 まずは・・・、そう。薫の発言に振り回されてどこかへ行ってしまっていた疑問を解消しなければ。
「・・・それで。私を彼に引き合わせたのはどういうわけなんです?」
 強引な話題の転換に、千家はきょとんとして、ゆっくり瞬きした。
・・・分かっている。けれど私だって精いっぱいなのだ。これ以上先ほどの会話を続けていたら、何を口走ってしまうか分からない。だから、こうするしかなかった。
 取り乱して一転事務的に振舞う私を不思議そうに眺めていた千家は、やがて、静かに目を伏せて言った。
「・・・・・・そうだな、それを話さないと仕方がないのだが、」
 彼は懐からスマホを取り出した。バイブレーションが鳴っている。
「姉に呼び出されてしまった。私は一度帰らなくてはならない。」
「そう、ですか・・・」
 この状態で別れるのは、とてももどかしい。
 今日は結局あまり千家と二人でいる時間もなかったし、訊きたいこともたくさんある。いつだって確かな約束をしないから、本当のところ、次はいつ会えるかもわからない。この間のプラネタリウムは例外中の例外。私は彼と、電話番号はおろかメアドやラインすら交換していないのだ。友人であるはずなのに。
「なぁ。」
 千家は私の頬を指の背で撫でる。
「・・・なんです。」
 私は目を逸らす。
 細く長い指は私の唇の上をつつと滑って離れた。
「私と、離れがたいのだろう?」
 見透かしたような笑み。
・・・そうだ、と言ったら、貴方はいったいどうするつもりなのか。仕事なんて放っておいて、私のためだけに私の側にいて欲しいと言ったなら――。・・・そんなこと、言おうとしても私にはきっと言えないのだろうけれど。
「・・・ぁ」
 いやまずその前に、私と彼はそういう関係にすらなっていないのだから。
「ぁ貴方が、私と、離れたく・・・ないんでしょう?・・・回りくどいことはやめてはっきり言ったらどうです・・・私と、一緒に居たい、・・・って・・・。」
 言い始めたは良いが、途中で自信がなくなってきて、語尾が小さくなってしまった。そうでもない、などと言われたらどうしよう。
 私は彼の中における私の位置付けが、未だよく分からないでいる。例えば薫と私とでは、どちらがより彼に近しいところに立っているのだろう。
「・・・お前は、この間は弱音を吐いていたと思えば急に強気になったりまた弱ったり、忙しいな。」
 千家はまた眩しそうに目を細め、思いついたように言った。
「私の部屋で待っているか?」
「・・・ぇ。」
 部屋、とは千家の私室ということだろうか。
「1時間ほどで用は済むと思う。多忙な帝大生殿が、それを長く感じるかは私には分からんが。」
「あ、の、それ、は・・・」
 お宅にお邪魔していいということだろうか。
「まぁ、来たくないのならここで待っていてもいいし、これから用があるのなら、この話はまた次の機会だな。」
「い!」
「うん?」
 頬杖をついた千家は上目遣いで私を見る。腹が立つのは変わらないけれど、そろそろ意地を張るのも疲れてきた。
「・・・ってあげてもいいですよ。私の用は、後回しにして。」
 本当は、用事なんて何もないのだが。
「ふぅん。それは助かる。」
 くすくす笑いながら、千家は伝票を手にして立ち上がった。

 教室の門構えはいかにも古くからの家元といった体で、邸宅は私には気軽に敷居をまたぐことなどできそうにない立派な日本家屋だったが、千家の私室は意外にも洋室だった。
 暗めの色合いの木床に、深い赤を基調とした布がアクセントのレトロな家具が並ぶ。天井にまで届く焦茶色の本棚には、いつも彼の見ているような画集や詩集だけでなく、専門書に小説、洋書などあらゆる書籍が並び、それから、下の方の大きめな本を置ける棚にあるのは楽譜だろうか、とにかく見事としか言いようがない。思わず溜息が出る。
「気に入ったか。」
「はい・・・!沢山本をお持ちなんですね。そんな気はしていましたが。」
「私が戻るまで、ここで好きに過ごしていればいい。この棚に興味のある本がなければ、ほら。」
 千家が棚を横に引くと、その奥に天井までそびえる本棚がもう一つ現れた。
「まぁ、お前の大学の読書室には劣るだろうが、退屈はしないだろう。」
「・・・これを、読んでも・・・?」
 目の前に広がる知識の海に、私の胸は高鳴った。
 大学の図書館や読書室は彼の言う通り学びの最高峰であるだけあって、その蔵書はとてつもない量だ。しかし、とてつもないだけに分類もしっかりされており、ひとつの棚には同じ類の本しかない。はっきりとした目的を定めずに読書したい場合、 千家の書架のように、その人の趣味で雑多に集められた本棚の方が、興味を引くものを見つけ易い。趣味の方向性が異なる人の棚でも、未知の世界に触れる良い機会だと私は思っている。
 私の反応が予想以上だったのか、千家は少し嬉しそうに微笑んだ。
「無論だ。休みたければ長椅子・・・はここには無かったな。」
 ディヴァン?確か英語のはずだが、何という意味だったか。
「私のベッドで休んでいても構わん。」
「・・・えっ」
 それは、・・・・・・いや、それは・・・。
「では、行ってくる。良い子でな。」
 千家は私の額をつん、と小突いて出て行った。

 この部屋に入った時からの感覚、彼の発言、行動のどれもに既視感を覚える。
 私はすぐにでも本棚を物色したい気に駆られていたが、一方で気になる相手の部屋に居ることに舞い上がって、本棚と部屋の扉の間を行ったり来たりした。
 これでは思春期の高校生と変わらない。一度落ち着かなければ。
「ふぅ・・・」
 ゆっくり深く呼吸する。
 しかしそもそも千家の部屋で深呼吸すること自体が何やら背徳的というか、自分が変態のような気がして、慌てて窓を開け、外に向かって息を吸って吐いた。
 少し落ち着いたので、ベッドに腰掛ける。ブラウンで統一されたベッドカバーにシーツ、枕。手触りの良い布に誘われて、寝転がりたい気に苛まれる。
「・・・だって、構わないって言われたんだ」
 言い訳するように呟いて、そっとベッドカバーの上に寝そべってみた。
 ここで千家が寝起きしているのかと思うと、またむやみに緊張してしまう。
 ふと、後ろから抱きしめられたような気がして、振り向いた。
 仄かに枕からラベンダーの香りが漂う。当然、先ほど出て行ったばかりの千家はここには居ない。この部屋にいるのは私だけだ。

 なぜだろう、ここに来るのは初めてのはずなのに、知らない場所だという気がしない。
 大きな本棚や真紅の背当ての椅子、深い茶のベッドリネン・・・。
 これも、やはり例の記憶に関係しているのだろうか。

 千家は薫という少年について、説明することがあると言っていた。
 彼と私との間に敢えて必要になる会話があるとすれば、記憶に関することだけだ。
 私たちはよく顔を合わせてはいるものの、その割に会話は少なく、話題もその時々で異なる。だから私たちに共通の関心事があるのかどうかすら、私には分からない。
 あの少年は、記憶に関わる人間と見て間違いなさそうだが、いったいどのような関係だったのだろう。私には、そして彼にも、思い当たる節は無いように思うのだが。
 そしてこれまであれほど厭がっていた記憶に関わることを、なぜいま千家は話す気になったのか。

 改めて、千家と私のいまの関係を考えてみる。
 私たちは、もちろん友人だ。
 同じ空間にいることを多分お互い心地良く感じているし、割と定期的に会う。
 好みのジャンルは違うようだが、読書という共通の趣味もある。
 私は彼を恋愛的な方向も含めて好ましく思っており、彼が私をそう思っているかは不明だが、彼の方から明らかに友人の域を越えたスキンシップをしてくることもしばしばある。

・・・でも、それだけだ。
 私たちを繋ぐ決定的なもの、あの不思議な記憶については、彼が話したがらなかったから、不明なまま。私は頬を撫でたり突いたりする彼の指先から燻り立つ香りを知っているが、その膚の内側に彼が何を思うのかを、知らない。
 そして彼は、私の名を決して呼ばない。
 私たちの関係は、深く絡み合っているようでいて、肝心なものが抜けており、むしろ実はとても浅く、吹けば飛ぶようなものなのではないかという気すらしてくる。

 転がったまま、目の前の枕を見つめる。そっと、表面を撫でてみる。
 朝に夕に千家の頬の乗るはずのそれに触れるだけでも空前絶後の一大事だが、まだ彼は戻らないという安心感がさらに私を誘惑する。
 今なら、まだきっと大丈夫。
 どんどん大胆になる自分に驚きながら、私は枕を引き寄せる。
 抱きしめてみた。ふわりと漂う香りはいつも傍らに花を携える彼を思わせて、ひとり顔が熱くなる。
 記憶の中の私は、こんな風に彼を抱いたことがあったのだろうか。
 もしそうだとしたら、少し、羨ましい。
 だがきっとそれでも、私たちの関係は悲劇に終わったのだと、ぼんやり思う。
 なぜなら、私は記憶を呼び寄せたあの曲に涙を流し、千家は記憶のせいで後悔に苛まれているのだから。
 枕を抱いたまま、本棚を眺める。芸術関連ものだけでなく、専門書や小説もある。アルファベットの背表紙は、英語にフランス語、ドイツ語、中国語もある。千家は語学方面にも才があるらしい。
 一番下の段に並ぶのは、バッハ・・・はピアノだったか。ヴァイオリンの楽譜もあるようだ。お願いしたら、いつか弾いて聴かせてくれるだろうか。

 出がけに千家が引いたまま少し見える奥の棚も、最下段には楽譜がある。
 その、奥の楽譜の脇が不自然に空いていることに、私は気付いた。何か置いてあるようだ。
 まるで隠されていたようなその空間にあるのは、千家の秘密の趣味だろうか。
 俄然興味がわいてくる。
 ひとの部屋を物色するなど悪趣味だが、私の好奇心は増すばかり。美少女フィギュアなど出てきたらどうしよう。いや、意外にもゆる系のかわいい文房具とか。あ、でもエロ本とかだったらちょっと厭かも。
 なにも机の引き出しを開けようというのではない。少しだけ、棚を覗くだけだから・・・。
 床に跪いて手前の棚を引き、奥を覗く。
 楽譜は本立てに支えられており、奥にあるものは思ったよりも大きそうだ。手を伸ばして引き出してみる。
「これは・・・」
 金属のフレームに丸いものが囲まれ、木のスタンドが付いている。
 楽譜に隠れるようにしてあったのは、人の頭ほどの大きさの古めかしい地球儀だった。


  

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