One more time, One more chance 12(拍手お礼より)
骨董品だろうか。
球体の表面は樹脂ではないようで、少し硬いが手に馴染む感触だ。もしかしたら羊皮紙かもしれない。だとすると相当のアンティークなのではないか。
倒して壊さないよう、慎重に眺める。
国名はフランス語で書かれているようだ。
指先で触れると、地球儀は音も立てず静かに回った。
やがて姿を現した龍の形の小さな島は薄紅色に着色されており、国名は他のものよりも黒々と記されている。
JAPON
電気もつけず暗い床にあるのに、なぜこの文字だけこんなにはっきりと見えるのか不思議に思った私は、地球儀を持ち上げた。
存外と重いそれを、持ったまま見るのも億劫なので、千家の机の上に置いてみる。
やはり古い彼の両袖机に、この骨董地球儀はとても合っているように思われた。
深紅の座面に腰掛け、地球儀を眺める。
私は右利きなのだが、なぜか左手を伸ばし、つるりとした球面に触れた。
――まただ。
私はこの感触を知っている。
左掌で婉曲する世界を包み、 愛する国を親指の腹でそっと撫でる。
この一連の動作を、いったい何度繰り返したのだろう。きっと千家もこうやって幾度となく撫でたために、国名のインクが薄くなってしまったに違いない。落陽に照らされた薄茶色の革には、何度も活字をなぞって書き直した跡があった。
そして記憶の私は、こうして小さな世界を眺めながらやはり呼んだのだと、朧げに思う。
「・・・伊織。」
なんと甘美で切ない名なのだろう。
私の心はその人のことを、その人との思い出をはっきりとは思い出すことができないが、この胸に湧き上がるのは、身を焼くように苦しくて、それでいて他に知る者のない秘密のように甘い、決して叶えられない願いと絶望。
もどかしい。
私はこの想いの正体を知りたい。
私の知らない私と、彼ではない彼の間に何があったのか。
そして、いまの私と彼に、できることはないのか。
肩を掴んだ手が、強く私の体を引いた。
千家が戻って来ていた。
物思いに耽っていて、まったく気付かなかった。
「あ・・・お帰りなさい。・・・もう、教室はいいんですか?」
千家は硬い声で言った。
「お前は・・・誰だ。」
彼は何を恐れているのだろう。
記憶の私に会うのは、そんなにも彼を脅かすことなのだろうか。
彼は、いまここに居る私には気を許しているようだが、記憶の私は気を許せないような存在なのか。私はそんなに危険な人間だったのだろうか。
「・・・またですか?何を心配してるんです。」
たしなめるように言いながら私は考える。いったい私は、何者なのだろう。
「これをどこから持ち出した。」
「あぁ、勝手にすみません。本棚の奥に見えたので、気になって。・・・大切なもの、だったんですね・・・?」
千家は応えず、小さく溜息を吐くとベッドに腰掛けた。
横に座ると、彼は私をじっと見た。
私も彼を見つめ返す。
紅い瞳はどこか不安気で、私は何か言おうと口を開いたのだが、それを遮るように、唐突に千家は切り出した。
「・・・先程の薫という高校生だが、」
これまで彼の方から積極的に具体的な話をすることなどなかったから、自然と私も姿勢を正す。
「あれは、私を心の底から憎んでいるはずだった。」
「憎んでいる・・・?そんな、逆でしょう?」
あの時彼は、間違いなく千家に甘えていた。戦略的に小悪魔的にではなく、無邪気な信頼を寄せているように見えた。
「今は、な・・・。お前は、以前私の記憶の話をしたことを覚えているか。」
忘れるわけがない。なぜならそれは、私の記憶でもあるはずだから。
「陸軍の話ですね。」
千家は頷いた。
「薫も、それからほら、そっくりな顔のがいたろう。あれは双子の兄の馨というのだが、二人とも陸軍将校だった。私とは敵対する将校の下にいた。」
そう前置きして、彼は私を見つめた。
何か反応があると思ったようだが、生憎私は取るべきリアクションを知らない。
「お前はあれを見て、何か感じたか。」
私は、同じような質問をされた時の薫のように、首を横に振った。
「・・・そうか。私より先に、恐らくあの双子が、お前に接触していたはずなのだがな。」
「それはいつのことです?私には全然覚えがありませんが。」
「記憶の話だ。この世界でのことではない。」
千家は遠くを見るように目を細めた。
「薫はお前の刀を、力を恐れていた。そしてお前はあれを治療していた男を殺した。」
「え・・・?」
私は、人を殺したのか?刀で?なぜ?全く記憶にない。私は、記憶の私は、そんなことをするような人間だったのか。
「加えて私が崖から落ちる直前に、双子の上官は我々との交戦中、銃弾に斃れた。」
「そんな・・・」
「私の死後、恐らくお前はあいつらを何らかの形で排除しているはずだ。」
「嘘だ・・・!」
急な話に、理解が追い付かない。
排除というのはやはり殺したということなのか。
私は、そんなに沢山の殺人を犯した人間だったのだろうか。
信じられない。
否、信じたくない。
都合の悪い記憶をきれいさっぱり忘れて、私はのうのうと生きているというのか。人殺しが、愛だの恋だのにうつつを抜かしているというのか。
「嘘だ、私が人を殺すなんて、・・・嘘だ・・・・・・」
声が震えた。
千家は私が取り乱すことを想定していなかったらしい。気まずそうな顔をして、優しく囁いた。
「・・・そうだな。お前は誰も殺してなどいない。」
千家は両手で私の頬を包んだ。
私の目を覗き込んで、笑う。意地悪そうに。
「人を殺したというのは嘘だ。・・・驚いたか。」
しかし、私には分かってしまう。
彼は嘘をついていないことが。
「ふ・・・酷い顔をして。他人の妄言に揺さぶられているようでは、これから先苦労するぞ。」
額を髪を優しく撫でる手が、私を慰めようとしていることが。
「ほら。むやみにお前を苛めた私に、恨み言はないのか。」
千家は私の頬をつまんで、子供をあやすように揺すった。言うべきではなかった、瞳の奥がそう言っている。
「貴方は・・・殺人者の私を恐れているんですか・・・?」
口にするだけでもおぞましい。喉の奥が震える。
千家は私の唇に咥えさせるように、人差し指の側面を押し付けた。震える唇を温めようとしているのだろう。
そんな仕草と対照的に、彼は嘲笑うように言った。
「恐れる?私はお前を攫った人間だぞ。そんなわけがあるか。」
攫った。
そうやって、わざと不穏な言葉を使って、私の罪状を軽く見せようとしているのだろうか。
「・・・ではなぜ、私に記憶が戻るのを厭がるんです。すべてを思い出したら、・・・私は貴方を・・・殺、すんですか・・・?」
私は、彼を殺そうとしていたのだろうか。
「・・・お前は、いまさらそんなことはしない。多分、な。」
千家の呟きはどこか優しく、それでいて寂しく、私は、子供の頃に訳も分からず悲しくなって理由もなく泣いた時のような気持ちになった。
「ねぇ、教えてください。私と貴方は、いったいどういう関係だったんです?私も貴方を憎んでいたんですか?」
そんなはずがない。憎い相手をこんな風に胸を焦がして追い求めるなんて、あり得ない。
憎くてたまらないのなら、その名を呼んで、心がこんなに苦しくなるなんて、・・・・・・――。
千家は私の髪を、優しく、優しく、撫でた。
「私はお前ではないから、お前が私をどう思っていたかなど知る由もないが、」
また、嘘だ。
知っているくせに、私には言わないんだ。
「・・・私は、お前になら殺されていいと思っていた。」
千家の声はまるでウェイターが料理の紹介をするように、あるいは学芸員が展示物の説明をするように、淡々としていた。
――一朝事あらば私を殺さねばならない場面も出待しうる。
断片的な彼の言葉が耳に蘇る。
殺さねばならない場面とはいったいどういった場合なのか。
殺されていいというのは、いったいどういう意味なのか。
彼の言う”私”ではない私には理解できない。
理解したくもないと、思った。
「私は貴方を殺したいなんて、絶対に思わない。」
私は千家の頬に触れた。
そんなこと、人にされたことがないのだろう。千家は少し驚いたように目を見開いた。
「・・・絶対に。」
私はどんな顔をしているのだろう。
どうか、千家を不安にさせるような顔でなければいいと、思った。
千家は、なにかを堪えるように目を伏せた。
「・・・薫の話だが、」
彼は私の手の上に右手を添えて、口を開いた。
「初めて会ったとき、一度は敵意を剥き出しにして近づいて来たのだ。」
まだ小学生だった彼は、宿敵を見つけたように、震えながら両拳を握り締めていた、と千家は言った。
「あれはこちらを睨みつけながら、私の名を呼んだ。」
――見つけた、千家伊織。僕はあんたを。
そう言って、手を伸ばしてきた。
千家は何も言わず、薫のするのを見ていたという。
胸ぐらを掴むか頸を締めるかと思った手は、高く伸ばされた。
薫は、目を輝かせて跳ねながら言ったらしい。
――背ぇ高っ!どうしたらこんなに伸びるの?僕はねぇ、毎日牛乳飲んでるんだ!
「それまでの殺気が消えていた。あの時すでに薫は私のことを仇ではなく、師匠の弟だとしか認識していなかった。」
以来もう5年以上経つが、薫が陸軍のことを話題にすることは一度もないのだという。
「姉の友人に、館林という婦人がいる。私と敵対していた薫たちの上官と同じ名だ。」
その将校にも姉がいたらしいのだが、その館林という女性には弟がいないそうだ。
「彼女は近々男児の出産を控え、既に名を決めているそうで、」
その名というのが、件の将校とまったく同じだという。
「これから生まれてくる赤ん坊が、あの男であると決まったわけではない。同じ名で似たような顔をしていても、記憶を持たないこともある。」
千家が薫にそれとなくその話をしてみると、反応があった。
――あ、僕の知ってる人と同じ名前だ。
千家は誰と同じなのかと問うたが、薫は楽しそうに言ったという。
――伊織先生の知らない人。僕だけの秘密だから、馨兄様も知らないよ。でもね、とっても大事な人だったんだ。
「薫は記憶のすべてを失ったわけではない。恐らく上官だった館林のことはまだ覚えている。しかし馨や私の記憶は、どう消えたのかは知らないが、残ってはいないようだ。」
千家の話を総合すると、記憶の中でも憎しみや愛情など特に強い感情に結び付いた人間の名を呼ぶことで、その人間にかかる記憶が消えるのではないかということだった。
「でも、薫くんが貴方を憎く思っていたというなら、彼の関係者を、・・・殺した、私のことだって、憎くなかったはずがない。・・・ちょっと強引なんじゃないですか。無茶な理論だ。」
「そうだな。だがお前は私の下にいたから、私の記憶と併せてお前の情報も消えたと考えることもできる。そもそもサンプル自体が無いのだ。兄の馨にも、何らかの共通する記憶があったのかもしれないが、少なくとも今は消えているようだ。私は彼ら以外、記憶に関係する人間に会ったことがないから、検証のしようがない。」
「だとすればなぜ、薫くんを何度も呼んでいる伊織さんは、彼のことを憶えているんです?」
訊くと、千家は当然のように言った。
「私にとって薫は、そこまで強い感情を抱く相手ではなかった、というだけのことだろう。」
「・・・そんなの、可能性の一つに過ぎない。極論です。」
詰めが甘すぎる。いくらでも綻びを突くことができる。もっと追い詰めて論破したっていいが、そのくらい、この男が理解していないはずがないだろうに。
・・・・・そして。
私は気付いてしまった。
彼が私に会いたくなかったと言った理由。
私の名を決して呼ばない理由。
それはつまり、彼自身が、もうひとりの私と共有する記憶を手放したくないからに違いない。
私に記憶を戻したがらないのも、そうすることで彼の記憶が消えてしまうと思っているからなのかもしれない。
・・・なんだよ。
記憶は余計なものだとか、お前の生を生きろとか偉そうに言いながら、一番記憶に執着してるのは貴方なんじゃないか。
でも。
それならば・・・・・
「なぜ、私には、はっきりした記憶がないのでしょうか・・・」
「さぁな。或いはお前に記憶らしきものがあるというのが、そもそも勘違いなのではないのか。」
「そんなはずない・・・だって私は、漠然とではあるけれど、貴方に会う前から貴方のことを憶えていた。でも、貴方の名を呼んでも、貴方に関する記憶は消えない・・・」
「すでに消えているのか、そもそも初めから記憶などないのか。・・・まぁもう一人のお前もイレギュラーな存在だったからな。仮に私の推論が正しかった場合でも、或いはお前だけその範疇を超えているのかもしれん。」
「私が大丈夫なら、伊織さんだって大丈夫かもしれません。」
重ねられた手に指を絡めて、強く握る。
千家は応えない。
「それに私は、貴方の記憶の中の私ではない。貴方がそう言ったんですよ。記憶なんて、無くなってもいいじゃないですか。」
貴方は、いま目の前にいる私よりも、記憶の中の私を選ぶの?
「・・・ねぇ、伊織さん。」
私を見返した千家は黙ったまま、淡く微笑んで目を伏せた。