One more time, One more chance 14(拍手お礼より)
応接間がいいか、と訊かれたが、遠慮して、先日と同じように千家の私室のベッドに腰掛ける。
「生憎この部屋では他人が寛ぐことを想定していないのでな。溢すなよ。」
紅茶のカップを差し出しながら、千家も枕側に腰を下ろした。受け取った赤い色の水面から、湯気に乗って茶葉の深い香りが立ち上る。
この部屋に辿り着くまでに、彼の姉と姪に引き続き、廊下では彼の母親にまで対面してしまった。迷惑そうではなかったものの、こんな時間に上がり込んでしまい、申し訳ない気持ちで小さくなりながら千家の背を追った。
暖かな蒸気を吸い込むと、 緊張のあまり滞っていた血流が、やっと穏やかに動き始めたような気がする。
彼の姉は、泊まっていってね、など無責任なことを言いながら娘と一緒に帰っていった。そんなことできるわけがないのに、むやみに動揺させないで欲しいと思った。
「それで、用件はなんだ。こんな時間に訪ねてくるとは、何かあったか。」
「いえ、だからさっきも言ったとおり、ただ近くを通りかかっただけなのに、お姉さんにつかまってしまって・・・。だから用なんて特段、何もありません・・・」
「ふぅん。」
それきり、会話は途切れてしまった。
私は音を立てないよう、そっと紅茶を啜った。
気の早い秋の虫が、か細い声で鳴いている。
千家とこうして並んで腰掛けて、会話もせずただいるだけなのに、なんだか幸せな気持ちになったような気がした。
「お前・・・、飲み会の帰りか。」
千家がぽつりと言った。
「はい。・・・えっ、酒臭いですか?」
「んん・・・」
私の背の後ろに右手をついて、千家の顔が首元に近づく。ベッドが沈んで、私の身体は千家の方へ傾いた。
すぅ、と息を吸われて、くすぐったいような変な感じがする。
「ちょっと、嗅がないでくださいよ。」
「少し、臭うかな。」
最悪だ。
なんで飲み会を抜け出して千家のところへなんて来てしまったんだろう。
恥ずかしい。
「・・・近付かないでください」
私はベッドの足元側へ寄って座り直した。
「なぜだ?」
すると千家は、ずい、と寄って来た。
「・・・厭だから。」
臭い男だと思われたくなくて、近くに居たくない気持ちと、それでも近付いて来てくれることへの仄かな嬉しさが混ざって、私の胸はどくどくと鳴る。
また少しずれて座ると、千家もまた追ってくる。
「何が?」
「だから・・・、もう」
触れられてしまいそうな期待と、少しでも疎まれたくない思いに挟まれて、私はもう、いっぱいいっぱいなのに。
「うん?」
壁際に追い詰められた。
私の身体に覆い被さるようにベッドに両手をついて、千家はくすりと笑った。
長い髪の毛がこぼれ落ちて、頬をくすぐる。
「やだ、・・・て、言ってる、でしょう」
私は息も絶え絶えに声を絞り出す。
「何が、厭なんだ。」
顔が近い。
長い睫毛が当たりそうだ。
息を吐きたくない。見ないで欲しい。私は貴方みたいに美しくはないのだから。
そっと、浅く、薄く呼吸すると、石鹸の匂いが白い膚からふわりと立ち上った。
くらくらする。目を閉じかけた私の顎を捉えて、千家は目を細める。
「なぁ、き・・・――」
触れるか触れないかの距離で囁いた彼は、言い掛けて口を噤んだ。
――いま、なんと言おうとした?
「伊織さん・・・?」
何事もなかったかのように身体を起こそうとする、その腕を思わず掴んだ。
「・・・・・・伊織さん、いま・・・なんて、言おうとしたんです?」
千家は答えない。
「ねぇ・・・・・・・もしかして、」
もしかして。
いや、きっと。
千家は彼を掴んだ私の手を無言で冷たく見据える。
「・・・呼ぼうと、したんじゃないんですか。」
き、は、”京一郎”の、き。
「私の――」
言わせまいとするように、押し倒された。
「あ!」
飲みかけの紅茶がベッドカバーに溢れ、見る見るうちに染みが広がる。
「早く拭かないと、」
千家は私の手からカップを取り上げ、サイドテーブルに置くと、首元に唇を寄せた。
「んっ・・・ぁ、や」
柔らかな唇とその割れ目から漏れ出る湿気を含んだ熱い吐息が膚に触れるだけで、身体の中を駆け巡る感覚に私は訳が分からなくなりそうになった。
「ぁん、いぉ、・・・ぅ、ん・・・んぁ、や、やだ!」
「何が、厭だ?・・・ほら」
千家はわざと耳に息が入り込むように囁いて、耳朶を柔く噛む。
「っあ!」
駄目だ、翻弄されては。
ここで済し崩しに快感に身を任せたら、大切なものを失ってしまう。
「やめ、・・・や、だあっ、・・・め、伊織さ・・・」
必死の抵抗も赤ん坊の相手をするかのように容易く躱し、千家は私を快楽に落とし込もうとする。
それじゃ、駄目なんだ。
私は訊きたいんだ、貴方に。
「伊織・・・っさん・・・っ」
物腰は柔らかく、それでいて確実に私の動きを封じる。とても花と鋏だけ持っている人間とは思えない。
「何でっ・・・こんなこと――!」
「・・・っふ。お前が、誘ったのだろう?」
違う。
私は千家のことが好きだけれど、手順を踏まずにこんな関係を結びたくない。
それに、私の名を呼ばない人にそう易易と落ちたりなんか、しないんだ。
屈するな、柊京一郎。
「やめて、ください」
毅然と言ってみたけれど、千家は聞き入れない。
なんで。
こんなにも触れ合っているのに、気持ちが通わない。
私の小さな願いすら叶えてくれず、こうして私の望まないことばかり。
「やだ・・・て、言ってる・・・んっ、のに・・・」
それに、千家の唇は私の首筋や耳朶や鎖骨ばかりを這いまわるけれど、私の唇には触れない。
記憶が私に戻るのを恐れている?
なぜ?
千家は記憶の私を忘れたくないはず。
ならば、私が記憶を取り戻して、記憶の私が私と入れ替わった方が都合がいいのではないのか。
私など、居ない方が、都合がいいのではないか。
「ぁ貴方は・・・っ」
千家の唇や指先が私の身体に愛撫を施し、花が開くように官能が生まれるたび、心は求められていないという絶望が私の胸に穴をあける。
「貴方は、私なんか求めてないくせに・・・!」
こんな風に、私の初恋は終わるのか。
相手も知らずに求め続けていた、どこかの誰かが私に伝えた想いは、結局繋がることなく、伝えることもできずに、消えてしまうのか。
――奇跡がもしも起こるなら 今すぐ君に見せたい
奇跡なんて起こらない。この人が私を見ることは、きっとこれからもない。
「・・・・・・なに?」
「早く私に記憶を戻して貴方の京一郎を取り戻せばいいじゃないですか。記憶のない私は外側だけ同じの慰み者だとしか思ってなかったんだ、貴方は。」
――新しい朝 これからの僕
私にはもう朝なんて来ない。これからの私なんて、きっとない。
「何を言っている」
「貴方は臆病だ。何を後悔しているのか知らないけれど、”京一郎”に会うのが怖いんでしょう。だから親切ぶって私に記憶を戻さないように仕向けたんだ。」
――言えなかった「好き」という言葉も
言えなかった。R奈みたいに、攫うようにキスをしたところで、きっと意味なんて生まれない。私の気持ちは伝わらない。
「・・・・・・」
けれど・・・。
「私は、・・・私、は・・・・・・」
・・・伝わらなくてもいい。
この恋が悲しい思い出になってもいい。
それでもせめて、後悔はしたくない。
移り気が、いつか私の想いを風化させてしまうのだとしても。
「私は貴方のことが好きなのに・・・。」
「・・・・・・京一郎・・・・・・」
千家が私の名を呼んだ。
幻聴だと思った。
・・・なぜ。
なぜ、呼ぶんだ、彼は。
私ではない私を求めていたのではなかったのか。
「お前には、敵わんな。今も、いつかも・・・」
柔らかな声が、小さく笑った。
「伊織さん・・・?」
千家は私を拘束する腕を緩め、そっと私の耳を塞ぐ。
「・・・何?」
紅い瞳は、ルビーのようにきらきらと輝きながら、優しく微笑んだ。
唇が動く。
彼が私でない誰かに語り掛けようとするのだと分かった。でも、そんなやり方では、私に聞こえてしまう。
「お前を、愛していた。」
熱くて、優しくて、甘い、その声は、私の心を温かな気持ちで満たす。同時に胸の中のどこかで、私の心を潰してしまいそうな悲しみがじりじりと燃えた。
私の中の私でない私は、そっと笑って言った。
「・・・私もです。」
ほっとしたように力を抜いて、両手で私の顔を包み込むと、千家はそっと唇に口付けた。
目を閉じると、また映画の場面のようにたくさんの映像が漂うのが感じられた。
遂に総ての記憶が私の中に戻るのだと思ったが、いつぞやは水底の奥から浮かび上がってくるように思えた記憶たちは、どこかへ吸い込まれるようにゆっくりと消えてゆく。
――夏の思い出が回る
――不意に消えた鼓動
待ってくれ。
私は腕を伸ばして記憶を掴もうとした。
まだ、ほんの僅かしか、知らない。
私は千家と共に過ごした記憶を取り戻して、彼と語らいたいのに。
彼の苦しみを、少しでも癒したいのに。
お願いだ、消えないでくれ。
何度も空を掴む私の手に、重ねるようにして黒い革手袋が触れた。
振り向くと、黒い服を着た男が長い髪を靡かせて佇んでいる。擦り切れてぼろぼろのマントの合間から見えるのは、威圧的な軍服だ。
初めて会ったはずなのに、その男の顔を、私は見飽きたようによく知っていると思った。
少し疲れたような様子の男は、しかし、まるで長い冬を耐え忍んだ蕾が綻ぶがごとく満面の笑みを浮かべて、私の肩をそっと叩くと、踵を返した。
男の左手の先には、しっかりとその手を握るもう一人の誰かがいて、その人のことも、私は知っているような気がした。
鏡に映ったようにそっくりな二人の後ろ姿は、並んでどこかへ去っていく。
彼らの向かう先は光り輝いていて、私が誰よりも知るはずの彼は、きっと、ようやく探していた誰かと共に歩いて行けるのだと、ぼんやり思った。
一歩、また一歩と足を踏み出すたび、彼らの周りの風景はどんどん眩しく白くなっていって、視界から消えてゆく。
完全にその姿が見えなくなる瞬間、少しだけ振り向いて、男が囁いた。
――私の伊織を見つけてくれてありがとう。
瞼をゆっくりと上げると、千家の美しい顔が視界に飛び込んできた。
千家もまた長い睫毛を持ち上げ、そして微笑んだ。
「京一郎。」
彼の唇から零れ落ちるそのことばが、まるで宝石のように思えて、私は千家にキスをした。
「・・・伊織さん」
千家は私の目を覗き込んで、そっと囁いた。
「お前が好きだ。」
くすぐったいような、照れ臭いような、じれったいような、どうしようもなく甘酸っぱい感覚に私は身悶えして、千家の首に抱きつく。
大声で叫びたいけれど、こんな夜に彼の家族を起こしてしまうわけにもいかないから、一生懸命声を抑えながら、言う。
「・・・好き。伊織さんが・・・・・・好きすぎて、どうしたらいいか分からない、くらい・・・」
「・・・お前という奴は。」
小さく笑って、千家はぎゅう、と私を抱きしめ返した。
「そういうときは、こうするものだ。」
そして私の両手に彼の両手を重ねて指を絡め、深く、口付けたのだった。