One more time, One more chance 3(拍手お礼より)



「!」
 まさかここで会うとは思っていなかった。だって後ろ姿にはあの長い髪が見えなかったし、さっき教室に生徒らしき女性たちがぞくぞくと入っていくのを見て、当然彼は教室に居るのだと思っていたから。
 不意の遭遇に、私は言葉を失って彼を見つめた。
「あぁ。また会いましたね。」
 彼はそんな私に、柔らかく微笑みかける。
「・・・はい。」
 私を覚えていてくれたことに、少し気持ちが高まる。
「大切なスマホは濡れませんでしたか。」
「あ、」
 言われて気づいた。カバンの中が水浸しなのだ。スマホにも浸水している可能性が高い。
 慌てて取り出し、電源ボタンを押す。
 着かない。
 何度かカチカチと押していると、やっと画面が明るくなった。
 まず音楽再生アプリを起動する。
 アコースティックギターのイントロがスピーカから漏れ出る。
 ほっとしながらサイレントモードに直した。
「大丈夫だったみたいです。」
 すると彼はまた淡く微笑んで、そうですか、と言った。
 嫌そうではなかったから、横に座ってみる。
「なかなか止みそうにないですね。」
 彼は黙って頷いた。
 それきり、会話が途切れてしまった。

 ゲリラ豪雨とは言い得て妙だ。雨があらゆるものを打ち据えて、まるで爆音を鳴らす。
 無言が沈黙とならないことが、少しだけ気を楽にした。
 そっと彼の横顔を見る。
 彼は信玄袋から文庫本を取り出したが、濡れて表紙がよれよれになっている。ページ同士も貼り付いてしまって、捲ったら破れてしまいそうだ。結局彼は読むのを諦めたらしく、しっとりした本をまた袋へ戻した。
 読書を試みたということは、私と同じく雨脚が弱まるまではここに居るつもりなのかもしれない。
 私の知る限り、まだ2回しか会ったことがないはずなのに、彼が本を持つ姿を私は懐かしいと感じた。
 やはり訊いてみよう。もし違っていたら、それはそれだ。いまならきっと、余興とまではゆかなくとも暇潰しくらいには思ってくれるだろう。
「・・・あの、」
 声をかけると、彼はゆっくりこちらを見た。
「変なことをお聞きするようですが、以前、どこかでお会いしたことがありましたか?」
 この間ぶつかったのよりも前のことです、と付け加えると、彼は困ったように微笑んだ。
「さて。仕事柄、そのように言われることは多いので、もしかしたら会ったことがあるのかもしれませんね。」
 私は少しがっかりした。やはり勘違いだったのだろうか。
 しかし、続けて彼の口にした言葉に、私は少し気を持ち直す。
「なぜそのように思われたか、訊いても?」
「・・・変に思わないでほしいのですが、聞いてもらえますか。」
「どうぞ。当分雨も止みそうにないことですし。」
 微笑んだ彼の顔があまりに美しいから、私は思わず目を逸らした。
 ちょっと空咳をしてから、私は、例の曲に己が異常な反応をしてしまうこと、それと同じくらい、彼に出会ったときに強い衝撃を感じたことを伝えた。
 彼はそれを、ただ黙って聞いていた。
「――だから、すごく漠然としていて、私も不思議には思うのですが、」
 そう言いながら、彼の顔を窺う。雨を見つめる瞳は井戸の底のように深く静かで、表情を読み取ることはできなかった。
「・・・なので、もしかして貴方と、例えば子供の頃に出会って、なにかこの歌詞に似たような話でも聞いたことがあるのかもしれない、なんて勝手に思っていたのですが・・・」
 彼は返事をしなかった。私の話に興味を失ってしまったのかもしれない。急に恥ずかしくなって、私も口を閉じた。
 暴力的ですらあった雨音はいつしか弱まり、遠くに聞こえる滝のような、心を静まらせるようなものに変わっていた。

「セカイセン、という考え方を、聞いたことがありますか。」
 長い沈黙の後、唐突に彼の口から出た言葉を私は正しく捉えられない。
「ワールドカップですか?」
「そうではなく、言ってみればSFの話です。パラレルワールド、と言った方が分かり易いかな。」
 そんな空想の話をする人だとは思わなかったから、私は少し驚きながら、聞いたことはありますと答えた。
「私には、いやに鮮明な、しかし身に覚えのない記憶がある。時期は明治から大正末期の頃の。」
「・・・それって、前世の記憶、ですか。」
「いや。その記憶は日本の政治・軍事にかかわることであって、史実に照らし合わせると異なっているから、厳密にいう前世とは少し違うと思う。」
 彼は無表情に答える。
「じゃあ、例えばおじいさまとかひいおじいさまのお話?」
「私の祖父も曾祖父も華道の家元で、身体もあまり丈夫ではなかったから、幸いと言うべきか、政治・軍事に関わることはおろか、徴兵すらされていません。」
 やはり彼は華道教室の千家で間違いないようだ。・・・あぁ、そうか、史実と違うのなら親戚とも関係はないのか。
「ええと・・・」
「説明が悪かったかな。その記憶というのは、私自身が軍人、つまり陸軍の上級将校で、戦争をするというものなんですよ。」
 となると、第一次~第二次世界大戦あたりだろうか。
 戦争を知らない世代の私は、あまりに突飛もない話に、うっかり少し笑ってしまった。真面目に話す彼に対して失礼だと気付いて慌てて顔を真顔に戻すが、そんな私を見た彼も釣られて笑った。
「おかしいでしょう。だが、もっとおかしいのが、その戦争のやり方なのです。」
 私は彼の話に惹きこまれた。柔らかく穏やかな声音は、やはりどこか懐かしく、聞いていて胸が締め付けられるような気になる。
「私はね、それなりに指揮権を持つ立場に居るのだが、兵力として幽霊を使うことを発案するんだ。」
「幽霊?」
 あまりに馬鹿げた話に、それこそ笑うところなのかもしれない。しかしなぜだか私は、全然笑えなかった。
「そう。そして、それを実現させるために、一人の青年を犠牲にした。」
「犠牲・・・殺した・・・んですか。」
 彼は、ゆっくりと首を振った。
「いや。殺しはしない。ただ、巻き込んだ。国を護るために、どうしても彼の力が必要だったから。」
「・・・そして?」
 完全にファンタジーだが、彼が言うとなぜか現実味を帯びるように思えて、続きが気になる。その青年と彼は、幽霊の兵隊を連れて外国と戦ったのだろうか。
 しかし、彼は紅い瞳に憂いを乗せて、ただこう言った。
「それだけです。」
「え?」
「そういう記憶。夢や空想ではないと思う。何故なら私はそれを思い出すと、必ず後悔に苛まれるから。」
――後悔と哀しみに苛まれるけれど。
 初めて会ったとき、あの曲について彼はそう言った。あれは、その記憶のことだったのだ。
「その青年を巻き込んだことを、悔いているんですね。」
 そう訊くと、彼は曖昧に微笑んだ。
「記憶の中の感情は、一切後悔していない。悔いのない人生を送ったと思っているらしい。だが現実の私は、そうは思わない。」
 回りくどい言い方に、いまいち理解が追いつかない。
「つまり・・・?」
 私は彼の顔を覗き込む。こうやって彼の顔を窺うことにすら、既視感がある。私はかつて、彼をこうして見つめられるほど近い距離に居たことがあった・・・?
「あぁ、上がったようだ。」
 彼は私の問いには応えず立ち上がる。いつの間にか、雨は止んでいた。
「それでは。」
 そして、私の顔も見ずに行ってしまう。
 待ってほしい。彼の話は肝心なところが抜けている。記憶と現実の感情を照らし合わせて、彼はいったい何を後悔しているのか。
 そして私の話についても、せめて感想だけも聞かせてほしい。核心に触れる回答が得られなくてもいいから。
「待ってくだ――わっ!」
 慌てて立ち上がり、濡れた石床を走ろうとした私はバランスを崩して転びそうになった。
 咄嗟に彼の差し出した左手を握る――。

* * * * *

 私は不思議な風景の中に居た。

 ぼんやりと映るその景色は暗く、恐らく夜、屋外に居るようだ。
 星の散る空を見上げている。
 が、視界を塞ぐように、一人の青年の顔が見える。
――しっかり・・・今、助けます、から・・・!
――っ・・・何処か・・・足場を・・・っ!
 ぶらりと垂れ下がる足元を見る。しかし、切り立った崖には、足をかける場所などない。
 青年は、泣きそうな顔をしながら、必死に掴んだ腕を引っ張ろうとする。どうやら彼が引く腕は、私のもののようだ。状況から察するに、崖から落ちかけている私を、引き上げようとしているのだろう。
――待って・・・今、助ける・・・。じっとしていて下さ・・・っあ!
 彼は悲鳴を上げた。私の腕を掴む彼の力が、少しずつ弱まっているのが分かる。重さに耐えきれないのだ。
――掴んで、伊織・・・もっと、強く・・・!
――京一郎。
 私は囁く。
――強く・・・離しちゃ、駄目だ・・・!!
――京一郎。
 私の声に、彼は気を緩めまいと眉間にしわを寄せて、必死の形相で見つめ返す。
 最期に呼ぶ名がお前でよかった、と私は思う。
――京一郎。
 そして、やはり掴むものもなく垂れ下がっていた右腕で、腰の剣を抜く。
 青年の顔が青褪める。
 私は思う。
 どうか、そんな顔をしないでほしい。
 何故なら、私は後悔していないから。
 どうか。
――・・・厭だ・・・伊織・・・
 私は刀を振り払う。
 黒いマントが翻る向こうに、彼が見えた。
 泣かないで。
 私は満足しているから。
 大声で私を呼ぶ彼の顔と、空の星との見分けがつかなくなる。
 どうか――――――

* * * * *

 はっと目を開ける。
 私は夜の崖ではなく、夕焼けに照らされた雨上がりの公園に、立ち尽くしていた。
 一緒に雨宿りしていた彼が側に居る。居たたまれないような、まるで泣きそうな顔をして、私を見ている。
 私はというと、あの曲を聴いたときのように、ぼろぼろと泣いていた。
 彼の左腕を、強く握ったまま――。

  

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