One more time, One more chance 4(拍手お礼より)



 とっくに成人したというのに人前で泣きじゃくるなど、みっともないにもほどがある。
 慌てて涙を拭い、私はなんとか笑顔で取り繕ろおうとした。
「・・・はは。すみません、なんか。」
 彼は無言で私を見つめている。
「あの、なんだろう、誰かを助けられない夢を見ました。」
 立ったまま寝るか普通、と思いません?おかしいですよね。もう、なんだろ、いやだなぁ。
 照れ隠しにまた笑う。
 しかし、彼は不審そうに言った。
「・・・君は寝てなどいなかったぞ。」
 ではあの景色は一瞬のことだったというのか。いや、そんなはずはない。
「あれは・・・・・・記憶?」
 あの光景を頭の中に反芻する。
 助けられない夢と言っては見たものの、あの場面では、こちらが助けられる側だった。そして私は私を助けようとする青年を、京一郎と呼んだ。
 だが。
「京一郎は・・・私の名だ・・・。」
 泣きそうな顔で必死に私を引き上げようとしていたのは、間違いない、私だった。あの景色の中ではそれがごく当たり前に感じられて何も疑問に思わなかったが。
 ではいったいあれは誰の記憶なのか。思い出そうとすればするほど、訳がわからない。
 しかし、身に覚えのない記憶ではない。あの光景を、あの物語を、私は知っている。ならば私が助けようとしていたのは、いったい誰だったのか。
 目の前に表情なく佇む男を見る。触れることで記憶が共有されるなんてそれこそファンタジーだが、実際彼に触れて私はあの光景を目にしたのだ。 なにも関係がないということはないはず。
「・・・ねぇ、貴方は知っているんですか。」
 そもそも私は初めて会ったときから彼に何かを感じていた。
 それが今回既視感に変わった。そして、あの曲に共鳴する漠然と心の中にある感覚――それは限りなく痛みに近いものだ――を生み出す一端であろうと思われる記憶が浮き上がってきた。
「崖から落ちそうになっている人を、私は助けようとしていたんです。でもその人は、私が一緒に落ちてしまわないように、・・・腕、を、・・・自ら、斬って・・・」
 口にするだけで、また嗚咽が漏れそうになる。なぜこんなに切ないのだろう。私と崖にいた人はどういう関係だったのだろう。
 そして、目の前に立つ彼を見るとなぜ、こうも胸が苦しくなるのだろうか。
「さて。」
 しかし彼は冷ややかに瞳を細め、氷のような声で言う。
「なんのことやら、私には与り知らぬ話だ。」
 私の手を握る指を解こうとする。私はそれを強く握り返した。
 彼は小さく溜息を吐く。
 手の甲は冷やりとしているけれど、手のひらは温かい。この感触に、また胸の奥が疼く。
 誰かと手を繋ぐなんて、多分幼稚園以来のはずだ。朧げな記憶を辿っても、同級生や家族の手とは異なる。
 当然だ。会ってまだ間もないのだから。
 けれど・・・。
――・・・本当に、私は彼を知らないのか・・・?
「・・・伊織・・・」
 あの崖で呼んだ名を呟いてみる。また胸が苦しくなる。喉が塞がる。
 私はこの名を知っている。
 かつて私は幾度となく繰り返し、口にした。
 唇は感情を呼び醒ます。
 私はこの名を、悲しみと愛しさを込めて呼んだのだ。既に喪われた温もりを求めて。何度も、何度も。
「伊織。」
 私が掴んだままの左手が、一瞬動いたように感じて、彼を見た。
 息を呑んだ、そういう顔をしていた。見間違えではない。絶対そうだ。
 けれど一瞬だけ垣間見えたその表情を彼はすぐに消すと、私の手を右手で解いた。
「外出の際は折畳み傘を携帯すべきだな。」
 そして背を向けて足早に行ってしまう。
 そんなの、違う。
 貴方も絶対知っているんだ、私のこと。
 私たちがすべきは、天気の話なんかじゃないはずだ。
「待って!」
 彼を追いかける。
 腕を掴んでこちらを向かせる。
「まだ何か。」
 彼はうんざりしたように返した。
 冷たい態度には少し傷つくけれど、こちらには確信がある。恐れることなどない。私は腹を括って訊いた。
「貴方は、私を知っているんでしょう?」
「知らない。」
 素気無い回答。けれど、きっとそんなはずはない。彼は何かを隠している。
「嘘だ。」
「何を根拠に?」
「それは・・・」
「人違いだろう。迷惑だ。」
 彼の紅い瞳はだんだんと青みを帯びてくる。この目だって、憶えがある。私はやはりよく知っているのだ、この人を。
「いいえ、私は貴方に会ったことがある。」
「どこで。」
「う・・・」
「話にならん。」
「でも!」
「さぁ、帰ってくれ。近所で揉めるのは勘弁願いたい。」
「お願いです、私は貴方のことを知りたい。」
「私は知られたくない。」
「なぜ?」
 彼は深く溜め息をついた。
「見ず知らずの人間にここまで絡まれるとは、今日はとんだ厄日だな。」
 嫌味を込めて言われ、私は思わず口走った。
「あぁ、もう!だから私は貴方のことが・・・」
 そしてそれに続く言葉に戸惑って、口を噤んだ。
――いったい私はいま、何と言おうとした・・・?
「・・・・・・」
 "気になるんです"?
 あるいは、"知りたいんです"?
 それとも、――
「ぁ、いや・・・」
「・・・・・・」
 彼は黙って私を見つめる。
 それ以上の言葉を己の中にまだ見つけられない私は、破れかぶれに訊いた。
「貴方は、・・・その、伊織・・・さん、ですか・・・?」
 細い目をさらに不機嫌に細めた彼は、しかし隠し通すことに意味を見出すのをやめたのか、低く答えた。
「・・・いかにも、私の名は伊織だが。」
 当たった。先ほど私が見た光景は、きっと彼の記憶なのだ。ならば、彼が呼んだ名を憶えていないはずがない。
「私は京一郎です!」
 彼は反応しなかった。
 いや、厳密には、何か小さく言った。しかし息を吐くより微かな呟きで、私の耳にまでは届かなかった。「・・・ている」と聞こえたようだったが・・・。
「いま、何て?」
 聞き返すと、また深く溜息をついて、千家伊織は腕を組んだ。
「それで。」
「だからあの、・・・さっきの話、貴方も知っているんでしょう?」
 また白を切られるかもしれないので、彼が口を開ける前に私は続ける。
「崖で私が助けようとしていたのは、貴方ですね?」
 彼は答えなかった。しかし、無言が、彼にその記憶があることを証していた。
 私は辛抱強く、彼の次の言葉を待った。
 西日に照らされて、雨上がりの地面からもわっとした空気が立ち込める。私は漠然と、この人と夏を過ごしたことは無かったのだ、と思う。
「・・・だとして、それが何だというのだ。」
 千家は低く呟いた。
「え・・・」
「お前が私を助けようとした。私は腕を斬って海に落ち、死んだ。だから?それが今ここに居る私たちにどう関係がある?恨言でも言いたいのか?」
「そういうわけでは・・・」
 確かに不明な点の多すぎるこのイメージを持ち出して、どうこう言うのはやはりおかしいのかもしれない。そもそも、私たちがこの実際に経験している記憶ではない。もし、彼が先ほど言った幽霊を使った戦争の話とつながっているのだとすれば、私たちが生きている世界で起こった話ですらない。前世とも違う。
 だが、私は確信しているのだ。これが単なる偶然の一致ではないことを。
 前世でなければ、何なのか。なぜ、同じ記憶を共有して、あたかも事実であるように私たちは心を痛めているのか。
 私は知りたい。そして、できることなら、この人と語り合いたい。長年誰にも分かってもらえなかったこの苦しみを分かち合いたい。
 私は一縷の望みを持って、千家を見つめた。
 しかし、彼は切なげに瞳を伏せると、早口で言った。
「お前は感じ過ぎる質なのだ。余計なことを思い出さず、今を生きればいい。」
「え・・・それはどういう・・・」
「話すことは何もない、ということだ。ではな。」
 そんなはずはない。
 なぜなら、貴方は後悔していると言ったんだ。だから、今も記憶に囚われている。私と同じように。
 ならば私は、何を後悔している?
 私は、いままためぐり逢えた彼に、何を期待しているのだろうか。
「また、会いに行きます、・・・伊織さん!」
 私は千家の背に向かって叫んだ。
 千家は、振り向かなかった。

  

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