One more time, One more chance 5(拍手お礼より)



 R奈に呼び出された。
 場所は、デートの予行演習でTに付き合わされた、あの喫茶店だ。
「テスト勉強してる?」
「まぁ、ぼちぼちかな。」
「そっか。あ、柊、社会学原論取ってるよね、5月に休んじゃったからその分のノート借りたいんだけど、いいかな?」
 それが呼び出しの理由か。別に学食でもラウンジでも良かったのに。よほどこの店が気に入ったのだろうか。そうであれば、Tとわざわざ下見に来た甲斐もあったというものだ。
「いいよ。明日、昼に学食で渡す。」
「ありがと。コピー取ったらすぐ返すから。」
 R奈は嬉しそうに笑った。
 Tとお似合いだと思う。そういえば、彼は告白したのだろうか。少し気になって、探りを入れてみることにした。
「この間、Tとここ来たんでしょ?」
「え・・・」
 彼女は急にぎくりとした顔になった。この質問はまずかっただろうか。
「何で知ってんの。」
「あ、や、Tがそんなこと言ってたから・・・」
「何か聞いた?」
「いや、R奈ちゃんと昼食べた、とかそういう・・・」
「そっか」
 R奈は少し憂鬱そうな顔で、カップの紅茶をかきまぜる。Tと何かあったのだろうか。
「何かあった?」
「うーん・・・」
「私でよければ聞くけど。」
 彼女は上目遣いでこちらを見上げる。
「あのさ、柊はさ、彼女とかいないんだよね?」
「・・・まぁ。恋人ならいないよ。」
 私の答えにR奈は少しほっとした顔をする。そんな、ほっとされても。
「彼女いない歴長い私では、頼りないのかなぁ。」
「そんなこと言ってないよ。柊はいつだって優しいし、真摯だし、すごく頼りにしてる。」
「それは、・・・ありがとう。」
 そんな風に評価されていたとは知らなかった。サークルの中でも、まぁまぁ話す方ではあったけれど。
 R奈は紅茶を一口飲むと、カップを見つめる。
「Tが、何か言ったの?」
「・・・告られた。」
 やったじゃないか、T。しかし、R奈の様子はやはり憂鬱なままだ。
「・・・返事、した?」
「まだ。」
「迷ってるの?」
「・・・迷ってるっていうか・・・」
 R奈はどんどん俯いてしまう。
「うん。」
「Tのことは好きだよ、普通に。友達として。」
 ああ、そういうことか。
「付き合ったら、うまくいくと思う。・・・きっとね。気、合うし。」
「うん。」
「でも、私が好きなのは、――」
 Tよ、同情する。しかしこればかりはどうしようもないな。
「柊、だから・・・」
 頬を染めてこちらを見つめる彼女の瞳が熱く揺れる。
 あまりにも予想とかけ離れた言葉に、私は反応が遅れた。
「・・・・・・え・・・っ」
「・・・ほらね。私のことなんて、何とも思ってないでしょ。知ってたからさ。」
 R奈は泣きそうな顔で笑う。
 私は本当に驚いてしまって、彼女にかける言葉を見つけられない。
「柊は・・・好きな人、いるの?それだけ教えて。」
・・・好きな人?そんな、これまで一度も考えたことがない、が――。
「好きか嫌いか、って言ったらね、Tは好き。柊が私を想ってないのは知ってるから、やな言い方だけど、だからTと付き合うのはありかな、とも思った。だけど・・・」
 彼女の声が震える。
「でも、自分を偽って付き合うのは、・・・違うから・・・――」
 私は、何も言えない。
 その好意を向ける相手が、Tだったら、すべてうまくいったのに。
 或いは私が、R奈に恋していたなら、少しはましだったかもしれないのに。
 R奈はTのことが嫌いではないが、私のことが好きだから付き合えない。
 私はR奈のことが嫌いではないが、やはり彼女とは付き合えない。
 なぜ?
 好きか嫌いかと言ったら、R奈は好きだ。友人として好ましく思っているし、正直、告白されたこと自体は素直に嬉しい。
 だけど。
・・・いま、どうしようもなく私の心を占めている人がいるから。
 彼が好きか嫌いかと言ったら、きっと、好きだ。
 では、なぜ好きなのか。出会って間もない彼に、なぜこうまで惹かれるのか。
「柊。これからでもいいから、・・・私のこと、好きに、なってくれませんか。」
 R奈は目をきつく閉じて、テーブル越しに右手を差し出した。ぱっと開かれた掌が、少しだけ震えている。
 こういうところが、Tも私も好きなのだ。
 しかし彼女が私の中に求める場所に、彼女は、いない。
 私は彼女をできるだけ傷付けずにそれを伝える方法はないかと考えたが、やはりうまい言葉は浮かばなかった。
「・・・ごめんなさい。」
 宙に浮いた手は力なく降りて、カップに触れる。
「・・・・・・だよね。」
 小さく呟いて、彼女は紅茶をすする。すでにほとんど空になっていたカップは、ずずず、と音を立てた。
「・・・いいんだ。他の人を想ってるなら、無理して付き合ってもらっても、きっとうまくいかないし。」
「・・・R奈ちゃんのことは、大切な友達だと思ってる。」
「そういうのが、こういうとき一番ムカツク。」
 R奈は私の頭にチョップをお見舞いして、伝票を持ってレジへ向かった。戸惑いながら、私も後を追う。
 会計を済ませ、店を出て、無言で歩く。彼女が前を、私が後ろを。
 少し行ったところで、R奈は立ち止まった。
 緩い坂道の住宅街。狭い歩道。雨上がりの街路樹の草いきれ。振り返る彼女のポニーテールが揺れる。
「・・・ムカツクから、意地悪、するね。」
「え?」
 私の肩に両手を遠慮がちに置き、つま先立ちをした彼女は上を向いて、思わず引いた私の下顎に、キスをした。
「・・・っ背が足りなかった、失敗だ!」
 真っ赤に頬を染めて私を睨んだその顔は、でもやっぱり恋する切なさと幸せが綯い交ぜになっていて。
「柊が、好き。」
 囁いた熱っぽい声は、彼女を受け入れるつもりがなくとも、私をどきりとさせた。
 そして、走って行ってしまう。
 私は小さくなってゆく彼女の後ろ姿をぼんやり眺めながら、そういえばこれまで、誰かに好きだと言ったことがあっただろうかと思う。
 イヤホンを耳に着ける。

――寂しさ紛らすだけなら 誰でもいいはずなのに
――星が落ちそうな夜だから 自分をいつわれない

 R奈を振った後にこの曲を聴くのは、少し気が引ける。
 初めて会った時、己の経験に重ね合わせて聞く人が多いから、この曲は長く愛されているのだろうと彼は言った。
 そうかもしれない。・・・きっと、そうなのだろう。この曲の歌詞は、私の記憶そのものを示しているわけではない。誰もがどこかで感じたことのある気持ちを、絶妙に表現しているだけだ。
 けれどこの曲がきっかけで、私は大切なことを思い出そうとしている。私は、彼に会わなければならない。

 ふと視線を感じて車道の向こう側に目を遣ると、千家伊織がこちらを見ていた。優しく、穏やかな微笑みを湛えて。
――彼女にキスされたところを、見られた?
「伊織さん!」
 そうだ、ここは彼の家の近くだった。
 R奈の要件がこんなことだと知っていたら、ここには来なかった。
 私は急いで彼を追う。
 彼はまた、いつものように行ってしまう。
「伊織さん、待って!」
 ここは緩やかな坂になっていて、走ると意外に体力を消費する。
 そして千家の足は、和服を着ているというのに慣れているせいかとても速い。
「待って、ください、ってば・・・!」
 やっと追いついたときには、またあの公園の前まで来てしまっていた。
「・・・今度は何の用だ。」
「ちょ、まって・・・水・・・」
 公園の水飲み場の蛇口を思い切りひねるが、ぬるい水が水圧も弱くちょろちょろと出てくるだけだ。これでは口をつけてすするしかない。少しためらっていると、自販機の前から千家が声をかけてきた。
「ほら。何がいい。」
「あ、・・・じゃあ、水を。」
 がこん、と落ちたペットボトルを拾って私に渡すと、彼も同じものを買った。
「100円、で足ります?」
 彼の横のベンチに座って硬貨を渡そうとすると、この程度学生から取れん、と言われた。
 私が学生だと知っているんですね、と聞いたら、無視された。
 公園の湿った土が、夕陽に赤い。
「・・・いつ、私に気づいたんです?」
「まるで私がお前のことを常に監視しているような言い草だな。」
「それほど己惚れちゃいません、けど、・・・見たんでしょう?」
「ポニーテールの女の子がお前にキスするところを?」
 やっぱり見られていた。
 Tに見られるのもまずいが、千家にはもっと見られたくなかった。
「誤解です!」
「何が。」
「だから、私はあの子となんでもありませんから!」
「ふぅん・・・しかし、」
 千家はくすりと笑った。
「なぜ、それを私に?」
 私は少し傷つく。
「・・・・・・え。」
「そんなにむきになって。わざわざそれを言うために、私を追いかけてきたのか。」
 そうだ。その通りだ。
「年頃のお前が年頃の女と付き合って、何の問題がある。私がとやかく言うとでも?」
 おかしな奴だな、と言って、また千家は小さく笑った。
 私は、胸がちくりと痛むのを感じる。R奈も、私と話していていつもこんな感じだったのだろうか。
「お前の言いたいことは何だ。こうまで袖触れ合うも多生の縁。聞いてやってもいい。」
 彼はペットボトルを開けて水を飲んだ。白い喉がごくりと音を立てる。
 私は息を飲んでそれを見つめる。
 千家は私を見て、目を細めた。

 今日の千家はなんだかいつもと違う。すごく優しい・・・というか、余裕がある、というか。
 でも、なにか変だ。どこか、安心しているような、なにか、諦めているような・・・。
「私は、貴方と私の記憶について話したい。」
 私が言うと、千家はやはり表情を消して冷たく言った。
「それは断る。」
「なんでですか。」
「この間言ったはずだ。」
「記憶は余計なものですか。」
「あぁ、そうだ。」
 そうなのかもしれない。私たちが実際に体験したものではない、私たちだけれど私たちでない誰かの記憶は、不必要に私たちを苦しめる。
 だけど。
「だけど、・・・・・・私は貴方に会えた。」
 私は彼を見つめる。
 彼は冷たく目を細める。
「私は会いたくなかった。」
 彼の選ぶ言葉は逐一私を拒絶して、その都度心をぐさりと刺す。
 しかし私は考える。
 彼はそういう人間だったかと。
 記憶は穴だらけで不完全だから、彼について私の知っていることは現在の状況を含めてほんの僅かしかない。
 けれど、もっと巧みな人間だったと思うのだ。私を本当に遠ざけたいのであれば、彼ならもっとスマートに、例えば私が自ら離れていくように仕向けるはずなのだ。
 とするならば、彼のその言葉は。
 彼の真に意図するところは。

 私は千家を飽かず見つめる。
 流れるような絹の黒髪、白磁のような膚、細くきめ細かな指、長い睫毛、魅惑の紅い瞳。
 私はずっとずっと、心の中で求めていた気がする。居ないとわかっていても、彼を構成するそのひとつひとつを。
 彼と居ると、心が乱れる。
 胸が熱く、焼けるような衝動に駆られる。
 誰かが言う。
――早く。
――私の伊織を。
 私の中で、誰かが優しく囁く。
――つかまえて。

「もう、意地悪はやめにしてください。」
 私はふ、と微笑むと、千家の左手に右手を重ねて、彼の胸に左手を置く。
――さあ。
「ずっと、会いたかったよ、伊織。」
 そして彼の唇に、唇を重ねた――。

  

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