澄んで、青く。花薫る。  12



* * * * *

「え・・・?」
「違った?」
 乙若は、動揺する京一郎を落ち着いた瞳で見つめ返す。
「だって、千家先輩は女の子じゃないし。」
「うん。別に好きな人が、って言ったわけじゃないよ。柊くんがいま一番情報を欲してる相手は、彼なんじゃないかな、と思っただけ。」
 腑に落ちない。今日まで"あのこと"を含め、千家のことも話したことはほとんど無かったはずなのに。なぜそうなるのか。
「そんなに千家先輩の話とかしたかなぁ」
「いや。俺なりの観察と分析の結果、そう予想しただけだよ。精度のほどは改善中。だけど、」
 乙若はくすりと笑ってこう付け足した。
「そんな真っ赤な顔されると満更でもないのかな、なんてね。」

* * * * *

 帰り道、京一郎は乙若の指摘を思い返していた。
(いま一番気になっているのは、千家先輩・・・?)
 改めて考えると、確かにそうかも知れないという気になってくる。
 二度もからかわれて、もう会いたくないとも思うが、反面、また会ってみたいという気もする。それどころか、これまで意識していなかったが、また会えるだろうという確信めいた期待すらあった。
 館林や生徒会役員の面々には、欠片も感じないのに。

(僕は、千家先輩が気になっている。)
 無性に、会いたくなってきた。
 どうしたらいいだろう?乙若に聞けば、クラスを知っているかもしれない。しかし、指摘されてすぐに認めるのも何だか悔しい。
 そうだ、図書館の隠れ処にいるかもしれない。どのくらいの頻度か知らないが、彼はあそこによく行くと言っていた。
(昼に、行ってみよう。)
 また、千家のペースに乱されるかもしれない。けれど、今度は惑わされない。彼のことをもっと知ろう。そして彼の怪我に纏わる真相に近づくヒントを。

 昼休み、京一郎は例の"隠れ処"へ向かった。
 今日は前回のような陽気ではなく、空を厚く雲が覆っている。外でゆっくり食事をしていたら、身体が冷えてしまいそうだ。
(先輩、いるかな・・・)
 図書館脇の林の小道を降り、低木の茂みを掻き分け、覗きこんだ。

「千家、先輩・・・」
 心臓を、乱暴に捕まれたような気がした。
 果たしてそこに横たわっていたのは、京一郎の探し人。長い髪を散らし、眠り姫よろしく無防備な姿を晒すその口元にはしかし血が滲み、頬にはガーゼが貼り付けてある。
 きっとまた、"あのこと"があったのだ。顔以外にも、怪我を負っているのだろう。
「千家せんぱい・・・」
 声が震えた。消えるような呼びかけには気付かず、千家は規則正しい寝息を立てている。
 痛々しい怪我と不釣り合いなほどに艶やかな黒髪を、そっと撫でる。一緒に触れてしまった頬は、氷のように冷たい。
 京一郎は上着を脱いで、千家の身体にかけた。

 シャツ一枚になると、屋外はことさら冷える。千家の横に腰掛けた京一郎は、自分の肩を抱きしめた。

 怪我の様子からして、暴行を受けたのは今し方というわけではなさそうだ。
 なぜこんな状態でも、この人は休まずに学校に来ているのだろう。

 こんなことが、頻繁に行われているのだろうか。今回は、千家は抵抗したのだろうか。生徒会は、また見殺しにしたのだろうか。
 そう言えば、生徒会と千家を初めて見たとき、館林は「あと2発まで」などと言っていた気がする。
 あと2発、千家に暴行を加えていい、という意味だったのだろうか。
(・・・そんなこと、許されるわけがない!)
 肩を掴む手に力が籠もる。

「・・・震えているぞ。」
 聞き慣れた、寝起きの声。
「ここは、冷えるんです。」
「なら何故、上着を着てい――!」
 起き上がりながら、身体の上から自分のものではないブレザーが落ちるのに気付き、千家は目を見開く。
「君・・・いつから?」
 落ちた上着を拾い上げ、京一郎は微笑んだ。
「いま、来たばかりです。」

* * * * *

 京一郎は今、帝学からさほど遠くない場所にある豪邸の一室にいる。その昔、華族の邸宅として建てられたというこの館は、全面的にリノベーションされており、外観のデザイン以外には古めかしさを感じない。
 あの後すぐ、昼休みが終わって教室へ戻ったが、放課後、千家が京一郎の教室に現れて今に至る。
 30代後半かと思われるスーツ姿の男性が、暖かい紅茶とケーキを運んでくれた。

「それで?」
 男性が一礼して去ると、向かいに腰掛けていたこの部屋の主は、不機嫌そうに京一郎のいるソファへ座り直した。微かに肩が触れる。
「君は何故、あそこに?」
「千家先輩に会えるかと思って。」
 ちら、と横目で京一郎を一瞥すると、千家は無言で紅茶を啜った。傷だらけの顔でも優雅さを失わないその所作は、正に貴族そのもの。
 京一郎も、恥をかかないよう細心の注意を払いながら、彼に倣う。
「・・・ふっ」
「・・・なんですか。」
「そんなに緊張して。ここは応接室ではない。私の部屋なのだから、図書館脇の林にいる時と同じように寛いでもらっていいのだよ、柊くん。」
 千家は身体を京一郎に向けて、低い背もたれに片肘を乗せ、その腕に頭を凭れ掛けてみせる。意外と気遣いの人だ。
「先輩、あの、お願いがあるんですけど・・・」
「私に会うために風邪を引くリスクを負った後輩の願いなら、聞かねばなるまいな。なんだ。」
「僕のことは、京一郎と呼んでください。それで・・・」
 一旦言葉を切った。やはり、時雨のように軽く言いだすのは難しい。
「あの、千家先輩のこと・・・、下の名前で、呼んでもいいですか?」
「・・・構わないが、そうしたい理由でも?」
 首をかしげる千家。やましいことはない。でも、緊張して顔が熱い。
「先輩と、もっと近くなりたいから・・・。早く打ち解けるには、畏まらない方がいいと聞いたので。」
「私に近づく目的は?」
「・・・分かりません。でも、もう、こんな怪我しないでほしいです。僕は結局何一つ知らないままだけど、でも、先輩が傷付くのは、嫌なんです。」
 拒絶されるかもしれないと思った。でも、ルビーのような瞳を正面から見据えて、言った。ここまで来たのは、これを伝えるためだから。
「・・・ふぅん」
 千家は紅い目を細めて京一郎を見詰め返す。
「君は、優しいのだな。」
「・・・え?」
「誰かが傷つくのを、見過ごせない。きっと、あの現場に居たのが私でなくても、今のように言ったのだろう。」
「それは、・・・そうかもしれません。」
「であれば、」
 優雅にカップを口に運ぶ。
「私でなくてよかろう。きっと、君に寄り添って欲しい生徒は他にもたくさんいる。そちらに手を差し伸べたらいい。」
「先輩!」
 やはり、拒まれた。でも、もう、はぐらかされない。諦めない。
「嫌です。」
「何を・・・」
「僕は、先輩が何かのトラブルに巻き込まれていることを知っている。館林副会長は、先輩のこと心配してるみたいだけど、なんか変だ。生徒会だし。・・・僕が力になれるかは、自信がありません。でも、いま僕は、先輩に寄り添っていたいんです。」
 京一郎の勢いに、千家は口を噤む。
「”伊織”先輩!」

 駄目押しの呼びかけに溜息をつき、目を閉じて何か考えていた千家は、再びその紅い瞳を見せると、不敵に微笑んだ。
「いいだろう、”京一郎”。そこまで言うのであれば、そこまで熱く一途に私を想ってくれているのならば、その覚悟を見せてくれ。」
 勢いづいていた京一郎は、”覚悟”という言葉に一瞬怯む。何を要求されるのだろう。
 その表情を見て、千家は意地悪な笑みを深くする。
「その想いに濁りないことを誓い、口付けを。」
 白く滑らかな指を京一郎へ向けて差し出す。
 細く長く、彫刻のように美しい手。
(そんな・・・)
 中世の騎士よろしく、恭しく唇を捧げろと言うのか。しかも、男性に。
 千家の表情は優雅な微笑を形作っているが、その目は「どうせできまい」と言っている。

 このキスの先には、入学以来隠されてきた学園の秘密がある。生徒会も、当事者である千家自身も口を割らなかった何かが。
 どうせ、たかが一学校の隠し事だ。蓋を開けてみれば大したことではないかもしれない。
 しかしもしかしたら、触れてしまったら引き返せない、パンドラの箱なのかもしれない。
 京一郎の正義の下、最も憎むべき相手は、或いは千家自身だという可能性もあり得る。
――今の1日1日を大切に過ごさないと、きっと大人になってから後悔しますよ――
 双子の兄の言葉が耳にこだまする。
 今日ここで千家に背を向けて帰ったら、真相を知ることはなく、平穏な高校生活を送りやがて卒業することになるだろう。そして大人になりたまに思い返して、そういえばあの時よく怪我をしていた先輩はどうしているだろう、などと懐かしがるのだ。・・・関わることを厭い、暴行を受ける生徒を見殺しにしたくせに。
(そんなの、嫌だ!)
 親元を離れた先で、こんなことになるとは思っていなかったし、これまでの人生に明確な目的や信念があったわけでもない。
 しかし、正しくないと思うことを見て見ぬ振りはできない。手を差し伸べることができる人が目の前に居るなら、差し出すことを迷いたくない。
 覚悟を見せろというなら、いいだろう見せてやる。

「さあ、”京一郎”。 ・・・どうした。怖気づいたか」
(余裕の笑みの奥にある貴方の感情だって、受け止めてみせよう。)
「・・・わかりました。」
 京一郎は立ちあがり、自分のそれより少し長い指先を左の手に取った。冷たいだろうと想像した手指は、思ったより温かい。殴れば痣ができ、切れば血が流れる、人の肌。
 そのまま右手を伸ばし、ガーゼで覆われた左頬に掌を沿わせる。

 どうか、ぎこちなくなりませんように。
 この人に、緊張していると、意地を張って背伸びしていると、思われませんように。

 京一郎は、千家伊織の唇に、己のそれを重ねた。
  京サマったら積極的ィ!(違)

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