澄んで、青く。花薫る。 13
触れたとき、微かに唇が震えた。
それ以外に抵抗らしいことはせず、千家はただ目を見開いて、京一郎の為すがままになっていた。
どうしたらいいか分からなかったので、息は止めていた。
触れていたのは恐らく、2秒とかそのくらいだったのだと思う。唇を離してから、京一郎は空気を揺らさないようにそっと息を吸い込む。
25Mプールを息継ぎなしで泳ぎ切った後のように、肺に染み込んでくる空気が心臓の動きを少しずつ正常に戻してゆく。
「・・・顔が、赤い。」
千家がぼんやりと呟く。
(・・・先輩だって、ちょっと赤い。)
「・・・流石に・・・、唇を奪われるとは思わなかった。」
その言葉に、京一郎は少しだけ優越感を覚える。
「伊織先輩が期待する以上の、覚悟を見せたかったので。」
千家は僅かに眉を顰める。
「京一郎、お前は男が好きなのか?」
「ちーがーいーまーすー」
すぐそういうことを言う。なんなんだこの人は。人の必死の覚悟をそんな簡単に分類しないで欲しい。
「ふぅん・・・ ならばこんな形でファーストキスを奪われてしまった私は、一体どうしたらいいのだろうな。」
はぁ、と溜息を吐きながら、憂い顔で前髪を指先で梳く千家。京一郎は愕然として叫ぶ。
「え?!・・・先輩、あんなに煽っておきながら、キス、したことないんですか?」
「・・・生憎、な。」
じろりとこちらを見やり、ぷい、とそっぽを向く。そんな千家のことが急に愛おしくてたまらなくなって、京一郎は顔がにやけるのを必死で堪えた。
「それより、初心に見えて、お前の方がこの手のことに経験ありとは、益々世の中信じられなくなる」
「僕だって初めてですっ!!」
「ふぅん・・・」
しばし、沈黙。
「・・・ふっ」
「・・・ははっ」
どちらからともなく、吹き出した。
年頃の男子が、互いにそういう趣味もないのに初めての口付けを失い、詰り合う。これが滑稽でなくて、何だというのだ。
「あ!でも伊織先輩・・・、本当にファーストキスなんですか?」
京一郎が疑いを露わに再度問うと、千家は憮然とする。
「何故?」
「だって先輩、この間だって、耳、噛んできたし・・・」
思い出したら、少し腹が立ってきた。
「この間・・・?」
「覚えてないんですか?先輩が体育で倒れて、その後お昼に隠れ処でサンドウィッチご馳走になった時のこと」
「気付いたら、お前がいなくなっていた。」
千家もさらにむっとした顔をする。
「僕が教室に戻る直前です。ほんとに覚えてないんですか・・・?」
「・・・私は、お前にキス、したのか?」
不安そうに京一郎を見上げる千家。
「あの時は、甘噛みされただけですけど。でも、初めて会った時、僕の部屋では、首とかに、・・・された、かも・・・」
思い出すにつれ、恥ずかしくなってきて語尾が小さくなる。
千家をちらと見やると、向こうも難しい顔をしている。
どういうことなのだろう。これまで京一郎が千家に会いたくないと思っていた理由はこれだったのに、当の本人は良く覚えていないようだ。
千家が急に接近してくるシチュエーションを思い返しているうちに、京一郎は、はたと気付く。
「伊織先輩、もしかして寝起き弱い?・・・眠たいとき、キス魔になったりします・・・?」
恐る恐る聞いてみると、すごく嫌そうな顔をされた。しかし、千家は黙っているだけで、否定しない。
「・・・キス魔なんだ。」
「うるさい」
「じゃあやっぱりさっきのはファーストキスじゃないかもしれない」
「唇にはしてない」
「本当ですかぁ?」
「お前、しつこい」
またそっぽを向かれてしまった。
そこに、規則正しく扉を叩く音が4回。
「どうぞ」
「伊織様、お食事の用意が整いましたが、いかがいたしましょう。よろしければ、柊様もご一緒にお召し上がりになりませんか?」
お茶を持ってきてくれた男性が、京一郎に微笑みかける。
「えと・・・」
「ありがとう。ではここで摂るので、二人分の準備をお願いします。」
戸惑う京一郎をよそに、千家は二人で夕食と決めてしまった。