澄んで、青く。花薫る。  15


 帰宅してからも、伊織に聞かされた真相が受け入れられず、京一郎は悶々としていた。
(どう考えたって、今の生徒会の対応はおかしい。誰も、異を唱えなかったのだろうか。)
 伊織をはじめとして、館林も、言うまでもなくスメラギも、学園トップクラスの頭脳の持ち主のはず。そんな面々が、揃いも揃ってこんな馬鹿げた対応を続けていること自体が、不可解だ。
(伊織先輩はこの状況を受け入れてしまっていて、なんとかしようなんて思っていないようだった。でも、彼は、本来そういう人じゃない気がする。)
 根拠はない。しかし、これまでの短い付き合いの中で、なんとなく感じた伊織の生き方や物の考え方は、周りとの同調より己の信ずるとおり進むことを良しとするように思えた。そして彼が、スメラギの予定された身代りとして傷を負うことを己の道とするとは、どうしても考えられなかった。
 しかも何故、館林ではなく伊織なのか。
 そもそも、発案したのは誰だったのだろう。伊織・・・とは考えにくい。館林?それとも、スメラギ本人?

 布団の上で目を閉じて、辿り着くことのない考えを巡らせているうちに、いつの間にか意識が無くなっていた。

 翌朝。
 寝坊してしまった京一郎は、食パンを咥えて通学路を走っていた。
 運動に伴い覚醒してきた脳は、昨日の出来事を映像として甦らせる。
 そう。昨日は色々なことがあったが、最も鮮烈な記憶は、間違いなく、・・・。
「ぅ・・・ゎぁアああああ!」
 道の途中で立ち止まり、叫び出さずにはいられない。口から落ちたパンは、カラスがさらって行った。
(昨日、伊織先輩に、僕は・・・)
 今更ながら、物凄く恥ずかしい。
 伊織は明らかに驚いていたが、拒みはしなかった。それはただ単に、いつも通りの泰然たる態度ゆえか、それとも――
(――嫌では、なかったということだろうか・・・)
 ほんの一瞬の間だったけれど、京一郎は目を瞑ってしまったけれど、あの時の伊織の唇の感触は鮮明に思い出される。
 温かかった。やはり滑らかで、柔らかかった。でも少しだけ、血の味がした。
 今更ながら、ぞくぞくとした感覚が身体中を這い上がり、辿り着いた下駄箱の前で京一郎は目を閉じた。
(またしたい、なんて言ったら、ぜったい軽蔑される・・・)
 溜息を吐き、次の瞬間その思考に驚愕する。
(って何を考えてるんだ!あれはただ覚悟を見せるためにやっただけ!)
 再び溜息を吐きながら顔を上げると、奥の自動販売機の前に、伊織が立っていた。
 不思議そうに軽く首を傾げてこちらを見ていた彼は、京一郎と目が合うとゆっくり微笑んだ。
 そしてほんの少しだけ、舌を出し、唇を舐めた・・・。
 ――昨日のこと、憶えているか?
 伊織は、京一郎にだけ分かる言語でそう言っている。
 ・・・何も反応できなかった。
 ただひたすら真っ赤になる京一郎を、これまたゆっくり眺めてから、彼は満足そうに去っていった。

「・・・はぁ・・・」
 伊織の姿が見えなくなってから、再度深く溜息を吐いて、京一郎は上履きに履き替える。
 階段を上ろうと足をかけた時、伊織が消えていった方向から声が聞こえた。
「伊織くん、その後の調子はどう?」
 可憐な花を思わせる女性の声。
 心が騒つく。
 先程予鈴が鳴っていたが、どうしても気になって、京一郎は声のする方へそっと近づいた。
「別に。特に問題ありませんよ。」
 伊織が硬い声で返す。相手の女性は養護教諭のようだった。
「あら、それなら良かった。お薬が効いたのかしらね。」
 伊織は応えない。
「何かあったら、いつでも相談してね。」
 養護教諭は、伊織の髪の毛を指で梳きながら、保健室へ入っていった。
 京一郎側に背を向けていた伊織も、そのまま保健室を通り越し奥の階段へ歩いて行ってしまう。
 今、伊織に声をかけたら遅刻は確実だ。仕方なく、京一郎は教室へ向かった。

* * * * *

「養護のさ、キサキ先生、良くね?」
「なんか無駄にエロいよね。」
「俺はあーゆーの趣味じゃない」
 クラスの男子たちが教室の後ろで談義している。話題は、今朝の養護教諭のことだろうか。
 気になった京一郎も、珍しく参戦してみる。
「白衣がセクシーだよね。でもちょっとわざとらしい感じもする。」
「お、柊わかってんじゃん。そうそう、やっぱベストは清純系ですよ。」
「お前の場合はただのロリだろ」
 どっと笑う一堂。
「あの先生って、キサキって名前なの?」
「いきなり呼び捨てですか。キサキは下の名前。名字はスメラギさん。」
「え・・・」
 奇しくも、生徒会長と同じ。まず聞いたことのない名字だから、無関係ということはないだろう。
「生徒会長の、親戚とか?」
「らしいね。従兄弟だっけ?」
「そいや、生徒会長って双子なの知ってた?」
「あー知ってるそれ。会長は弟で、兄はアタマ悪いんでしょ。」
「フツーに中2だよね。」
 知らなかった。学園内に親戚がいる、というのは珍しくない話かもしれないが、生徒会長に関係している人物となると、どうしても例の件に結び付けて考えたくなる。
 それに、今朝の伊織のスメラギ教諭への態度、スメラギから伊織に対するスキンシップは、何か引っかかるものがあった。
(あんなに伊織先輩の髪にベタベタ触って・・・)
 ・・・ではなく。少なくとも伊織は生徒会役員で、風紀委員長だ。成績のみならず、教員の覚えが目出たくない筈がない(ちょくちょく授業をサボってはいるようだが、自習が多い3年は問題になりにくいそうだ)。
 そんな、いつだって堂々として余裕を見せつける彼があんな硬い声を出すことに、それを躱して髪を触るという踏み込んだスキンシップをするスメラギに、不自然さを感じざるを得ない。
「ひーらぎくん」
 はっとして振り返ると、乙若が二人分の体育着を持って立っていた。
「次、体育。行こーぜ」

* * * * *

「あのさ」
 トラックを走りながら、乙若が声をかけてきた。
「俺も、"京一郎"って呼んでいい?」
「いいけど、突然だね。」
「いや、たまには時雨さんの真似して、自分から踏み込んでいくのもいいかな、とか思って。」
 少し照れたように言う乙若。京一郎は昨日の自分を思い出す。
「へぇー。じゃあ、僕は"刀五"って呼べばいい?」
「お好きにどうぞ。先輩方は、珍しいからって名字の方を使うけどね。」
「確かに。じゃあ、"乙若"で。」
「うん。」
 互いに笑い合った。

「そういえばさっき、養護教諭の話してたでしょ」
「してた。生徒会長と親戚らしいね。」
「俺、あの人も怪しいと思ってる。」
「怪しいって・・・乙若にかかると、皆怪しいんだね。」
「確かにそんなことばかり言ってるな、俺。でも、あの人は館林さんの比じゃないんだ。それに、――」
「オラお前ら、体育だからって適当にやってんじゃねーぞ」
 体育教師代理のミサキに首根っこを掴まれた。
 現在、3人いる高校体育教師のうち1人は産休中、もう1人は入院中のため、その穴を埋めるべくこの青年が臨時で代理を務めている。
 体格は良いが、京一郎たちとそこまで歳が離れているように見えない彼は、実は留年生だという噂もある。
「やべ」
「やべ、じゃねー!そんなんだから他校生に絡まれてもやられっぱなしになんだ」
 気になる言葉が飛び出した。
「ミサキ先生、それ・・・」
「オラさっさと走れっつってんだよ!ケツバットすんぞ」
「京一郎、行こ」
 乙若に促されて、渋々走り出す。
「俺もあの人に聞きたいことがある。授業終わったら、体育教師室行こ。」

* * * * *

「なんだお前ら、俺になんか用かよ。」
 大玉の飴を口の中でゴロゴロさせながら、煙草臭い教師室でミサキは寛いでいた。
「飴ちゃん、いる?」
 大人しく飴を貰ったはいいが、口に入れると大き過ぎて上手く喋れない。
「情けねーなーおい。噛んじまえよ。」
 二人でガリガリと桃味の飴を噛む。
「で?授業中ちゃんと走らなくてすみませんでしたーってか?」
「あ、それもあるんですけど、あの、帝学の生徒って、よく他校生に絡まれるんですか?」
 京一郎の直接的な質問に、ミサキは眉を寄せる。
「まーなぁ。ねたみそねみの対象になり易いからな、この学園は。」
「そんなにしょっちゅうなんですか?」
「まぁでも、狙われそうな奴らは基本限られてらーな。ちょっと調子に乗りがちな奴らと、金持ってて弱っちそうな奴らと、あと最近は、――」
「何故か頻繁に、一方的にボコボコになってくる生徒。」
 乙若の言葉に、京一郎はぎょっとした。
 彼は、一体誰のことを言っている?
「お前ェも気付いてたか。そうなんだよ。あいつ腕は立つはずなのに、何故かよくボコられてくんだよな。まぁたまにやり返してるみたいだけど。」
「それって・・・」
 口を挟んだ京一郎を正面から見据え、乙若は言った。
「そう。生徒会副会長・兼・風紀委員長・3年の、千家伊織。だよね?」
  ミサキ先生は、タバコは吸いません。もう一人の先生が吸ってるのです。

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