澄んで、青く、花薫る 17
化学の実験が終わり、生徒たちはぞろぞろと教室へ戻り始める。
以前なら一緒に器具を片付けていた乙若も、他班になったため、もう実験室を出てしまったようだ。
最近、彼を見かけること自体が減っている。教室にもあまり居ないし、授業も休みがちなようだ。毎日学校に来てはいるようなのだが、これも"実験"のうちなのだろうか。
乙若からは、時期が来るまで近づかないでほしいと言われている。スメラギ教諭の疑惑についてはっきりするまでは、京一郎も見守るしかない。
片付けを終えた京一郎は、以前に伊織が隠れていた、使われていない階段へぶらりと向かった。
(伊織先輩、いたりするかな・・・)
これから昼休みなので、時間を気にする必要もない。
(今日は天気がいいし、図書館の方へいるかもしれない。)
先日下駄箱前で見掛けて以来、伊織には会っていない。
口付けまでした仲なのだから、そういう関係でなくともせめて親交を深めたい。それに、また”あのこと”が起こらないか心配でもある。
彼を暴力から解放するには、乙若の実験がカギを握っているような気がする。この件にスメラギ教諭がどう関係しているのか、あるいは関係ないのか。生徒会をなんとかできるのか、できないのか・・・。
色々考えながら例の階段へ近づくと、ぼそぼそと声がするのが聞こえた。伊織の声ではない。嫌な予感がする。
「伊織、起きろ。昼になったぞ。・・・伊織っ」
彼のことを親しげに呼び捨てにする人物を、京一郎は一人しか知らない。
(館林副会長がいる・・・)
一気にテンションが下がる。
館林は確かに聡明利発で美丈夫、生徒会副会長としての露出の高さも相俟って、特に女子から絶大の人気を誇っている。
しかし京一郎からしてみれば、伊織を見殺しにした張本人であり、やたらと親しげに彼に接する面白くない輩である。
かといって、のこのこと二人の前に出て行く気にもなれず、京一郎は階段側から聞き耳を立てた。
「おい、伊織」
「ん・・・かい?」
眠たげな声が聞こえる。
「やっと起きたか。」
「いま、何時・・・」
「何言ってる、もう昼だ。午後からは模試だろう。いい加減サボるのはやめ・・・」
館林の声が不自然に途絶えた。
何も聞こえない。何が起こっているのか、こちらからは窺えない。
不安が募る。
「・・・っ」
館林の短く呻くような声が聞こえた。
鼓動が速くなる。
階段裏で何が起こっているのか、今すぐにでも確かめたい。でも、やっぱり見たくない。
「伊織・・・」
身体が硬直した。
彼の名を呼ぶ館林の声が、あまりにもしっとりしていて、熱が籠もっていて。
――キス魔なんだ
――うるさい
先日の会話が甦る。本当にそうなのだとしたら、今、まさか館林に・・・。
「伊織先輩っ!!!」
なりふり構わず階段裏へ飛び込んだ。
館林が驚いた顔でこちらを向く。
「先輩っ ・・・探しましたよ。今日、昼ご飯ご一緒する約束でしたよね。」
気持ちを抑えて、努めて穏やかに声をかける。
「・・・京一郎?」
「伊織先輩の分も、お弁当準備してきたんですから。早く行きましょう」
京一郎は手を差し伸べた。伊織は完全に覚醒したらしく、含み笑いをしながらその手を取る。
「あ、おい・・・」
所在なさげに館林が伊織のもう片方の手を掴む。
「そういう事のようだ、館林。可愛い後輩をがっかりさせる訳にはゆかないからな。模試には遅刻しないよう気をつけるよ。」
* * * * *
「私の分も、手作り弁当を用意してくれていたのではなかったかな?」
「手作りとは言ってません」
中庭のベンチに座って、購買で買った売れ残りのパンを二人で頬張る。
「そもそも、今日は約束していなかったような気もするが。」
ニヤニヤしながら伊織は京一郎の顔を覗きこんだ。
「・・・・・・」
京一郎はパンを頬いっぱいに詰め込みながら、伊織を睨み返す。
「可愛い後輩くんは、ご機嫌斜めのようだ。」
ちゅー、と京一郎に買わせたコーヒー牛乳を啜る伊織。唇が、すこし濡れている。階段裏での嫌な予感を想起させ、胸が締め付けられる。
「さっき」
「ん?」
京一郎は、努めて冷静に、無関心な体を装って尋ねる。
「館林副会長と、何をしてたんです?」
「不機嫌の理由はそれか。」
「質問に答えてください。・・・なんだか、いかがわしい雰囲気でしたけど。」
低く唸る京一郎を横目で見ながら、伊織は思わせ振りに呟く。
「さあ、何だったかな。」
「・・・教室、戻ります」
「ふふ、そう怒るな。いつものことだ。自習をサボって惰眠を貪る私を、あいつが起こしに来た、それだけだよ。」
「それだけ、ですか・・・」
「なにか不満でも?」
「・・・・・・」
(だってさっきの館林副会長の声は、ただ起こしたってだけじゃなかった。多分・・・)
京一郎は両手で持ったパンを見詰めて俯く。
伊織はしばらく京一郎を見つめていたが、腕時計を確認して立ち上がった。
「今日の放課後の予定は?」
質問の意図が分からず、京一郎は黙って首を振る。
「では、うちに来るか。」
急な誘いに応えあぐねていると、予鈴が鳴った。
「また放課後、な。」
そう言って、京一郎の額を指先で軽く小突く。
さっさと教室へ向かう背中に、京一郎は条件反射のように叫ぶ。
「行きませんっ」
顔だけ振り返った伊織は、楽しそうに言った。
「図書館前で待ってる。」