澄んで、青く。花薫る。  18


 放課後、特段の予定もない京一郎の足は、結局ふらふらと図書館へ向かっていた。
 午後の授業中は、階段裏での館林の声が頭に響いて、全く集中できなかった。
「伊織先輩のせいだ・・・」
 あの時、身の潔白を証明してくれさえすれば。
 彼が口付けを許すのは、京一郎だけだと言い切ってくれれば。
 そうしたら、こんなに悩む必要もないのに。
 何故なら伊織は京一郎の、・・・京一郎だけのーー
(ーーって!!何でこんなこと考えてるんだ!!!)
 慌てて思考を止める。
 これではまるで、浮気な相手に妬いているようではないか。たかが一度キスしたくらいで、何故そういう思考に陥らねばならないのだ。
「あれはそういうんじゃなくて、・・・」
 声に出して否定してみる。
 だが、そういう気が全くないのなら、唇に口付ける必要は果たしてあったのか。
(・・・先輩にキスした時、本当はどこかで気づいていた・・・?)
 今もう、否定はできない。伊織の置かれた状況を知るにつれ生じた感情は、すでに正義感や惻隠を通り越していることを。
 あの時は、真実を知るため、彼のペースに踊らされないよう、要求以上のことをしてみせたつもりだった。それだけだと、京一郎は信じていた。
 だが今になって、もうどうしようもなく鮮やかに浮き上がってきたそれは、昼に叫んだ言葉と裏腹に、彼の姿を激しく求めるのだ。

(どうしよう・・・僕はホモなんだろうか。伊織先輩は、・・・違うと言っていた・・・)
 何かの間違いであってくれと願いながら、京一郎は隠れ処に潜り込んで膝を抱えた。

「ここに居たのか。」
 暫くして、伊織は薄い鞄を持って現れた。体育座りで動かない京一郎の様子に首を傾げて、横に座り込む。
 待ち合わせに応じないと言いながら結局来てしまったことについて、きっと何か言われると思っていたが、彼の声に揶揄はなかった。
 横の空間に感じる体温が気になって仕方ない。でも、顔を上げることができない。
 一旦この気持ちを自覚してしまうと、どんな顔をしていたらいいのか分からなくなる。彼を見たら、その瞳に、自分の感情と同質の好意が宿っていないか探ってしまいそうで・・・。
「まだ拗ねているのか?何が気に入らない。」
 京一郎の気持ちを知らずしてか、伊織は溜め息を吐く。
「・・・だって先輩、キス魔だし」
 小さな声で呟く。
「だから?」
 京一郎を見詰める伊織。
「・・・・・・」
「私が館林にキスしたと?」
 ぎゅ、と袖を握りしめる。
「京一郎。」
 優しい声が、ふわりと耳元で囁く。
「私が他の人間に触れるのは、嫌か?」
 嫌だ、と言うことができたら、どんなに楽だろう。自分だけを見つめていて欲しいと伝えられるなら。
 けれど、そうできるほどの自信が、京一郎にはない。だから、強がった唇は、心と逆の言葉を紡ぎ出す。
「・・・そんなの、別に知ったことじゃないです。伊織先輩が、誰と何しようと。」
「ふぅん」
 伊織は京一郎の顔を覗き込む。京一郎はますます顔を隠して丸くなる。
「なら何故、私が館林といた理由を気にする?興味が無いのではなかったかな。」
「それは、だから、二人がおかしなことをしていたら風紀が乱れるから・・・」
「あのときお前以外、近くに人はいなかったようだが。乱れるとしたら、京一郎、お前が、ということになるな。」
「別に、僕は・・・」
 むしろ今現在の心の方が、よほど乱れている。否、乱されている。千家伊織によって。
「私が館林とキスをしたら、お前はどうなる?」
 あのとき、階段裏へ駆け込んだ京一郎の目に飛び込んだのは、足を投げ出して壁に寄りかかる伊織と、彼に覆いかぶさるようにしていた館林。身体こそ密着していなかったものの、あの様子には京一郎でなくとも訝しく感じただろう。
 脳裏に甦った映像は勝手に変化し、館林の指先が伊織の顎を捉える。伊織は微笑んで館林の頬に手を添える。そして館林の唇は彼に近づいてーー。
「!!」
 京一郎は耐え切れず、妄想を振り払うように強く頭を振る。
 完全に、追い詰められた。平気だと言ってやりたいけれど、そんなこと、もう言えない。
「・・・知りません」
 辛うじて、声を絞り出す。
「それは、答えたくない、ということか。」
「知らない」
 どんどん頑なになる京一郎を眺め、伊織は楽しそうに溜息をつく。
「困ったな。お前の答えが聞きたいのに。」
(伊織先輩のバカ)
 聞いてどうする。この気持ちを、どうしたらいい。
「京一郎。」
(バーカ)
 甘い声が、胸に沁み込む。そんな風に呼ばないでほしい。
「京一郎。」
「ばかぁ」
 うっかり声が出てしまった。
「・・・泣くな」
 泣いてなんかない、と言おうとしたが、目尻に滲んだ涙を伊織の指が掬い取ってしまう。
「館林とはキスしてない。されそうだったような気もするが、お前が来たから、何もなかった。」
 恐る恐る、見上げる。本当ですか、と言おうとしたが、喉が塞がって声が出なかった。
「本当だ。ふふ・・・お前は、焼き餅焼きだな。」
 嬉しそうに、伊織は京一郎の頬をそっと撫でる。
「そんなお前に縛られるのも、悪くない。」
 意図がつかめず、京一郎は涙の溜まった目で伊織を見詰める。
「本当に、お前は・・・」
 苦笑する伊織。
「・・・?」
 見上げた顔を、温かい掌が包み込む。
「お前のせいだ」
 吐息と共に、伊織の唇が京一郎のそれに触れた。
 軽く唇で食まれた。前回とは違った、唇の内側の柔らかさと湿度を感じる。
 前よりも長い口付けにくらくらする。どうやって息をしたらいいか、やっぱり分からない。
 伊織は唇を離すと、京一郎の首元に顔を埋めた。
「・・・誰かを好きになる予定なんて、なかったのに」
 呟きと共に漏れる息と細い髪の毛が、首をくすぐる。
 戸惑いと、歓びが大きすぎて、頭の中を整理できない。
「・・・僕だって、男の人を好きになるなんて思わなかった。」
 嬉しい。けれど、顔に出してしまっていいのか分からない。もしかしたらいつものように、ただからかわれているだけかもしれない。嬉しいけれど、泣きそうだ。
「ぜんぶ、伊織先輩のせいだ。」
 唇を震わせて、でも伊織の紅い瞳に焦点を真っ直ぐ合わせて、睨み付ける。
 その時の伊織の顔を、京一郎は、一生忘れないだろうと思った。花の綻ぶような、と言うべきか、蕩けるような、と言うべきか。
「そうか。」
 微笑んで伊織は、京一郎の頬を優しくつねった。

  

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