澄んで、青く。花薫る。  22


 一度得たものがなくなってしまった場合、動画の巻き戻しのように、単純に得る前の状況へ戻ることができるならば、どんなにか心は楽なことだろう。
 それでも、再び得られる可能性がゼロではないのなら、まだ、希望を捨てずにいたい――

* * * * *

 ファミリーレストランでの一件以来、京一郎は意識的に乙若へ近づき、話しかけ続けた。
 初めこそ、不信感を露わにしていた乙若も、少しずつ京一郎へ向かい合うようになってきた。

「乙若、食堂いこう!」
 ここ数日恒例となった、昼食への誘い。
 今日はコロッケカレーにしようか、などと考えながら返事を待っていると、乙若は穏やかな表情で顔を上げた。
「京一郎、今日は外の定食屋に行こうぜ。」

 帝学生徒たちにあまり知られていない小さな定食屋への道中、乙若は、急に京一郎を抱きしめた。
「えっ?!なに?!どうしたの?!」
「大丈夫、愛はあるけど恋じゃないから。」
「はぁ?てゆーか離してよ!!」
 京一郎が腕を振り回して抵抗すると、乙若はすんなり解放に応じた。その表情はまさに初夏の空に相応しく、晴れ晴れとしていた。
「乙若・・・」
「京一郎、本当にありがとう。実験は、成功だ。」

* * * * *

 乙若曰く、突然、感覚が実験開始以前とほぼ同じように戻ったらしい。
 それまでは記憶が、なくなるほどではなくとも部分的に曖昧になったり、以前までのものの考え方について否定的になったりしていたという。
「つまり、精神的なコントロールをいくらか失っていた、ということだろうね。奪われていた、と言った方がいいか。」
「それは・・・、」
「うん。スメラギ先生、あるいは保健室のどちらかによるものだと思う。いや、やっぱりスメラギ先生のせいかな。」
 元気に生姜焼きをかき込む。こんな生き生きした彼を見るのは久しぶりだ。
「そして、殺菌剤は君だったんだ、京一郎。」
「・・・もうその喩えやめてよ・・・」
 うんざりした顔の京一郎へ、ニカっと笑いかける。
「まぁそういうわけで、スメラギ先生の影響で記憶や興味に僅かな異常が生じること、その結果、例えば千家さんが怪我しててもあんまり気にならなくなること、その状況が京一郎の影響で是正されることが分かった。」
 乙若は、帝学関係者が関心を持たなくなっている対象は伊織の怪我に限らないだろう、という見方のようだ。
「だけどやっぱり、最も強く影響を受けていると思われる生徒会は、ほぼ間違いなく千家さんの怪我の秘密を握っている。」
「うん。・・・今更だけど、生徒会のことは伊織先輩から聞いて知ってた。彼は生徒会の命を受けて、暴行に遭っている。」
 小声で告げると、乙若は目を見開いた。少しの間があり、自嘲気味に呟く。
「・・・成る程。君のような無垢な子にも、警戒されてたんだな、俺。」
「ごめん。でもこれを知るために僕も、その・・・なんていうか身体張ったし、乙若の目的もよく分からなかったし・・・」
「千家さんに何かされたの?!」
 蒼い顔で京一郎の肩を掴む乙若。
「や、伊織先輩は別に・・・」
 京一郎がお茶を濁すと、ふと思い当たったように、彼はおずおずと聞いてきた。
「じゃあ、・・・まさか館林さん・・・?」
「あり得ないから。」
 即、否定してやると、あからさまにほっとした顔をする。
「館林副会長が、どうかしたのかい?」
 覗き込むと、乙若は観念して言った。
「俺は、館林さんのことが好きなんだ。」

* * * * *

「そもそも、冠那木に行くつもりだったのに、帝学へ進路変更したのは、入試当日に、館林さんと出会ったから。」
「え、そうなの?」
「彼は生徒会役員として受験生の対応をしてた。あのとき体調が悪くてフラフラしてた俺をあの人が気にかけてくれたのも、仕事だったから、ってだけなのは、重々承知してたんだけどね。」
 少し俯いてはにかむ彼は、まさに恋をしている顔をしていた。面倒を見てくれた先輩に一目惚れ、ということだったのだろうか。
「それで、無事帝学に入学した俺は、生徒会か新聞部か、どちらを選ぶか迷っていた。もちろん彼に近づくには生徒会に決まっているけど、いきなり彼女とかいたら嫌だしね。それで、自称・新聞部として、ひとまず彼についての情報を集めたんだ。」
「乙若らしい。」
「褒め言葉だよね、それ。・・・で、わかったのが、館林さんは千家さんのことを非常に気にしているようだってこと。」
 苦い記憶が蘇る。階段裏での館林の声。伊織は何もなかったと言っているが、果たして本当かどうか、少しだけまだモヤモヤした気持ちが残っている。あんな別れ方をしてしまってからは、この淡い妬心すらどこに遣ればいいのか分からない。
「早速、恋敵が現れたと思った。だから俺は、千家さんのことも調べ始めた。そんなうちに怪我の件に気付いた、というわけ。」
 なるほど、それで京一郎の疑問には大抵それなりの回答を持っていたのだ。
「京一郎、あまり驚かないんだね。」
「何が?」
「俺が、男の先輩のことを好きってこと。」
 乙若はもう食べ終わったらしく、カウンターに肘をついて京一郎を見ている。
「ちょっと、食べてるのにそんなに見られちゃ落ち着かないよ。」
「もしかして、京一郎も、好きな人男だったりする?」
 どうやら乙若は、京一郎の抗議に耳を貸す気がないらしい。好きな人については、元からそういうわけではないと言いたかったが、それはつまり肯定しているのと同義であるから、回答に困る。違うと言ってしまえばいいのだ。違う、と・・・。
 乙若はしばらく無言で白飯をかき込む京一郎を眺めていたが、それ以上追及しては来なかった。
「さて。俺の話は終わり。次は君の番。生徒会について知ってること、教えてよ。」
 促され、京一郎も以前伊織から聞いた事のあらましを説明した。
「ふーん、子供みたいな生徒会長を守る方法としては、考えたな。しかし、やはり馬鹿げてるね。馬鹿馬鹿しくて、ちょっと信じられない。スメラギ先生のことがなかったら、生徒会役員全員、いかれポンチと思ったところだぜ。」
 古臭い言い回しで罵倒する乙若。
「うん・・・。でも、伊織先輩は今、スメラギ先生の影響を、あまり受けていないような気がする。それでも、あの人は追い詰められたように、状況を変えようとしない。だからなんとかして、こんなこと、絶対にやめさせたいんだ。」
 先日の路地でのことが脳裏に蘇る。
 "非公式"さえ起こらなければ、あんな別れ方をしなくて済んだのだろうか。それとも、遅かれ早かれ、彼は京一郎の側から去ったのだろうか。
 最後のキスの余韻と伊織の冷たい声がギリギリと胸を締め付ける。
 らしくもなく、思いつめた目で拳を握り締める京一郎を、乙若は眩しそうに見詰めた。
「君も、恋をしているんだね。」
「へ・・・?」
 改めて言われて、顔が熱くなる。
 伊織に出会ってから今までの間、いろんな感情が湧き上がり、京一郎を混乱させた。
 伊織を想う気持ちも自覚し、それは互いに通じ合っていたとも思う。
「大好きな"伊織先輩"を、護りたいんだ。」
「・・・・・・。」
 乙若の言葉に、何かがすとん、と落ちた。
 そう。京一郎が伊織をなんとかしたいのは、伊織のことが好きだから。そしてまだ、それをはっきり言葉にして伝えていない。
「そう・・・だね。僕は、・・・僕の大切な伊織先輩を護る。」
 乙若を見返して、宣言する。
 伊織が護ろうとしているものを、京一郎は知らない。彼個人の事情は、分からない部分が多い。
 それでも、また振り向いてほしい気持ちよりも、彼をこれ以上傷付けたくない気持ちの方が勝る。それは、伊織のためというより、京一郎自身のためだった。
 乙若は、満足したように頷く。
「ふふ。じゃあ俺たちは同志だね。俺も、スメラギ先生の影響から館林さんを救って、本来の彼に戻って欲しいから。」
 先ほど男の人に恋をしていることを隠そうとしたのは、最早無意味になってしまった。開き直ってみると、乙若の片思いについて図々しくもちょっと心配になってくる。
「でも、・・・大丈夫?」
 京一郎の意図をすぐに理解した乙若は、しかし自信たっぷりに言う。
「それだけど、館林さんの千家さんべったりは、多分スメラギ先生の影響の一種だと思うんだ。」
「ん?普通逆じゃない?」
「まぁ、聞いてよ。どうやら館林さんと千家さんは幼なじみらしい。で、今は互いに副会長。だけど千家さんは傷ついて館林さんは無事。そんな状況を彼は受け入れられないが、立場上容認せざるを得ない。」
 乙若"節"が戻っている。京一郎は頷きながら、心からほっとしていた。
「そこで彼の持ち前の責任感が強く出過ぎて、1.千家さんを護りたいけどできない、2.ならせめて千家さんに寄り添いたい、3.つーか千家さんが好きだ、という感情の転換が起こった。つまり館林さんのただの勘違いだと思う。てゆーか、そうじゃないと俺が困る。」
 鼻息荒く語る。それは君の都合のいい解釈では、と思ったが、京一郎は黙っていた。
「だから京一郎、沢山館林さんに接触して、さっさと館林さんを助けてあげて!」
「えぇー・・・」

* * * * *

 誰もいない部屋に、灯りをつける。
 20数平米の、小さな城。
 ここに来たばかりの頃はあれこれと世話を焼く親を煩わしく思ったもので、彼らが帰り、一人きりになった瞬間には、果てしない自由を得たような気になった。
 しかし、気が塞いでいると、ご飯が出来ただの風呂が沸いただの、我が家の騒がしさが恋しくなる。
 京一郎はベッドに腰掛け、枕元に畳んで置いてあるストールを手繰り寄せた。
 乙若の前では気丈に振る舞うことができたけれど、去って行った伊織の後ろ姿が脳裏に甦るたびに胸が苦しい。
 ストールに微かに残った伊織の香りがふわりと鼻をくすぐり、彼を護るという誓いと、彼を恋しく思う気持ちを混乱させた。

* * * * *

  乙若については、別人どころか完全に捏造ですスミマセン(滝汗)

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