澄んで、青く。花薫る。 26
館林に早期卒業と海外渡航について聞いてから、伊織に電話しようかとも思ったが、どうしても手が動かなかった。もちろん上級生のクラスに突撃する勇気などなく、図書館の隠れ処も、階段裏も、何度も足を運んではみたが会うことは叶わず、京一郎がいない時に彼が来た形跡もなかった。
"あのこと"については、館林の協力を得て、解決が近づいているように思う。彼の提案で、昼休みには乙若と生徒会室に赴き、他の生徒会役員と交流している。彼らが味方になってくれるのも最早時間の問題だろう。しかし、当事者であるはずの生徒会長はこのところ姿を見せていない。
もう一方の当事者である伊織にも、昼に顔を出すよう館林は再三声を掛けている。しかし彼は全く応じる気配がないようだ。
このまま思惑通り事が進み伊織の身の安全が保証されれば、京一郎の懸念がひとつ消える。ずっと願っていた、彼の平穏が叶う。
だがそのとき、きっと伊織は京一郎の横にいない。
時間というものは、無限にあるのだと思っていた。伊織との思い出は、これからたくさん積み重なっていくと信じたかった。
だが、伊織の性格を考えると、身の危険が京一郎に及ぶ可能性が消えたところで、またよりを戻そうとはしないだろう。
彼は、誰かを好きになる予定などなかったと言っていたのだから。
伊織が京一郎の元を去ったとき、まだやり直せると思っていた。何故なら、彼が去った理由は、現状に甘んじることで京一郎さえも危険に晒すことを避けるため、伊織が身を引いた形だったからだ。
しかし、実際のところそれはひとつのきっかけに過ぎず、京一郎との別れがいずれ訪れることを、彼はあらかじめ知っていた。
伊織と過ごした短い時間を、今更ながら思う。
あまり素直になれなかった。それは、彼に甘える気持ちがあったからだ。
確かに意地の悪いところはあるが、最後にはいつだって伊織は京一郎の希望を汲み取り、与えてくれた。
だから今回だって、事がひと段落したらきっと京一郎の元へ戻ってきてくれると、そう思っていた。
本当は優しい彼に、甘えていた。
未来への期待に浮かれて、油断していた。
でも、裏切られたとは、何故か感じなかった。
伊織が京一郎を呼ぶときの声や、触れるときの手の優しさは、気まぐれの恋を楽しんでいるようには思わなかったから。
確かに、伊織の慈しみを感じていたから。
願っていた伊織の平穏が近づくと同時に、静かに恋が終わってゆく予感を、京一郎は感じていた。
それでもせめて。
今はまだ、彼が近くにいると感じたくて。
京一郎は放課後、また隠れ処へ足を運んだ。
最早期待はしていなかった。
むしろ、もう会えない方がいいとすら思っていた。
しかし、捻くれ者の彼は、偶然すらひね曲げてしまうのだろうか。
今日に限って、伊織はそこにいた。
うっそりと、空を眺めながら。
「・・・隣に、座っても?」
暫くの逡巡の後、声を掛けてみるが、返事はない。
無言は肯定と受け止め、横に腰掛ける。
今日の空は、梅雨の気配を思わせる、どんよりとした薄灰色。
そういえば、伊織の家に行った日も、空はこんな色をしていた。
あの外見だけ古めかしい洋館は、嫌いではなかった。また行く機会もあるだろうと思っていたし、京一郎の小さなワンルームへ伊織を呼ぶ日も近々、夏には花火を見に行きたい、実家に帰るときには一緒に来ないか聞いてみようか、秋には一度行ってみたかったスイーツバイキングに付き合ってもらおう、クリスマスにはプレゼントを交換して、・・・そういえば、誕生日を聞いていなかったから確認しなくては――。
伊織と付き合ってからというもの、これからの事事を思い描いては、期待に胸をふくらませていた。
しかしそれも、もうきっと、叶わぬことなのだ。
仮に、京一郎と乙若、館林の努力虚しく、伊織を平穏へ導けなかったとしても、夏になれば彼は学園から、この国から居なくなる。結果的に、彼がそれ以上暴力に脅かされることはなくなる。
それでも、これ以上楽しい思い出を作ることができなくても、最後に一つだけ、彼を護るという決意だけは守りたいと京一郎は思った。
「夏から、海外の大学に行ってしまうんですか?」
ゆっくりと、伊織の視線がこちらへ向く。
「・・・館林か。」
「何で、教えてくれなかったんです?」
努めて穏やかに返す。
一人きりの部屋で、もう何度もひっそり泣いた。だからもう、平気だと思っていた。けれど、実際本人を目の前にすると、喉まで出かかる。
――僕とのことは、最初からどうでも良かったんですか?
「・・・言えなかった」
吹き消すような呟き。
「・・・え?」
「具体的な渡航先が決まったのは、この間お前と映画に行った直後だ。さすがのお前も、あんな別れ方をした私には愛想を尽かしただろうから、説明する手間が省けたと思った。」
「そんな・・・」
投げやりな言い方だが、その声には覇気がない。京一郎をからかうときに嫌という程見つめてきた紅い目は、モノクロの空をぼんやりと写しているだけで・・・。
これ以上、追及する気にはなれなかった。
「・・・昼に、生徒会室には来てくれないんですね。」
「いつの間にか、館林たちに絡め取られてしまったのだな、お前も。」
敵意は無いが、最早興味もない、そう言いたげだ。京一郎たちの真意が伝わっていない。
「違います。館林副会長には、僕たちに協力してもらっているんです。伊織先輩をこれ以上傷つけないために。近々スメラギ先生に、やめてほしいと直談判する予定です。」
「・・・何だと・・・?」
伊織の、血のように紅い目が鋭くなる。
「お前たち、何をする気だ。余計な真似はするなと言ったはずだが。」
「・・・やっぱり、スメラギ先生にお姉さんのことで脅迫されているんですね。」
伊織の目は怒りを宿し、京一郎を捉えて光る。
「お前は、・・・何だ?」
はっきりとした敵意を込めて。
「何のために、私に近づいた。お前の目的は、何だ。」
怒鳴るでもなく吠えるでもなく、ただ低く冷たい声に、京一郎は少しだけ怯む。
「・・・勝手に色々調べたことは謝ります。でも僕は、先輩を助けたくて――」
「余計なお世話だと言っている。お前に私の何が分かる。」
「お姉さんに危害が加わることはないように、細心の注意を払っています。館林副会長が信頼できる大人の人に協力を仰いでくれています。」
「姉が嫁ぎ先で懸念なく平穏に暮らすことが私の願いだ。そのためなら、多少の犠牲は厭わない。あと少しだ。あと少し耐えれば、事無くすべて終わる。」
「多少って、・・・事無くなんて、ないじゃないですか!」
堪え切れなくなって、京一郎は伊織のシャツを掴んだ。
「現に貴方は傷ついていて、そしてこれからも傷つこうとしている、それが事も無い?どうしてそんなことが言えるんです?なんで、貴方はそうも自分を大切にしないんですか!!」
悔しさがこみ上げる。京一郎が大切にしたいのに、本人はぞんざいに扱う。
「僕は厭だ!先輩が傷付くのは見たくない。伊織先輩には、いつだって笑っていてほしいんだ。貴方がいくら大丈夫って言ったって、大丈夫じゃないんだ!!」
京一郎の剣幕に押されたのか、伊織の瞳の怒りは消え、困惑の色に変わっている。
今なら、伝えてもいいだろうか。・・・否、多分今を逃したらもう、機会は巡ってこない。
「伊織先輩、僕は貴方のことが好きです。」
「な・・・」
不意を突かれたのか、伊織の頬が朱みを帯びる。
「先輩になら、何をされたって構いません。だから、ひとつだけお願いを聞いてほしいんです。」
そう。貴方を護れるなら、何だって受け入れてみせる。
「・・・これから去る人間に対してそんなことを言うなど、馬鹿げてる。」
伊織は、目を逸らした。
「いいんです。もうすぐ伊織先輩がいなくなってしまうのだとしても、僕は後悔したくない。」
言葉にすると、鳩尾がギリギリと締め付けられるように感じた。
伊織が何か言おうとするのを遮って、続ける。
「・・・だから、伊織先輩。僕たちを信じて、スメラギ先生に止めるよう交渉するのに協力してくれませんか。当事者の伊織先輩はやはりその場にいるべきですから。」
視界が歪んでしまいそうになるから、強く瞬きする。
最後のお願いだから。懇願を込めて、伊織を見つめる。
「・・・厭だ。」
「伊織先輩!」
ここまで言ってもだめなのか。京一郎の想いは、届かないのか。
「伊織先輩、お願いですから――」
「お前に泣きながら懇願されて聞き入れるのなら、別のことがいい。」
「伊織、先輩・・・?」
抱き締められた。
最初は壊れ物を包むように、そっと。
そして、力を込めて。
「・・・泣いて、なんか、・・・」
「嘘をつけ」
耳元で、ふふ、と笑う声が懐かしい。
伊織の気持ちがどこにあるのか、やはり分からないけれど、心がどこかつながったような気がして、張り詰めたものが急に緩んでいく。
「伊織先輩・・・」
胸がいっぱいになって、溢れるのを止められない。ずっと言えなかった気持ちが止められなくなって、出てきてしまう。
「・・・行っちゃ、いやだ・・・」
涙が伊織の肩を濡らすから、その背に腕を回して手の甲で拭う。拭うけれど、ずっと堪えていて急に限界を超えてしまったものだから、溢れるものは止まってくれない。
「いおり・・・せん・・・、」
・・・行かないで。
子供のようにしゃくりあげるしかなくなった自分が恥ずかしい。
伊織は、そんな京一郎の髪を優しく、優しく、撫で続ける。
泣き過ぎて喉が塞がってしまって音すらもぼんやりとする中で、伊織の声が、いつもの甘い声が、自分の名を囁くのを、京一郎はずいぶん久しぶりに聞いたような気がした。
次回、最終回です。大事なのは千京であることです(しつこい)。どうかどうか悪しからず。orz