コヒステフ 10 夕暮れのクレオメ


 そしてあれから長々とした一週間が過ぎ、ついにやってきた稽古の日。
 京一郎は緊張を押し隠して、いつもどおり教室へ向かった。さすがに千家の部屋に行く気にはなれず、教室が始まる時間ぎりぎりに、離れへ入る。
「あれ、柊くん、今日は着物じゃないのね。」
「ええ、ちょっと大学の用事が長引いて。着る時間がなかったんです。」
 このところ学生用の花の説明も、トメかもう一人の千家の使用人である平岡がしてくれていたため、家元が京一郎の席へやってくることもなくなっていた。だから、彼と会話する機会は作品が出来上がった時だけ。
 この間のことについて、千家の思うところを聞きたい。けれど、どんな態度を取られるかわからないからやっぱり怖い。
・・・結局、教室が終わるまで全く集中できなかった。
 気づくと、周りの生徒たちはほとんど帰ってしまって、京一郎ともう一人のみになっている。
(これはなおのこと気まずい・・・)
 さっさと終わらせて帰りたいが、焦れば焦るほど花はおかしな形になってしまう。そのまま提出するのもありかもしれないが、それはどうしても、京一郎の美意識が許さなかった。

 残っていた女性が、挨拶をして出て行く。ついに、最後の一人になってしまった。
 千家が近づいてくる。
 京一郎は視線を花器だけに向けて、緊張に強張る手で必死に花を剣山へ挿す。
「こんなに遅くまで残っているとは、珍しいな。」
 ふわりと横に座る気配がする。他に生徒がいないから、口調はフランクだ。
「・・・なんだか今日は、・・・決まらなくて。」
 目を上げずに答える。
「ふぅん。」
 横から見られている。千家の息遣いが、まるで耳元にあるような気がする。
(・・・大丈夫。見られているのは花だ。私じゃない。)
「お前の生け方だが、それなら花材全部を使う必要はない。最低限でいい。」
「・・・はい。」
 アドバイスをもらったが、頭に入ってこない。とりあえず挿していた花材を抜いていく。
「・・・言い方が悪かったようだな。全部やり直さなくていい。ポイントになる花は残せ。」
 千家はあくまで師として言葉をかけてくれる。
 しかし、京一郎が期待してしまうのは、違うことで。
(今日、先生の部屋に行かなかったこと、洋服で来たこと、この間のこと・・・、何も、言わないんだな・・・。)
「はい・・・」
 返事をしながらも、どれを残すべきか判断することができない。花材と道具の間を、目が彷徨う。
「京一郎?」
「はい・・・」
 うわの空で返事をしたら、肩を掴まれた。
「っ!!」
 びくりと震える。しかし、千家のほうを向くことはできない。
「・・・具合でも悪いのか?」
「・・・いえ。」
 千家は心配そうに顔を覗き込んでくる。目を合わせるのが怖くて、顔をそむけた。触れられた肩が、じんわり熱い。
「顔が赤い。熱があるのではないのか?今日はもう帰れ。」
――お前は、もう帰れ。
 先日の、千家の私室での声が甦る。
 あの時、拒絶されたように感じた・・・。・・・だから、誰に相談しても結局、少しも楽にならなかったのだ。
「だ、大丈夫です。」
(お願いだから、そんな風に言わないでくれ。)
「そうは、見えないが。」
「次のクラスまで、まだ時間ありますよね。終わったら呼びに行きますから、もう少しだけ。」
「・・・・・・。」
 千家はしばらく無言で京一郎を見つめていたが、やがて教室を出ていった。
 詰めていた息を、ゆっくり吐きだす。
(天現寺橋さんには普通の顔して行って来いって言われたけど、そううまくできるものじゃないな・・・。)
 改めて花に向き合う。千家がいなくなったことで、少しは集中できそうだ。
 京一郎は淡い色の花を短く切って、水面すれすれに挿した。
(私は、この見上げる小さな花だ。そして、伊織先生の心が何処にあるのか、私にはわからない・・・。)
 そして紅い花を真っ直ぐに立たせる。
(先生の心をこの大輪の花に例えるなら、それを隠すような・・・)
 長細い葉を、二つの花の間に配置していく。時に分厚く妨げ、時に透けて見えるように――。
 引き戸が開く音がする。千家が戻ってきたようだ。
「まだかかりそうか。」
「あと少し、です。」
「そうか。」
 また心がそわそわし始める。千家は壁に寄りかかって、何か本でも読んでいるようだ。
(いいや、もうこれで。いい加減さっさと帰ろう。)
「お待たせしました。できました。」
 振り返って、少し驚いた。
「ふぅん・・・。」
 立ち上がってこちらへ近づいてくる千家は、洋服姿だった。今まで和装しか見たことがなかったから、違和感を拭えない。
「洋服・・・、珍しいですね。」
「ん?・・・あぁ。」
 深めのボートネックは、色白に浮き出る鎖骨をほとんど曝け出している。いつもなら着物の襟に隠されている場所が、こうも露出していると、目のやり場に困る。
 先日京一郎が付けた印も、その前に誰かが残した痕も、綺麗に消えてなくなっているようだった。今日のこの装いはまるで、それを見せつけるように彼の膚を縁取っていて、首元を時折隠すのは唯一変わらず長い髪の毛のみ。
「なにやら前衛芸術のような出来だな。」
(伊織先生の髪が、きっとこうやって私から何かを隠す。)
「見上げる花は何かを探している、といったところか。」
(見えているところには、もう辿る手掛りもなく。)
「それをこれらの葉が邪魔して――」
 視線を感じたのか、千家が目を上げる。
(だからせめて、私は先生の瞳だけ見て――)
「・・・京一郎、」
 掠れた声が、微かにしっとりした。
 花弁に触れるように長い指がそっと、京一郎の輪郭をなぞる。
(――キスしたい)
 京一郎は妖しく光る紅い瞳を見つめた。少しでも長く、自分の姿を映すよう願いを込めて。
 千家の人差し指が唇に触れる。
 緩く、開く。
 誘われて縁にかかった指先に、舌の先で触れる。
 一瞬固まった表情をじっと見つめて、――。
「あら、伊織せんせ、まだ出掛けてなかったんです?」
 かららと音を立てて教室の引き戸が開き、トメが顔を覗かせた。
「柊さんも。こんなに遅くまで。熱中しちゃったかしらね。ごめんなさいね。せんせ、今日はお出掛けなんです。後のクラスもないの。」
「・・・すみません!すぐ片付けますから!」
「お手伝いしましょうね。」
 トメは道具を手早くまとめ始める。
 花を束ねながら京一郎がそっと様子を伺うと、千家は髪を一本に縛っていた。思わず見てしまった首の後ろには傷ひとつ無い。ほっと胸を撫で下ろす。
「今日の作品は面白かった。型通りにやるのが上達の近道ではあるが、たまにはこういうのも悪くないな。」
 簡単にコメントすると、ジャケットを羽織って千家は出て行った。

「今日はお着物じゃないんですね。自転車でいらしたの?」
「いえ、大学から直接来たので電車で。帰りは歩くつもりですけど。」
「そうなの。じゃ、送ってもらうといいわね。また来週。」
 靴を履いた京一郎に裏手の門へ行くよう告げると、トメは戸締りをして奥へ戻って行った。
(送ってもらう、って・・・車でも出してくれるのかな・・・?)
 そんなこと、わざわざするだろうか。
 不審に思いながら、一先ずいつもの門と反対側へ向かう。
 落ちかかった西陽がまだ少し眩しい。小さな門の奥に、逆光の中、大型二輪のシルエットがくっきりと浮かび上がる。
(こんな日本家屋にバイクなんて、不釣合いだな。)
「なんだ、乗るのはお前か。」
 赤いフルフェイスのヘルメットを着けた、細長い影が呟く。
「い・・・おり、先生?」
 ヘルメットを取ると、結ばれていない前髪がさらさらと零れて揺れた。
「ほら、これを被れ。お前の家は、確か飲田橋の方だったな。」
 京一郎にフルフェイスを渡し、自分はハーフヘルメットをトランクから出して被る。
「え?あの・・・」
「あぁ、花か。それならこの袋に入れて肩に掛けるといい。外に飛び出さないよう、気をつけるように。」
「じゃなくて、・・・え?」
「なにをぼんやりしている。さっさと乗れ。」
 千家はゴーグルをつけると、二輪に跨ってエンジンを掛け始める。後ろに乗せて送ってくれるということだと、ようやく理解した。彼が洋服に着替えたのは、バイクに乗るためだったのだ。
 今まで千家の顔を隠していたヘルメットを被ると、ほんの少しだけ髪の残り香がした。
 恐る恐る後部座席に足を掛けるが、意外と高くて乗りづらい。もたもたしていると、一度降りて千家が引っ張ってくれた。
「すみません・・・。」
 明らかに慣れない格好で所在無さげにいる京一郎を、また無言で見つめていた千家は、おもむろにジャケットを脱いで京一郎の肩にかけた。
「伊織先生?」
「花の上から羽織るといい。念のためだ。」
 肌に慣れない、少し重い、他人の服の感触。千家のジャケットは細身だが、京一郎には少しだけ大きくて、肩に掛けた花の上に羽織ると、身体にぴったりした。
「いくぞ。」
「でもそれじゃ先生が、」
 京一郎にジャケットを渡した千家は、教室にいた時の半袖シャツ姿で、むき出しの腕はそれこそ万一の時に守ってくれるものがない。
 やはり返さなければ。ジャケットを脱ごうと体を反らせた京一郎の腕を、千家の手が前に引き寄せた。
「そんな格好では落ちてしまうぞ。初めての後ろは怖いだろうが、何があってもこうしていろ。ちゃんと送ってやるから、しっかりな。」
 そう言って、己の身体に巻き付ける。
「っ!でも!」
 排気音を立てて、二輪は急に発進した。
「わあ!」
 思わず、きつくしがみついてしまった。
 バイクの後部座席には、シートベルトもなければ、ジェットコースターのように体の周りを覆う箱もない。左右と後ろの空間に、ともすれば放り出されそうな恐怖。自分を繋ぎ止めるのは、唯一運転している目の前の身体だけ。
 千家の背中が、不自然に小さく揺れる。
 不審に思ったが、そのうち、笑っているのだと分かった。
(初めてなんだから、仕方ないじゃないか・・・。)
 ちょっと文句も言ってやりたいが、きっと風に掻き消されて声など届かないだろう。
 その代わり、薄手のコットン生地だけが隔てる千家の身体から、筋肉の動き、鼓動、熱がそのまま直接伝わってくる。
・・・どきどきする。
 先週は、キスしてしまった。そして今日は、こんなに密着して・・・。
 なぜこんなことになっているのか、結局よく分からない。都合良く好意と受け取ってしまっていいのか、やはり不安は残る。
 でも今なら、今だけなら、どんなに強くしがみついても、胸が高鳴っているのが伝わってしまっても、言い訳がつく。
 後ろに乗せたのは千家だ。拒絶されることもない。
 ヘルメットがもどかしい。
 唯一直接触れている手に想いを込めて、京一郎は千家の身体を抱き締める。
「伊織先生、・・・―――――・・・。」
 ヘルメットの中だけで響く声はどこへも伝わることなく、篭った空気に溶けて消えた。

 もとよりさほど離れていない距離なので、すぐに駅近くまで来てしまう。一度路地に入って道を再度確認すると、あっという間に京一郎のマンションに着いてしまった。
「ありがとう、ございました。」
 ヘルメットとジャケットを脱いで渡す。
「ふふ。震えていたな。」
「あれは!だから初めてで!」
 笑いながら千家はジャケットを羽織ると、ハーフヘルメットをトランクにしまった。
 そして、京一郎が被っていたフルフェイスを被り直す。
「では、な。」
「あ、・・・」
 名残惜しい。部屋に寄って行ってはくれないのか。そう言えば、お出掛けだとトメが言っていた。一体何の用で?予備のヘルメットをトランクに入れているという事は、バイクはタンデムが前提?後部座席は誰の定位置なのか。
 たくさん言いたいことがあるのに、どれも言葉にしたら気持ちが溢れでてきそうで、京一郎は唇を噛んだ。
「そうだ、京一郎。」
 篭った声で、千家が呼び掛ける。なにか複雑なことを言っているが、ヘルメットに吸収されているのだろう、うまく聞き取れない。
「え?なんです?」
 バイクに近づく。
「次回は、着物でなくとも部屋に来い。お前の大学の図書館にもないような画集を見せてやる。今のお前がやりたい表現の手掛かりが、見つかるかもしれんからな。」
 エントランスの灯に照らされて、ヘルメットの奥の千家の顔がよく見える。
 その瞳に、教室にいた時の湿度はもう宿っていない。
「かたぶくまでの月を見しかな」
 グローブをした指で京一郎の額を軽く小突くと、Uターンして、二輪は走り去っていった。

 去り際に呟いた呪文のような言葉、あれはきっと和歌の一節だ。
 忘れないように、心の中で復唱しながら部屋へ戻る。
 単純な意味としては、月が傾くまでの様子を眺めていた、ということだろう。では、そんなに長く月を見ていた理由とは・・・?
「あ・・・!」
 もしやと思い、先日図書館で借りてきた和歌の解説本の索引から下の句を引くと、適合するものが見つかった。

 やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな

 逢いに来なかった恋人をやんわりと責める、赤染衛門の作。
 つまり千家は今日、教室が始まる前に、いつもどおり京一郎が来るのを待っていたのだ。
(行って、良かったんだ。)
 そして、次も部屋に来いと言われた。
(うれしい。)
 拒絶されてはいなかった。
「っふふ」
 思わず笑みがこぼれる。
 歌のとおり恋人として来てと言ったわけではないだろうけれど、そこに当て擦られたことに、まるで本当の恋人になったような気分になる。
(まだ、気持ちを伝えてすらいないけれど。)
 今は、千家がこれからどこに行くのかも気にならないくらい、浮足立っている。
(天現寺橋さんに、早く報告したいな。)
 また余計なことを考えてしまわないよう、嬉しい気持ちに包まれたまま、京一郎はその晩早めに床についたのだった。

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◇蛇足的管理人の和歌補足・再び。◇
・やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな(赤染衛門)
躊躇っていないでさっさと寝てしまえばよかった。あなたが来るかもと期待して、西に傾いていく月を夜が更けてもずっと眺めていてしまったよ。・・・的な!
  引いてるのか攻めてるのか京一郎。うちの伊織先生は、なかなか動かないなぁ・・・。忙しいのかな。

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