コヒステフ 11 白いスミレにくちづけを


 純喫茶の開店は、朝7時半。マスタァが店に出て来るのは7時少し前くらい。それまでに、バイトは店の鍵を開け、店内と店周りの掃き掃除をするのが日課だ。
 今までアルバイトの経験がないワカは、しかしこんなにこき使う店もそうないだろうと思いながら、箒を動かす。また一方で、もし自分が家を継いだなら、やはり早起きして身を清め神への挨拶に向かうのだろう、などとぼんやり思う。
「なーに考えてんだか。それが嫌で、俺はここにいるんだろう?」
 野良猫の額をくすぐりながら、独りごちた。
「ん?」
 ふと視線を感じて、周りを見回す。が、見える範囲に人はいない。いつもランニングしている近所の老人が通りかかるにはまだ早い。この時間、この辺りの人はあまり外に出てはいないはず。
 これからミサキのまかない朝食が出る。今現れる可能性のある人間を無理矢理挙げつらえば、ちょくちょくまかないのおこぼれを狙って来る知人の学生・・・。
「京一郎・・・なわけないよな。」
 あいつはよく食うけど遠慮しぃだから、と呟きながら、目を鋭くする。今、京一郎の名に反応する気配があった・・・?
「おい、誰だ!隠れてないで出てこい!」
 一瞬、息を飲む感じがして、すぐ背後に人の気配。
 咄嗟に振り向き――
「なに騒いでんだよ。ご近所様に迷惑だろうが。」
 ――ミサキに軽くはたかれた。
「あ?」
「あ?じゃねーよ。おら店入るぞ。」
 がりがり頭を掻きながら、改めて辺りを見回す。しかし、先程感じた気配はすでに消えて無くなっていた。

「おい。」
 スクランブルエッグと自家製ベーコンをトーストに乗せて、頬張る。材料の卵と肉は、ワカの従兄弟である臣の勤めている農場から直接購入しているものだ。ミサキの料理は、その腕もさることながら、使用している厳選された食材も魅力の一つだ。正直、うまい。
「おい、じゃねえだろ。可愛らしく『あのぅ、ミサキさん・・・、』と言え。タダで飯食わせてやってんだから。」
 ワカ同様もぐもぐしていたミサキは、ゴクリと嚥下して、注意する。バイトの指導もマスタァの仕事の一つなのだ。
「ちっ。・・・ミサキ。」
「さんを付けろさんを。ったく。で?なんだよ。」
「朝、こっちを見てるような気配があったんだが、なんか知ってるか。」
「俺ぁお前がちゃんと働いてるか、ちぃっとばかし観察してたけど。」
 ちょっと脱力する。見てたのかよ。
「お前じゃない。もっとなんていうか知らない奴の・・・。あ、京一郎の名に反応があったみたいなんだが、あいつ今日来るのか?」
「いや、特に聞いてない。俺はそんな気配感じなかったけど、・・・ふむ。なんだか嫌ぁな感じするな。一応、変な客がいないか、注意してみるか。」
 ほぼ同時に食事を終えた二人は、コーヒーを飲み干して厨房へ消えた。

* * * * *

 待ち遠しい時間は、長い。
 バイクで送ってもらってからの7日間は、まるで時間を引き延ばしたかのように、遠く長く感じられた。先週とは真逆に、京一郎は早く1日が終わらないかとばかり考えて過ごした。

 着物を包んだ風呂敷を抱えて、教室までの道を駆ける。
(やっと、会える。)
 いつもより少し早く着いてしまったけれど、そのまま母屋へ渡る。ここでも駆け足になりそうになるのを抑えて、速足で廊下を進む。
「あ、い――」
 声をかけようとして、京一郎は躊躇った。
 庭に面した縁側に腰掛けた家元は、転寝をしているようだったから。
(珍しいな。)
 千家の寝顔を見るのは二度目だが、最初の記憶はあまりない。
 できるだけ音をたてないようにそっと近寄って、横に座る。
 柱に頭を凭れかけさせて目を閉じるその顔は、意外にもあどけなくて、思わず顔がほころんでしまう。
(生徒たちの前ではいつだって、完璧な微笑みを絶やさないのに。)
 顔にかかった一筋の髪の毛を、除けてやる。
 千家の顔に触れたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 いつだって、向こうから触れてくることはあっても、こちらからなんて、できないから。
(伊織先生、寝てるんだ、・・・よね。)
 恐る恐る手を伸ばし、前に千家からされたように、指の背で頬を撫でる。透き通るような肌は、見た目どおり滑らかだ。
「・・・ん・・・」
「!!!」
 千家の口から吐息が漏れた。
 起きたのだろうか。
 急いで手を引っ込め、息を詰める。
 しかし、閉じたままの長い睫毛は少し動いただけで、穏やかに静止した。
 そっと、また覗き込む。
「伊織先生」
 小さな声で、呼んでみる。
 反応はない。
 京一郎は、少し開いた唇を見つめた。
 先々週を思い出す。
 柔らかくて、熱かった。
 いま。無防備な彼の唇は、冷たいのだろうか。
(触れたい・・・。)
「伊織先生?」
 もう一度、今度は少し声を大きくして呼ぶ。
 やはり、反応はない。
(ちょっとだけ。・・・ちょっとだけ、だから・・・。)
 バランスを崩して倒れ込まないようにそっと膝立ちになり、手を伸ばして千家の頭の上から柱を掴む。
 息がかからないように、小さく吸って止める。
「・・・・・・。」
 心臓が、口から飛び出すかと思うくらい、ばくばくと音を鳴らす。
 顔が、火を噴くように熱い。
 こんなに熱いまま触れたら、千家は目を覚ましてしまうかもしれない。
 だからといっていま、触れる寸前で彼が起きてしまったとしても、この状況についてはもう言い訳のしようがない。
(儘よ、だ!)

――千家の唇は、やはり思ったとおり、京一郎のそれより少し冷たかった。
 火照って仕方ない熱を癒す低体温。心地良さに目を閉じる。
 早く退かないと千家が起きてしまう。
(でも、あと少しだけ・・・。)
 一度だけゆっくり息を吸って、そっと目を開け――――、
――ルビーのような瞳にぶつかった。
「・・・っっ!!!!」
 飛び除けようとする。
 腕を掴まれた。背中が縁側の床に当たる。
 千家の着物の袖がふわりと覆い被さるように影を落とした。
「・・・それほど、私の唇が恋しかったか。京一郎。」
 耳元に、吐息とともにかかる声。
「・・・ぁの、これは・・・」
 熱い。熱すぎて、顔が爆発してしまいそうだ。
「寝込みを襲うとは。この間のことといい、存外、お前は大胆なのだな。」
 甘い声が、脳を溶かしてしまいそうだ。
「これも、お前にとってはただの悪戯、なのか?」
(違う。)
 ゆるゆると首を振る。
「それとも、罰ゲームとやら、か?」
(そんなんじゃ、ない。)
 声色は蕩けるほど甘い。けれど、逆光で、千家の表情が見えない。怒っているのだろうか。だとしたら、悲しい。
「では、何故?」
 こんな状況でも、千家が触れているというだけで、並々ならぬ幸福感を覚える自分は、相当おかしくなってしまっている。
「伊織、先生、が、・・・」
 喉の奥から溢れ出る。もう、止められない。
 きっと変だから、恥ずかしいから、顔を隠したい。しかし、腕は頭の上に上げられ、千家に押さえつけられている。
 仕方ないので目をきつく閉じた。
「好きなんです・・・。」
 拘束する手が一瞬だけ固くなる。
 さらりと、長い髪が顔に落ちた。
 そっと目を開けると、折しも雲に隠れていた日差しが切れ目から縁側に差し込んだ。影になっていた顔が、照らされる。
 口を真一文字に結んで、しかし、その目は驚きに見開かれていて。
 京一郎は、息を潜めて千家の言葉を待った。
「・・・・・・」
 さして長い時間では無かったのだろうが、生殺しにされているような気分だった。
 聞き取れないくらい、小さな声でぽつりと、千家は言った。
「・・・ならば、さっさとそう言え」
 そして、手を引いて京一郎を起こすと、背を向けて部屋に入ってしまった。
 部屋と縁側を隔てる障子は、ちょうど千家が入った戸だけ開いたまま。
 入っていい、ということではあるのだろうが・・・。
(拒絶、された・・・のだろうか・・・?)
 一世一代の告白のつもりだった。しかし、反応がよく分からない。

 急に空が暗くなってきた。雨が来る。
 ぽつり、ぽつりと降り始めた雨粒は、瞬く間に激しくなり、庭の飛び石を絶え間なく打った。
 雨音が外界と内面とを遮断し、京一郎は立ち尽くす。

(あの時のキスに、やはり、私の期待するような意味はなかったのか・・・。)
・・・手を繋いだり、口付けを交わしたり。
 そんな、恋人にしか許されないことは、心通う前にすべきではなかった。
(私は、ひとり舞い上がっていただけだったんだ。)
 昂って早まった心は雨音に冷やされて、やがてずくずくと痛み、ちりちりと萎んでゆく。

「京一郎、早く入れ。濡れるぞ。」
 千家の声がする。
 だが、もう、帰ろう。
 ここに、来るべきではなかった。
 今日、期待していたわけではない。だが、もとより師と弟の間を乗り越えられるはずなどなかったのだ。
 着物を包んだ風呂敷を拾い、踵を返す。
「京一郎?」
 千家が出てくる。しかし振り向かない。もう。
「おい、京一郎!」
 手を掴まれた。
 振り払う。
「っ!」
 さらに強く掴まれる。
 投げ飛ばそうとした。
 しかし、力負けして部屋に引きずり込まれる。
 後ろから抱きしめられ、荒っぽく障子の閉まる音がした。
「離してください。・・・帰ります」
「帰る?」
「もう、いいんです。私は、もう・・・!」
「京一郎、」
「帰るんだ・・・っ」
 身を捩って拘束から逃れようとするが、より強い力で押さえ込められる。腕とは対照的に優しく、零れた黒髪がさらさらと頬を撫でて、切なさが募る。
 千家は小さく呟いた。
「お前の気持ちが、理解できない。」
「私だって、・・・」
「私を好いていると言ったのではないのか。」
 声に困惑の色が滲む。
「言ったけど、もう、やめます。」
「やめる?」
「・・・・・・。」
「・・・やはり学生は、気分でしかものを言わない、か。」
「!!そんなこと!」
「では、何故。」
「だって、報われない想いなんて、・・・持つだけ哀しい。」
「報われない?」
「だって、・・・貴方は応えてくれないじゃないか。貴方は、何も、言ってくれないじゃないか。」
 苦しい。何も感じたくない。
「わかってます、私は男で、貴方も男だから、応えられないって。それならそうと、はっきり言ってくれたらいいのに。」
「京一郎、」
 京一郎は苦しみを吐き出すように、深く息を吐く。
「・・・なんで、あのときキスしたんです?なんで、お祭りなんて一緒に行ってくれたんですか。あんなことがなかったら、私は、・・・私は・・・」
 ああ。こんな予定ではなかった。気付かれずに、ほんの少しだけ触れられたら、それで満足するはずだったのに。こんなに早く、本人の前で幕を引くことになるなんて、思っていなかった。
「京一郎。」
「こんな気持ち、気づかないで済んだのに・・・・・・。」
「京一郎。」
「辛い・・・。望みがないのに、期待するのは、もう・・・。」
 みっともなく、声が震えた。
 ふっと千家の腕の力が緩む。
「だから、・・・」
「京一郎。」
 今日、何度、名を呼ばれただろうか。
 甘い声がそれを発するたびに、心臓がきゅうっとして、じんわり温かくなる。
 でも、もう。
 明日からは、その声を聞くことはない。
(・・・私の、心の中だけに・・・。)
 目を閉じる。
 このまま眠ってしまいたい。そして夢から覚めたら、片想いの喜びだけを胸に・・・。
「・・・さしも知らじな。」
「・・・・・・?」
 図書館から借りた和歌の本は繰り返し読んでいるから、この続きは知っている。燃ゆる思ひを、だ。
 焦がれて焦がれて燃えてしまいそうなほど私が想っているなんて、知ってなどいないのだろうね、あなたは。だって言えるものか、そんなこと。
 そういう歌。まさに、いままでの京一郎の心境そのものだ。
 それを、なぜ千家が?
 顔を動かして振り向く。
 京一郎を見つめる長い睫毛の奥の瞳は、熱を孕んでいるように見えた。
「私は前言撤回など認めない。」
「・・・ぇ・・・」
 白くて長い指が、京一郎の横髪を漉く。
「知りたいか。京一郎。」
・・・何を?
 もしかして・・・。
「・・・・・・燃ゆる、思ひを?」
 我が意を得たりと浮かべる悪魔のようにあでやかな微笑みに堪えられず、京一郎は目を伏せた。
 ああ。こんなに甘く優しい声で呼ぶのに。
「・・・意地悪だ。」
 何が欲しいか分かっているくせに。
「ふふ・・・さぁ、京一郎。」
 簡単には与えてくれない。そうやって。
「私にどうしてほしい?」
 そうやって、もっともっと、と求めさせられる。なんだか悔しい。
「・・・・・・てほしい。」
「んん?・・・聞こえないな。はっきり言わないか。」
 千家はくすりと笑って目線を流す。
 京一郎は千家の襟を掴んで、駄々っ子のように乞うた。
「私に・・・、・・・私の気持ちに、応えてほしい!」
 満足そうに、千家は京一郎の頬を指の背で撫でた。
「・・・お前が好きだ、京一郎。」

 あんなにも欲しかった言葉が、いま現実に聞こえたはずなのに、幻聴なのではないかと思ってしまう。
 本当に?その気がないのに意地悪で言っているのではなく?
 素直に喜べない。無駄に不安になる。
 そんな気持ちが伝わったのか、目を細めて千家は囁いた。
「京一郎、好きだ。」
 千家の親指が唇の輪郭をなぞる。京一郎は震える瞳を閉じた。
「・・・京一郎・・・。」
 甘い声に心が焦がれる。
 ゆっくり瞼を上げると、千家の瞳に京一郎が映る。
「伊織先生、」
 おずおずと頬に触れる。千家はくすぐったそうに笑った。
「好き。」
 言葉は、魔法みたいだ。
「京一郎」
「伊織先生が、好き。」
 唇から零れると、からだを締め付けるようにしながら、しかしその音が世界を急に広げる。
「・・・キスして、いいですか。」
「・・・駄目だと、言ったら?」
 千家は京一郎の前髪をかき上げて、目を細める。
「そんなの、厭だ・・・」
 京一郎は千家の顔を両手で包み込んだ。


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◇蛇足的管理人の和歌補足・さらに。◇
・かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを(藤原実方朝臣)
 大体ざっくりとした意味は本文中のとおり。技巧が素晴らしい歌です。作者の伝説もかなりツボです。
  伊織先生、ちょっと挙動不審ですねぇ(笑)。ぬああ文章うまくなりたい。orz

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