コヒステフ 12 夾竹桃の香り


 以前、千家からされたように、唇を甘噛みしてみる。
「ぁ」
 難なく絡め取られた。
「ん・・・う」
 長い髪の間に手を差し込み、首に腕を絡める。千家の腕が腰に回された。
(深い喜びって、こういう気持ちを言うのかな・・・)
「伊織先生。」
 うまく声にならないけれど、その名を口にするだけで、天にも昇れるのではないかと思う。
「京一郎、」
 掠れた声に呼ばれ、身体が震える。畳に膝をつく。
 千家の眼差しは、京一郎だけに向けられている。ゆっくり瞬きしても、それは変わらず。
 京一郎は、ただひたすら千家を見つめて、キスに耽溺した。

 とん、という衝撃に、押し倒されたのだと知る。
 千家の白い指が、器用に京一郎のシャツのボタンを外してゆく。
(いま?・・・ここで?)
 身体が強張る。
 しかし、ずっと求めていた人間から求められる歓びは理性をはるかに上回り、これから恋人として付き合うというのは、そういうことなのだろうと、ぼんやり納得する。
「伊織先生、・・・」
 呼ぶと、千家は目を細めて、京一郎の指に己のそれを絡めた。
 これからどうなってしまうのだろうという僅かな不安と、もっと触れてほしいという欲望が身体全体を支配する。
 京一郎は、きつく目を瞑った。
「そら。」
 ぐん、と浮遊感。
 驚いて目を開くと、手を引いて上体を起こされた。
 そして、意地悪な笑み。
「ふえ・・・?」
 瞬きする京一郎の髪を梳きながら、千家は囁いた。
「京一郎、着替えだ。」
 そうか、確かにそろそろ準備しないと教室が始まってしまう。
 しかし、いま、京一郎は千家と・・・。
「ふふ。なにを期待していた?」
「!!」
 その言葉で正気に戻る。顔が、燃えそうなくらい熱い。
「怒らないから、言ってみろ。」
「・・・な」
「ん?」
「何もっ!期待なんかしてません!!」
 必死に千家を睨みつける。
「その割には、物足りないという顔をしている。」
「気のせいです!」
 ああ、そうだった。この男はこうして、自分をからかうのが好きなのだ。
「京一郎。正直に言ってみろ。・・・どうしてほしい?」
「だから・・・ん!」
 耳朶を甘噛みされた。
「こんな風に?それとも、」
「わあああ!」
 息を吹き込まれて首を竦めると、思いついたように千家はにっこりとした。
「そうだ。私も、名前を書いておかなければな。」
「・・・ぇ?」
 京一郎の顎の付け根の下まで舌を這わせる。
「え、あ!駄目っ」
 ぴり、と僅かに痛みが走った。
「んっ!」
 顔を離して、出来栄えに満足したように千家は目を細める。
「何故だ?この間はお前の方からしてきたではないか。」
 そしていまできたばかりの印を愛おしそうに撫でた。
 京一郎は先々週を思い出し、また顔が熱くなる。
「ぁれは!」
「・・・・・・つい、うっかり?」
「!」
 どきりとした。
 千家はあのキスのことをどう受け取っていたのだろう。
 恐る恐る表情を窺う。青ざめる京一郎を眺めて千家はくすりと笑い、鼻頭を指でつついた。
「あのとき。お前の顔にそう書いてあった。」
「ぁ・・・」
 彼は気付いていた。京一郎が衝動的だったこと、自覚的でなかったこと。
 だから次の週、何事もなかったように接して、何も問わなかったのだ。
 けれど少し、切ない。
(後ではっきりと気づいたとはいえ、あのときだって私は本気で伊織先生を・・・)
「しかし私からは厭だとなると、先ほどの告白の真偽のほども疑わしくなってくるな。」
 嘘をつく口はこれか?とばかりに、千家は唇に触れてくる。
「違います!」
 京一郎はその手を掴んだ。
「あのときは夢中で、・・・だけどいい加減な気持ちだったわけじゃ、」
「ふぅん?」
「・・・いまは、・・・ちょっと恥ずかしい、だけです」
 目を逸らして呟く。手を握られたまま、千家はそれを面白そうに覗き込む。
「だから・・・!」
 京一郎は千家の瞳を見上げる。
「・・・だから?」
 握った手を己の頬に触れさせる。
「疑わしいなんて、言わないで、ください・・・」
「・・・・・・」
 少しだけ見開かれた紅い目は、やがてゆっくりと危険な香りを含んで光った。
「お前はそうやって・・・私を煽るのが得意なようだ。」
「ぇ?」
「・・・どうなっても知らないから、覚悟するんだな。」
 柔らかさを確かめるように、親指で京一郎の唇をねっとりなぞる。
「間に合わなくなったら、お前のせいだ・・・」
 今度は、はぐらかして終わりそうにない予感がした。
 唇が鎖骨に触れて・・・――
「せんせ!お着替えは終わりました?」
 急に廊下から聞こえた声に、京一郎は慌てて飛び退く。雨音に紛れて、トメが来たのに気づかなかった。
 千家は京一郎を見下ろしたまま、事も無げに言った。
「すぐ行く。」
 そして京一郎の風呂敷を開き、手際良く着物を着せる。
 状況の変化についていけない京一郎は、されるがままに着替えさせられ、背中を押されて部屋を出た。
 出がけ、首元に吐息を感じて声を漏らしそうになる。
「っ!!・・・伊織せんせい!!」
 唇が当たりそうなほど耳の近くで、まだ熱を帯びた声が囁いた。
「・・・続きはいずれ、な。」

* * * * *

「お?やっぱり来たか。」
 カウンターの奥でマスタァが片手を上げる。
「野々村も居るぜ。」
 ワカは鋭い目付きをして、カウンターにいる野々村を顎で示した。横に座ると、柄になく難しい顔をしている。
「どうしたの?君もワカくんもこわい顔して。」
「どうしたもこうしたも。あの人知ってる?窓際の二人掛けにいるお兄さん。」
 野々村が指を隠すようにして示す先には、見覚えのある男性がコーヒーを飲みながら読書している。自宅近くの本剛キャンパス図書館で度々隣り合わせになる、あの人だ。
「あ、図書館にいるヒトだ。」
「やっぱ、知ってたんだ。」
 野々村は眉を顰める。
「あの人も、ここの常連さんなのかな?」
「違うな。」
 きっぱりと否定するワカ。
「お前を、尾けてきたんだよ。」
「だって私より先に来ているじゃないか。」
「以前に尾行したんだろう。」
「は?そもそもなんで私を追ったと分かるんだい?」
「それは、・・・おい、動いたぞ。」
 ワカは京一郎の前に立ちはだかる。野々村も同じくいつでも立てるよう、椅子をずらす。
 わけが分からず困惑する京一郎を見つめながら、図書館で何度も隣り合わせた彼は、つかつかと歩み寄ってくる。
「おい」
 掴み掛からんばかりにワカは声を上げた。
 件の男性は不思議そうに見返す。
「はい?」
「京一郎に何の用だ。お前、今朝も来てただろ。」
 ワカの、返答如何ではただではおかない、といった勢いに、男性はやや驚いた様子で両腕を上げる。
「大した用ではない。ただ、先日図書館にノートを忘れて行ったようだったから。これが無いと、次の試験で困るだろう?」
 鞄から取り出したノートは、確かに京一郎が大学で使用しているものだ。
「あ、わざわざすみませ――」
「へぇ?それでこんなところまで?」
 素直に感謝する京一郎を押しやり、ワカは突き刺すような視線を向ける。
「おい、こんなところとはなんだ!」
 カウンターの奥からミサキが小声で文句を言う。
「ノート渡すんなら、図書館でいいでしょう?行きつけの店を調べて待ち伏せとは、あまり趣味がよくないんじゃないですか、N研・助教の館林さん。」
 たっぷり嫌味を乗せて睨みつける野々村を、館林と呼ばれた男性はまた驚いたように見る。
「私を知っているのか。君も、帝大生?」
「そうです。N研究室も視野に入れてます。」
 館林は片方の眉を上げてみせた。
「ほう。しかし、待ち伏せとは心外だな。いつでも渡せるようノートを持ち歩いていたのは事実だが、前からこの店には一度来たいと思っていただけだ。」
「どうでしょうね。偶然とは思えないな。この店、本剛キャンパスからも遠いし、喰いログにも載ってないし。」
 カウンターの奥でミサキが「敢えて"載せ"てないんだ」と呟く。
「ちょっと野々村、狙ってる研究室にいるヒトにそういう態度はまずいよ。」
 小声で嗜めようと身体を動かした拍子に、肘がノートに当たった。小さなものがページの隙間から飛び出てくる。
「あれ?」
 見覚えのない、栞。薄い木に、模様が複雑に刻まれている、美しい伝統工芸品だ。
「これ、私のじゃないです。」
 抜き取って返そうとすると、館林は居心地悪そうに視線を彷徨わせた。
「それは・・・、いい。君が使ってくれ。」
「あーっ!!!」
 途端、野々村、ワカ、ミサキの三者が大声を上げた。
 驚いた他の客たちが顔を上げる。
 ミサキは慌てて愛想笑いをしながら手を合わせた。
「おっ前・・・それで京一郎の気を引こうったって、そうは行かないからな!」
 いきり立つワカの勢いに押され、館林はやや弱気な声で弁明する。
「いや、別に、ただいつも熱心に勉強しているから応援したくなっただけで、大した意味は・・・」
「なんですかそれは!ヒイキですか?エコヒーキですか?!」
 興奮気味に騒ぎ立てる野々村。
「そういうつもりでは・・・」
「じゃあナニか?お前ェ隣で勉強してるヤツに片っ端からプレゼントあげてんのか?違うだろ。それで下心ないたぁ言わせねぇよ!」
 それまで少し引いて眺めていたミサキも、カウンターを飛び越さんばかりの勢いで参戦してくる。
「あの、皆さん、少し落ち着いて・・・」
「柊/お前 は黙ってろ!」
 鬼の形相で三人から怒鳴られる。
「柊の貞操は俺が護る!」
「こんなヤツに渡してたまるかっ!」
「京の初チューは俺のモンだ!!」
 てんで勝手なことを言う三人。
 どうすればこの場を収められるだろう?
(えぇと、初チュー?え、チュー・・・は伊織先生が・・・、ってあぁ、もう!!)
 京一郎は立ち上がり、声を張り上げた。
「あ、の!!私は、お付き合いしている人がいるんですけど!!!」
 思わず口走った言葉に、一堂は口を開けたまま固まる。
「・・・・・・・・・・・・・」
「って、・・・あ、だからなんだ、って感じ、・・・ですけど・・・はは。どうでもいい情報オツですか、ね。」
 途端に気まずくなって頭を掻く。
「・・・え?」
「・・・は?」
「・・・あ?」
「・・・・・・」
「あ、ほら、お茶冷めちゃうし、ね・・・?」
 もの言いたげな四人に、ひとまず座るよう勧める。
「・・・お前・・・」
「はい?」
「うそ・・・」
「マジかよ・・・」
「・・・・・・」
 その場を取り巻く微妙な空気。
 と、勢い良く入り口の扉が開き、小さな鐘がカラカラと鳴った。
 白いスーツ姿の少年が、短髪の和装の男の手を引っ張りながら入ってくる。
「あれ?あー!柊サマ、奇遇ですね。」
 京一郎を見つけると、にっこりと微笑みかける。
「バサラくん、天現寺橋さん!」
 この微妙な流れを変えてくれそうな二人の登場に、京一郎はすがるような気持ちで駆け寄った。
「なんだあいつ・・・」
「まさかあれが京一郎の・・・?」
 しかし四人の目は敵意に満ちて光る。
「ねぇ、京一郎くん。気のせいかな、なんだかあちらの人たちが僕のことを睨んでいるようなんだけど。」
 天現寺橋は顔を強張らせる。
「天現寺橋さん、助けてください。なんだかみんながイライラしていて。」
「君がなにか、とんでもないことでも言ったんじゃないのかい?」
 訊かれ、京一郎は照れ臭そうに呟く。
「・・・お付き合いしてる人がいる、って言っただけです。」
「・・・それだ。じゃ、僕は用事があるから帰らせてもらうよ。」
「あ!ちょ、待ってくださいよ。助けてください!」
「仕事以外の面倒ごとには首を突っ込まない主義なんだ。」
「そこをなんとか!」
 さっさと退散しようとする天現寺橋へ涙目で縋り付く京一郎の姿に、四人の殺意が高まる。
 すると、バサラが天現寺橋の手を取り、またもにっこりと微笑んだ。
「お二人とも、僕にまかせて。」
 そして二人の手を引き、鬼の形相の四人のもとへ悠然と歩み寄った。
「皆さん、はじめまして。僕はバサラです。こちらは僕の主人の天現寺橋。新宿で陰陽師をやってます。」
「陰陽師って、・・・この間お前が言ってた奴か。」
 ワカの反応に、京一郎はこくこくと頷く。
「柊サマは僕たちのお客様ですが、主人にとってそれ以上でもそれ以下でもありません。」
 バサラは観衆をの注目を引きつけるように四人をじっと見回す。四人は突然の闖入者の登場に主導権を奪われ、無言で彼の次の言葉を待つ。
「何故ならば!僕たち"が"そーゆう関係だからです!」
 言うや否や、バサラは天現寺橋の首に抱きついてキスをした。
「な・・・っ!」
「お、おい、公衆の面前だぞ!」
「コーゼンワイセツだ!」
「自重しろコラ!」
「・・・こらバサラ。人前で、はしたないだろう。」
 天現寺橋に引き剥がされたバサラは、得意げに微笑んだ。
「ね?そういうわけですから、うちのセンセイと柊サマはなんでもないんです。」
 毒気を抜かれた表情で溜め息をつく一同。
「それより、僕らは勝手に座っていいんですかね?まだ案内してもらってないのだけれど。」
「・・・どうぞ、こちらのテーブル。」
 天現寺橋の言葉に、覇気のないワカが応じた。
「・・・そろそろ、私は会計をお願いしようか。」
「あ、俺も・・・」
 館林に続いて野々村もすごすごと店を去る。
 京一郎は野々村を追いかけようかとも思ったが、偶然にしては不審に過ぎる天現寺橋たちの登場を放っておけず、純喫茶に残った。

 そろそろ夕飯時に入り、マスタァの料理目当ての客が目立ち始める。ワカも厨房へ戻っていった。
 天現寺橋たちのテーブルが四人掛けなのをいいことに、京一郎はそちらへ席を移動した。
「お二人は、なんでここに居るんですか?」
 声を潜めて問う。
「おやおや。僕らが手料理で評判のカフェに入ってはいけないのかな?」
「そんなつもりで言ったんじゃ、ないですけど・・・」
 口籠ると、バサラが助け舟を出してくれた。
「ほーら、そうやって可愛い子をいじめるの、性格悪いですよ、センセイ。」
「ふふ。そうだな。ごめん、京一郎くん。実は、君を探しに来たんだよ。」
「私を?でもどうやってここを見つけたんです?」
「占術さ。君が華道の教室に通っているのは知っているからね。その近辺の駅に絞ったら、簡単だったよ。」
「へぇぇ。流石、凄腕陰陽師ですね。」
 京一郎の褒め言葉に、バサラが、へへん、と胸を張る。
「でも、私にご用があるのなら、お電話でも良かったのでは?」
「君、持ってるの携帯だけだろ。電話を取ったとき、近くに誰がいるとも限らないから。」
「それは、どういう・・・」
 首を傾げる京一郎に、天現寺橋は少し人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「ねぇ京一郎くん。君の想い人の、別の一面を見てみたいとは思わないかい?」

  ぐぬぬ。 管理人は京一郎さんの「ふえ?」というお声が結構好きなのです。 次回、上大崎さんが出てきます。

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