コヒステフ 13 ラ ラヴァンドゥ


「伊織先生の、別の一面・・・?」
 青ざめる京一郎。
「そんなに不安がらないでいいよ。週末に新宿の文化人が集まる会合があるんだけど、それに彼も参加するようでね。良かったら君も来ないかと思って。」
「・・・それなら、筋として先に私はこのことを伊織先生に言うべきだと思いますが。」
 京一郎が困ったように返すと、天現寺橋は、む、と腕を組む。
「そういえば君、その千家先生と付き合ってしまったんだっけ。」
「あ、はい。今日・・・」
 陰陽師と式神は顔を見合わせた。
「それは、おめでとう、と言うべきなんだろうね。良かったじゃないか、想いが通じたんだ。」
「ええ。その節は、相談に乗っていただいてありがとうございました。」
 照れ臭そうにはにかむ無垢な青年を眺めて、天現寺橋の眉は曇る。
「なら、この話はしなかったということにするべきか・・・」
「センセイ、でも、多分柊サマは知らないんでしょう?」
 バサラは心配そうに主を見上げる。
「なんのことです?」
「・・・・・・。そうだ。キスマークの件も、片付いたのかな?」
 難しい顔のまま、質問する天現寺橋。
「・・・それは・・・。」
「でも、千家先生を信じる、というわけ、か。」
「・・・・・・。」
「あ!柊サマも今日はありますね。早速イチャイチャしたんですかー?」
「!!」
 指摘されて、京一郎は慌ててストールを巻き直す。
「イチャイチャなんて、そんな・・・」
「いいなぁ、ボクもセンセイともっとイチャイチャしたいなぁ」
「さっき人様の前で十分見せつけたじゃないか。」
「あれは、ただのスキンシップですよう。ボクがしたいのは――」
「あぁもう、うるさい。」
 二人の会話が遠く聞こえる。
 そういえば、あのキスマークのことについて、千家は何も言わなかった。京一郎が訊かなかったのだから当然ではあるが、仮にも恋人になった以上は、何らかの説明があってもいいのではないか。
(でもあのとき、伊織先生は珍しく歯切れ悪く答えなかった・・・)
 せっかく想いが通じ合ったばかりだというのに、不安が膨らみ始める。
 恋というのは、こんなにも己を振り回すものだったのか。
「お待たせしゃーしたぁ、マスタァの夕餉スペシャル三人前ーす」
 気の抜けた声でワカが膳を運んでくる。
「あ、ワカくん、手伝おうか。」
「・・・要らねぇ」
 元気なく呟き、戻っていく。
(ワカくんも、皆んなも、いったい――)
「"どうしちゃったんだろう?"かい?」
 ぼんやりとワカを見送っていた京一郎は、天現寺橋の声に、はっとする。
「え?」
「君、さ。気付いてないのか?」
「何を・・・」
 盛大に溜息をつく天現寺橋。
「君ね。おぼこいのはいいけれど、もう少し他人の好意を気にするべきだ。」
「センセイ、自分以外の人のことには敏いですねー。」
「ちょっと静かにしてくれないかな。」
 京一郎はますます困った顔になる。
「私が何に疎いんでしょうか・・・」
「さっき僕たちが店に入って来たときに居た四人。彼らは皆、君に気があるよ。でもさ、君だってちょっとは気付いてたんじゃないのか?」
「・・・へ?」
「・・・・・・。まぁ、いいや。こんなことじゃ、今後千家先生も苦労するだろうね。」
 千家の名で思い出す。
「あ、その・・・会合のこと、なんですけど・・・」
「あぁ、忘れてくれ。他人が君の恋人のことをとやかく言う筋合いはなかったね。」
「いえ、やっぱり私も連れて行ってくれませんか。」
 京一郎の思い詰めたような顔に、天現寺橋は眉を曇らせた。
「大して得るものはないと思うよ。僕もちょっと面白半分で声を掛けたところがあるし。」
「いえ。私も、もっと伊織先生のことを知りたいので、ぜひ。」

* * * * *

 数日後の夕方、京一郎は天現寺橋事務所を訪れた。
「いつもの着物だとすぐにバレてしまうだろうから、今日は僕のを貸してあげるよ。ただし、着付けは自分でやること。」
 できるだけ目立たない方がいいだろう、と言って、天現寺橋は柄物の黒い袷を箪笥から引き出した。
(ちょっとタバコのにおいがする・・・)

 先日。
 千家の部屋を出て教室に入ると、目が合った奥様に顔が赤いと指摘された。
 何でもないですと言いながら席に着いたものの、家元が現れたらどんな顔をしていたらいいだろうとそわそわしていた。
 程なくして現れた千家はいつもどおり完璧な微笑みを湛えていたが、目が合うとまた赤面してしまいそうで、京一郎はあまり顔を上げられなかった。
 こちらは気が気でないのに、向こうは平然としているのが少し悔しい。
 これまでなら、花材や花器の説明のときに、必ず何度か目が合っていたものだが、今日は京一郎が避けているので視線が交わることもない。
(なんだか、こうしていると、さっきのことが嘘のように思えてくるな・・・)
 教室の時間も半分程過ぎた頃には、火照りも大分収まってきたので、家元をそっと目で追う。しかしそうすると逆に、向こうがこちらに視線を向けて来ない。これは偶然なのか、わざとなのか。
 落ち着かなかった割には、早々と作品ができてしまった。
 やっとこちらを向いて、千家が近づいて来る。
 お門違いなのは分かっているが、今更、と思わずにいられない。
「ふぅん。」
 顎に指を添えて、楽しそうに覗き込む家元。
「・・・どう、でしょうか。」
「そうだな・・・」
 ここまでは、今までと何ら変わらない。
 す、と白い手がうなじに伸びて来て、襟足の髪を軽く引いた。
「・・・!」
「誰かに指摘されたか?」
 京一郎にだけ聞こえる声で、囁く。先ほどつけた印のことを言っているのだろう。
(忘れてた・・・)
 俯いたまま、微かに首を振る。
 まだ誰にも気付かれなくて良かった。京一郎は、見つかりづらいように髪の毛を首に引き寄せた。
「・・・つまらん。」
 さほどつまらなくもなさそうに呟く家元。
 目を上げると、待っていたように紅い瞳が艶やかに微笑み、京一郎の顔はまた熱くなる。
「おや、顔が赤い。風邪でも引いたのかな?」
 聞こえよがしに言う。
 知っているくせに。
 しかし、ここにいる誰も、二人がいまどのような間柄なのかを知らない。交わす視線の意味を、知らない。
(秘密の関係・・・)
 言葉を思い浮かべるだけで、どきどきする。
 家元の講評が終わり、片付けをして教室を出るまで、何度か目が合った。そのたび紅い瞳が一瞬細められて、京一郎は舞い上がる気持ちを、緩む頬を抑えるのに必死だった。

・・・なのに。
 純喫茶での小さな騒動の一応の終結後、天現寺橋から指摘された、あやふやになっていたキスマークの件が不安を煽り、そのうえ次の日、偶然駅で会った華道仲間のT夫人が、さらに不吉なことを言ったのだ。
「ね、今朝千家先生を教室の近くで見たんだけど、襟元にキスマークみつけちゃった!あーあ、やっぱり彼女いるのかなぁ。」
 華道教室が終わってからは、会っていない。
 あの日、キスマークをつけたのは千家であって、京一郎ではない。千家の首元にはなにもなかったはず。くちづけの合間に何度も見上げたから、覚えている。
 彼女の見間違いでなければ、恋人であるはずの京一郎ではない人物が、不埒な行為に及んだということになる。
 或いは、千家自身が・・・?
(付き合ったばかりだというのに、伊織先生を疑うなんてダメだ!)
 京一郎は不信感に苛まれそうになる己を叱咤する。
(奥さんの見間違いだ。きっと。でなければ、なにか理由があるはず・・・。)
 でも、もしかしたら、千家にはもとより別の相手がいて、京一郎が浮気相手だという可能性も否定は――。
「伊織先生はそんな人じゃない!」
 道端で思わず大声を出してしまった京一郎は、すれ違う人に不審そうな視線を向けられたのだった。

 黒い着物を身に纏い、地下からの階段を上り終えた帝大生は陰気に佇む。
「はぁ・・・」
「京一郎くん、ため息をつくと幸せが逃げていくって言うよ。」
「この間ここに伺ったときより、気が重いです・・・」
 天現寺橋はやはり困ったように口を噤む。
 そこへ、真っ赤な高級車が颯爽と現れ、事務所のビルの前に音を立てて停まった。
「や、天現寺橋。待った?」
 ホストのような身なりのすらりとした男性が、軽やかに運転席を降りて出る。
「いや、いま出てきたところだ。京一郎くん、今日は彼も同行させてもらうよ。テレビで見たことがあるかもしれないけど、僕の同業者の上大崎だ。」
「あ、お野菜の方、ですよね。帝大生の柊です。よろしくお願いします。」
 上大崎は嬉しそうに、にっこり微笑んだ。
「そうそう。米や肉ばかりは体に良くないからね。こちらこそよろしく。じゃ、二人とも、乗った乗った!」
 赤い車は、京一郎の気分と裏腹に、元気良く出発した。

「そういえば、京一郎くんは千家流について、どの程度知っているのかな?」
 おもむろに天現寺橋が訊いてくる。
 トメや平岡が折りに触れて教えてくれたから、江戸時代から細々と続く流派だということくらいは知っている。
「じゃあ、先代家元のことは?」
「いえ、よく知りません。」
「成る程、ね。」
「あの、なにかあるんですか?この間も、バサラくんが"私は知らない"と言っていましたけれど・・・」
 顔を見合わせる陰陽師二人。
「千家先生の前の家元は、彼の御祖母様だったんだ。彼女は女性にもかかわらず、華道界でかなりの実力者だったらしい。」
 上大崎の説明を天現寺橋が引き継ぐ。
「けれどいま現在、少なくとも関東近辺で強い影響力を持っているのは、千家流ではない。しかし――」
「・・・そのことが、お二人のお仕事に関係しているんですね?」
 京一郎の問いに答えようと天現寺橋が口を開きかけたとき、車が目的地へ到着し、会話は途切れた。

 美しく刈られた生垣に囲まれ、一見すると個人邸宅かと見紛う、隠れた高級料亭。
「なんだか、落ち着かないですね。」
 京一郎は天現寺橋の背中に隠れるようにして廊下を進む。
「正直、僕もこういうのは苦手だ。僕らの中でもっとも場慣れしてるのは、彼だろうね。」
「ん?どうかした?」
 ひとり鼻歌交じりに飾られた壺などを覗き込む上大崎。
「あ!これ、僕のうちにあるのと同じだ。」
「左様でございますか。流石上大崎様。お目が高くていらっしゃいますね。」
「父がうるさいんです。この作品は二点しかないんですよね。色を出すのが難しいとかで・・・」
 仲居の女性と高そうな陶磁器の話に盛り上がる。彼はメディア露出の高い陰陽師であるだけでなく、大会社社長の御曹子でもあり、多方面への造詣が深いらしい。庶民的なもの"以外"について。
「ま、僕らには縁遠い世界だよね。」
 つまらなさそうに鼻を鳴らす天現寺橋に、京一郎は無言で頷いた。

 陰陽師はその生業からして、この場にそぐわない。京一郎は天現寺橋の付き人として出席しているが、天現寺橋はというと、新進気鋭の日本画家として、上大崎が隣席の参加者へにこやかに紹介している。
「それならぜひ、我が家の襖にも天現寺橋先生の水墨画を入れていただきたいものですな。」
 興味津々といった様子で笑う恰幅の良い男性に、天現寺橋はぎこちない微笑みを返した。
 そっと見回すと、まだ千家は来ていないようだった。多くが裕福そうな壮年から熟年にかかる男女。それからテレビで見たことのある舞台俳優や音楽家、書道家など。
 こんな人々と、千家は交流があるのか。
 以前、接待をしに伺うと言っていたパトロンも、この中に・・・?
(縁遠いどころか、私がここに居るのはお門違いもいいところだ・・・)
「あ、お出ましだ。」
 こっそり嘆息していると天現寺橋に肘で小突かれ、京一郎は視線を入口へ向ける。
「ああ、千家先生、お待ちしていましたよ。」
「さぁ、こちらへ、千家先生。」
「連作が好評ですね。」
「今日も素敵なお着物ですこと。」
 美しい所作で現れた長身の男に、参加者たちは口々に声を掛ける。
 千家の登場により一気にその場の雰囲気が華やいだことは、不慣れな京一郎でもよく分かった。
「すごい人気だな・・・」
「僕らもあやかりたいものだね。」
「君がそれを言うか、この有名人。」
 陰陽師二人も圧倒されて千家を見つめる。
 その装いは滅紫の袷に藍鉄の羽織という地味な色合わせながら、光沢のある絹糸の刺繍の柄が洒落っ気を出している。艶のある長髪は、余計なアクセサリー無しに、顔周りを引き立てている。一目で華道家と知らしめる片腕に抱かれた花束は、まるで恋人のように家元に寄り添う。
(伊織先生、かっこいい・・・)
 本来の目的も忘れ、京一郎は千家に見惚れた。
 沢山の粋人に囲まれながら、当然のように中央へ歩を進める千家。その先には、先ほど上大崎が仲居と話題にした壺に勝るとも劣らない風格を醸し出す洗練された器が、まるで千家を待っていたかのように置かれている。
 床の間の前まで来た千家が振り返って微笑むと、そこかしこから感嘆の溜息が漏れた。一礼したのち、腰を落として花束を広げ始めると、拍手が起こる。
「待ってました!」
「今日も楽しみだわ。」
「今回のお題は何だったかな?」
 一体これから何が起こるのか、京一郎たちは固唾を飲んで見守る。
 すると、この会合の主催者と思しき男性が立ち上がった。
「皆様、本日もお集まりいただきまして、ありがとうございます。お声を掛けさせていただきました、S藤でございます。さて、毎度好評の千家流家元による生け花ですが、今回の題は"疑惑"としてお願いしております。」
 参加者たちが騒めく。
「特に他意はございません。数寄者の皆様には、通り一辺倒の題より捻ったものの方が好まれるかとの、私なりの配慮でございます。因みに家元からは、刺激的な題材は己の研鑽に役立つとのお言葉を頂戴しております。」
 また拍手が起こる。
 どうやら主催者の準備した題に沿って、千家が花を生けるというパフォーマンスが行われるようだ。
「それでは、ここからは皆様ご自由に、こだわりの膳とともにこの場をご活用いただければ幸いです。」
 締めくくりの言葉に再度ぱらぱらと拍手が起き、同時に料理を仲居たちが運び始めた。前菜だけ個別に配られ、以降は席の移動も考慮してか、大皿に盛り付けてある。ここのような料亭らしからぬ配膳だが、参加者たちは気にする様子もなく、早速食事に手をつけるもの、千家の横から花を生ける様子を見物するもの、商談を始めるものと、皆それぞれに楽しんでいるようだ。乾杯すらないことは、特に問題ではないらしい。
「じゃ、とりあえず僕らもお相伴にあずかることにしようか。」
 天現寺橋に促され、京一郎も箸を取った。

  次回、天現寺橋センセイが仕掛けます。

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