コヒステフ 16 それは、クロユリ。


「京一郎くん、ちょっと遅くない?」
 再び食事に精を出していた天現寺橋は、上大崎の指摘に箸を停めた。
「確かに。・・・もしや、さっそくジェラシー作戦が動いているのか・・・。」
 すく、と立ち上がる。
「え、どうしたの、天現寺橋。」
「ちょっと面白いものが見られるかもしれないからね。僕は少し席を外すよ。さて。どこに居るのかな・・・」

 離席した陰陽師の卓には、盃が酒をなみなみと注がれたまま置き去られている。ぷくりと盛り上がった水面に浮かぶ刺身のツマ。菊の花びらは、金木犀が見事に咲く中庭の方角を指し示していた。

* * * * *

「・・・ふ。驚いたか。」
 やっと、千家は微笑んだ。してやったり、というではなく、どこか諦念の混ざる乾いた笑み。
「なん、ですか・・・それ・・・」
 京一郎は目を逸らしそうになるのを必死に堪えた。
 それは見るにも痛々しい、痕、痕、痕、痕、痕、痕、痕、痕、・・・・・・どれも紅い、痣・・・。
「お前やT夫人が見たというのは、おそらく、これだろう。」
 千家はうなじの髪を掻き上げて見せる。
 しかし、わざわざ見せずとも、千家の首、胸、腹、背、腕を、痕は埋め尽くす。特に、左半身を中心として、どのような虐待を行えばここまでできるのかと思うほど、鬱血のような痣は密集して刻まれていた。
「これをお前は不貞の印だと、そう思うのだな?」
 訊かれて、首を縦に振ることはできなかった。
(だってこんなに沢山、いくらなんでも・・・)
「そうか。では、なんだと思う?」
 千家は静かな声で尋ねた。
 だが、皆目見当もつかない。少なくとも、愛撫の一環で施されたものでないことは分かる。たとえ、一人によるものでないにしても、万が一複数の人間により数度にわたって施されたにしても、明らかに度を超えている。
「・・・分かりません・・・。」
「・・・だろうな。知らずともよい。私はそう思っていたのだが、な。」
 足の先まで見たいか、と聞かれ、京一郎は首を横に振った。
 代わりに、駆け寄って千家の左手に触れる。
 指を絡めて、握る。反応がない。強く握る。動かない。絡めた指を握らせる。すぐにほろりとほどけてしまう。
 京一郎は、千家を見上げた。
「伊織先生、左手が・・・」
「お前は、・・・まったく。」
 千家は困ったように微笑む。
「・・・いまさっきまでは普通に動いていましたよね?病気なんですか?この痣と関係がある?ねえ、伊織せんせ――」
 右腕で抱きしめられた。
 直接顔に当たる胸は温かく、とく、とく、と規則正しい鼓動が聞こえた。
 当たり前のことなのに、なぜか少しだけほっとする。初めて目の当たりにした千家の膚の異常にただならぬものを感じたばかりだからか。
 幼子を宥めるように、千家は優しく京一郎の髪を撫でた。
「・・・案ずることはない。病気や怪我とは違うが、いつものことだ。」
「・・・痛むんですか?」
「まぁ、多少な。だが時間が経てば治るし、この痣も消える。」
「でも、――」
 もう何も言うな。掠れた声で呟くと、千家は京一郎の唇を己のそれで塞いだ。温かい舌が、そっと入ってくる。
 案じなくていい、心を痛めなくていい、気にしなくていい。
 優しいくちづけから伝わってくる想いが歯痒くて、握り返してこない左手が切なくて。
 いつ、治るんですか。こんなことしょっちゅうなんですか。なんで、教えてくれなかったんですか。私にできることはないんですか。
 訊きたいのに訊くことを優しく封じられた京一郎は、右手で千家の掌を握ったまま、彼を抱き返したい己の左手を持て余した。

 こつこつ、と音がする。
「京一郎くん、居るんだろう?」
 扉の外から小さく呼ぶ声は、おそらく上大崎だ。
「・・・なんだ、間男か?」
 千家が唇を離して低く呟く。
「違いますって・・・。はい!居ますが!」
 明るく声を張り上げる京一郎に、不快そうに眉を顰める千家。
「そうか、よかった。千家先生の離席が長いと少し広間がざわついているんだ。そろそろ戻るよう伝えてくれないかい。僕らは先に行って何とかうまく言っておくから。」
 今度は天現寺橋の声。
「分かりました、ありがとうございます!」
 二人の足音が遠ざかるまで、千家は京一郎を抱きしめていた。
「後の声が間男だな?」
「だから!」
「まぁこれで、どちらの操が固いか分かったな。」
「私も浮気はしてませんって!」
「ふん。どうだか。」
 軽口を叩きながら脱ぎ捨てた着物を拾う。右腕だけでは紐をほどけても結ぶのには不自由なので、京一郎が手伝って着付ける。
「ここを出たら、お前にはまた多少不快な思いをさせるかもしれないが、」
「分かってますよ。媚びっ媚びの千家先生。」
 べぇ、と舌を出してみせる。
「妬くな。」
「妬いてません。」
「ふ。可愛くないやつ。」
 京一郎の髪の毛をくしゃくしゃと撫でてから、千家は扉に手を掛けた。
「あ、伊織先生」
 京一郎は振り向く千家の左手を握る。やはり、反応はない。
「あとで、ちゃんと教えてください。もう・・・貴方だけの貴方じゃないんです。」
「・・・・・・。」
 困ったように微笑む千家の髪の隙間から、痣の一つがちらりと見えた。
 引き寄せて、うなじに強く口付ける。痣の上に、重ねるように。京一郎の痕で、消えてしまうように。
「・・・お前は見かけによらず、独占欲が強いのだな。」
 千家は少し、面映そうに笑った。
「さぁ。・・・伊織先生がいろんな人に媚びるのが悪いんです。」
「どうしても許せないというのなら、この舌を噛みちぎればいい・・・」
 恐ろしげなことを呟いてもう一度落ちてきたキスは、蕩けるようだった。

 広間に戻ると、天現寺橋が小声で訊いてきた。
「で、千家先生の身体にはいったい何があったんだい?」
「・・・聞いてたんですか・・・」
「まぁね。君のおかげで思惑通りに事が運んで、本当に助かるよ。」
「・・・・・・。仮にも自分の恋人の身体について、おいそれと人に話すわけにはいきません。」
 冷たく返すと、それもそうだ、と天現寺橋は頷いた。
「なら、僕の方から言おう。キスマーク、あったんだろう?それも、酷くたくさん。」
「・・・見てたんですか・・・?」
 視線をきつくする京一郎に、上大崎が弁解する。
「見てない。誓っていい。違うんだ、京一郎くん。呪術による症状に、似ているものがあるんだよ。」
「呪術って、呪い、とかですか・・・?」
 心臓がどくりと跳ねた。
「断定はまだできない。けれど、可能性はかなり高まった。それが千家先生個人に対するものなのか、それとも家元としての彼に対する呪いなのか、それも含めて、彼に話を聞く必要がある。」
「前に、キスマークのことで相談を受けたことがあったから、もしや、と思ったのさ。君を使ってばかりで悪いんだけど、できるだけ早く僕らが千家先生と会えるように、取り付けてくれないか。」
「呪いがあったとして、お二人にはそれを解くことができるんですね?」
 縋るように見つめる。しかし、上大崎は表情を硬くして言った。
「それはやってみないと分からない。」
「何故です?陰陽師はそういったことも仕事の一つなんでしょう?」
「上大崎流は、治癒の術に長ける。だから、完全に呪いを取り除けなくとも、多少軽減することはできると思う。しかし、こればかりは因果を知り、解決の方法を見つけない限り保証できない。僕らはベストを尽くすけれど、万能じゃないんだ。」
 申し訳なさそうに眉を下げる上大崎。
「・・・先生は、お二人に会うのを嫌がるかもしれませんが。」
「そこは、君が何とかしてくれないと。恋人にかかる不安は、早く取り除きたいだろう?」
 天現寺橋の言葉に、京一郎は頷かざるを得なかった。
 ちら、と遠くの席に座る千家の様子を窺うと、先程と変わらず談笑している。左腕はさりげなく膝の上に置いて、不調を悟られないようにしているのが分かった。
(伊織先生、ちゃんと教えてくれるだろうか。陰陽師の二人は、彼の不調をどこまで治せるのだろうか・・・。)

  刺身のツマ=菊の花びらです。大根の細切りなヤツではないのです。

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