コヒステフ 17 彼女の知らない馬酔木


 その日の夜、帰宅してから、京一郎は千家に電話をした。
 時間も遅かったし、なんとなく教室に掛けるのは躊躇われて、携帯に掛ける。携帯は鬱陶しいので好きではないと言っていたから、しぶとく20回くらいコールすると、やっと出た。
「・・・なんだ。まだ恨み言でも?」
「一言目にそれですか。違いますよ。今日はお疲れさまでした。」
「次は私の気に入りとして連れて行ってやろう。」
「遠慮します。誰から恨みを買うか知れない。」
「・・・・・・。」
「・・・伊織先生。」
「なんだ。」
「まだ・・・身体は痛みますか?」
「まぁな。」
「・・・・・・。」
「京一郎、言ったはずだ。お前が気に病むことではない。」
「なら私だって言いました。貴方だけの身体じゃない。心配はします。」
「・・・そうか。」
「ねぇ、伊織先生、」
「ん。」
「今日、私をあの席に連れて行った知人というのは、陰陽師なんです。」
「・・・・・・。それで?」
「・・・それで、・・・」
「私について、何か言っていた、と。」
「・・・はい。先生の身体の不調について訊きたいことがあるから、できるだけ早く会う機会を設けたいと。」
「お断りする、と伝えておけ。」
「伊織先生!」
「己のことは一番よく分かっている。今更誰が何を言っても仕方のないことだ。」
「では、お医者に掛かっているんですか?」
「そういう類のものでもない。」
「なら!」
「そろそろ切るぞ。これでも私は疲れている。」
「待ってください。私は専門家ではないですが、それでもあの痣は異常です。誰かにされたものでないのなら、どう説明するんですか。それに、左手のことだって。」
「説明のしようがないから、手の施しようもない。それだけだ。言っただろう、そのうち治ると。」
「それでも、一度でいいから彼らに会ってみてくれませんか。」
「厭だ、と言っている。」
「お願いです!」
「聞けない頼みだ。」
「私は心配しているんです!」
「もう遅い。切るぞ。」
「・・・分かりました。なら私も先生があの人たちに会ってくれるまで、教室に行きません。」
「勝手にするといい。」
「先生にも会わない。」
「そうか。」
「!・・・伊織先生の、分からず屋!!!」
 ガチン、と音はしなかった。プッ、と。京一郎は思いきり電話を切った。

 その翌々日。
 千家はいつもより早く叩き起こされた。
 急な仕事の打ち合わせが入ったとのことで、朝に弱い彼は不機嫌を押し隠しながら渋谷のとあるビルへ向かう。
 よく調べる間もなく、トメに急き立てられるがまま出かけてしまったので、クライアントの名前すらうろ覚えだ。どうせ名刺を交換するのだ、さりげなく確認して、さも知っていたかのように呼べばいい。
 いつもの完璧な微笑を用意しながら応接室で待っていた千家は、ノックと共に現れた男を見て、あからさまに厭そうな顔をした。
「・・・・・・なるほど。嵌められた、というわけか。」
「私がいくら言っても、聞いてくれそうになかったので。」
 仏頂面でぶっきらぼうに言う京一郎に続いて、陰陽師二人が現れる。
「京一郎くん、もう少し穏やかにお願いするよ。」
「千家先生、陰陽師の上大崎と申します。会合ではお見掛けしていましたが、挨拶が遅くなりました。」
 上大崎と名刺を交換し、千家はさして面白くもなさそうに笑う。
「ああ、このビルにも貴方の姓が冠されていましたね。よくよく気を付けるべきでした。」
「騙すような真似をしたことはお詫びします。私も彼と同じく陰陽師の天現寺橋です。京一郎くんには彼が千家先生に片想いしていた時からお話を伺っています。」
「ちょ、天現寺橋さん!」
 京一郎が慌てて千家を見やると、案の定不興顔をしている。
「・・・ですから、彼の友人として、僕らは先生の不調を見過ごせません。どうかお話を聞かせてもらえませんか。」
「ほぅ。私の生徒はよい友人を持ったものだ。これからも可愛がってやっていただければ幸いです。だが私としては陰陽師先生方とお話することは特段ありませんので、失礼。」
「伊織先生!」
 さっと部屋を出ようとする千家を、京一郎は両手を広げて通せんぼした。
「退け。」
「厭です。」
「通せと言っている。」
 低く唸る千家に、京一郎は必死に訴える。
「伊織先生、ちょっとでいいから教えてください。私も貴方の不調の原因を知りたい。少しでも軽減する方法を探したいんです。先生が良くっても、私が厭なんです!」
「他人に話して聞かすようなことではない。」
「千家先生。」
 押し問答する二人を割って、上大崎が口を開いた。
「今も、左手の具合は良くないですか。」
「・・・お前、話したのか。」
 千家が睨んでくる。京一郎は首を横に振った。
「・・・いえ、左手とは言ってません。」
「・・・・・・。」
「京一郎くん。千家先生の利き腕は、どっちだっけ。」
 訊かれ、怪訝に思いながら京一郎は答える。
「・・・右、です。」
「何故、そう思うのかな?」
「鋏を、右手で持っているから・・・。」
 それに、本のページだって右で捲るし、触れてくる時も、右が多い。
「そうか。でも千家先生。先生は本来、左利きですよね。」
「えっ?」
「・・・・・・・。」
 千家の表情は語ることを拒否している。
「ある時期を境に、右手を主にして使わざるを得なくなった。違いますか。」
「・・・私の家は古風でしたから。左利きは早々と矯正させられたのです。」
 淡々とした返答。だが、天現寺橋は頷かない。
「他の流派だったらまだしも、 自由を家風とする千家流に限り、それは考えづらいですね。もともと左で鋏を扱う事に問題はなかったはずだ。貴方のお姉さんから、そのときの写真も見せてもらいました。」
 千家の表情が一転して険しくなった。
「・・・姉のところへ行ったのか。」
 氷のような冷たい声に、京一郎は背筋がぞくりとする。
「勝手に調べたことはお詫びします。ですが、お姉さんは貴方が不調を患っていることをご存じないのですね。自慢の弟ですと嬉しそうに見せてくださいましたよ。」
 天現寺橋のやや事務的な回答を、上大崎が柔らかく引き継ぐ。
「だから僕たちも余計なことは言わずに帰ってきました。あ、写真は、雑誌の特集で使うから、という名目でお預かりしましたのでご安心ください。」
 そう言って、クリアファイルに入った写真を上大崎が見せると、千家は無言でそれを見つめた。
 中学生くらいだろうか。肩口で揃えた黒髪と紅い瞳が印象的な少年。真剣な表情で右手に長い茎を持ち、左手の鋏がまさにぱちんと切ろうとしている・・・。
 蒼みを帯びて光る瞳が、まるで写真を視線で焼き尽くすかのように見えた。張り詰めた空気に、京一郎はびりびりと音がするのではないかと思う。
 暫くの間、背中から殺気を立ち昇らせているかのようだった千家は、やがて諦めたように溜息をついた。
「分かりました。いったい何の役に立つのか皆目見当もつきませんが、いいでしょう。お話しします。ただし、私の家族には今後二度と接触しないでいただこう。」
「ありがとうございます。」
 ほっとした表情で、上大崎と天現寺橋は京一郎に微笑んだ。
 千家はやれやれといった様子でソファに深く身を沈める。
「一つ、お聞きしたい。」
「どうぞ。」
「この件の依頼人は、S藤氏ですかな?」
 柔らかな声に相反して、鋭く光る紅い目。
「お答えできません、とだけ申し上げます。」
「ふん。なるほど。」
 上大崎の回答に、千家はつまらなさそうに笑った。
 師と陰陽師の会話に入り込む余地のなかった京一郎は、おずおずと口を挟む。
「・・・あの、私もここに居ていいのでしょうか。」
「お前の手引きで私はここに居るのだ。退席する理由がない。」
 千家に手招きされて、横に座った。
「では早速ですが千家先生、貴方の不調は病気などではないと僕たちは考えています。身体中の痣、そして利き腕の不具合が、呪術的な症状に似ている。これについて何かお聞かせいただけることはありますか。」
 上大崎の質問に、千家は淀みなく答える。
「そうですね。御察しのとおり、西洋・東洋を問わず医学的にどうこうできるものではないでしょう。呪詛?恐らくおっしゃるとおりでしょうね。」
 あっさりと認める語り口に、京一郎は違和感を拭えない。死霊の気配は昔から馴染みがあったが、呪いなんて一種のマインドコントロールだと思っていた。
(東京だから、なんだろうか・・・?)
 古さと新しさが入り混じり、秩序に混沌の併存を認め絡み合う、ヒトとモノに覆い尽くされた街――。
「その呪いですが、いつから始まったかご存知なんですか?」
「私が、高校生の頃です。」
 京一郎は思わず千家を見た。彼の正確な年齢は知らないが、高校時代となると10年も前のことになるだろう。
(そんなに前から・・・?)
 彼については知らないことばかりだ。家族の話もあまり聞いたことがないし、これまでも、花や本の話くらいしかしたことがない。高校時代の伊織少年に、何があったのか。京一郎には知る由もない。
 天現寺橋が質問を続ける。
「何故、これが呪詛だと思ったのですか。」
「呪いをかけた人間を見たからです。」
 その言葉に、陰陽師たちの目が鋭くなる。
「千家先生は、その人間と対面で呪いをかけられたのですか。」
「いいえ。そもそも、呪いを受けたのは私の姉です。」
「・・・というと?」
 上大崎が先を促す。話について行こうと、京一郎は必死に耳を傾けた。
「私は、姉が呪いをかけられているところを見た。そして、その人間に呪いを私に移すよう頼んだ。結果、私に呪いは移された。しかし、それは一部だけでした。」
「呪いをかけた人物というのは、貴方の御祖母様、つまり先代の家元に、恨みを持つ人間ですか。」
「・・・よく調べておいでのようだ。ご指摘の通りですよ。」
 千家は面白くなさそうに肩をすくめた。

  あとちょっとだけ陰陽師の問診は続きます。

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