コヒステフ 18 浜簪は行き違い


 千家の話を要約すると、こうなる。
 千家流先代家元であった彼の祖母は、当時華道界でかなり影響力を持つ位置にいた。そのころ、金回りが異様な時代、作品の評価は金ありきだった。真の美しさ、芸術性が追及されていない状況に危機感を持った彼女は、その影響力を以って金を除き、実力を評価する方向へ変えようと動いていた。しかし、当時の経済はバブルの只中で、金に溺れきっていた多くの家元は反発した。しかし結果として彼女の活動は功を奏し、汚れた金はかなり駆逐された。やがて訪れた不況も彼女の追い風となり、金の動きが悪くなると実力主義も定着した。
 作品が正しく評価されるようになると、それまで金で評価を買った流派は華道界での評判を貶め、また金で評価していた側もその立場を失った。彼らは彼女を恨み、報復として千家流を潰そうと企んだ。
 そして祖母が急逝する。不審なことはなく、過労がたたったのだと、皆思った。
 千家流の跡取りとしては、元より千家の姉が予定されていた。もちろん千家自身も子供のころから華道を嗜んではいたが、継ぐつもりはなかった。
 葬儀も済み、家元お披露目の日程を数えるばかりになったころ、ある人間から姉が食事に招待されていることを知った千家は不審に思い、出かけた姉の後をこっそり尾けた。
 食事は和やかに終わり、姉は何事もなかったかのように帰宅した。しかし、千家は見たのだ。帰り道、彼女の後ろについて歩く胡乱な人物を。
 数日後。姉の利き腕である右手は、突然動かなくなった。体中に紅い痣が浮かび上がり、熱にうなされた。
 千家は直感的に、先日の食事のホストが何か仕組んだのだと思った。そして主を訪ねて問い質すと、簡単に白状した。
 彼は請うた。姉の呪いを自分に移してほしいと。そうすれば、姉の家元就任はさせないから、と。
 千家の予想に反して、相手はすんなりとその申し出を聞き入れた。恐らく、怖い目に遭った若い女がまた家を復興させようなどとは考えないと踏んだのだろう。千家自身については華道の腕を積極的に外に披露してこなかったから、彼が継ぐなど思いもしなかったのだ。
 後日、彼は一矢報いるつもりで再び相手の元へ向かい、そして呪詛を移す儀式を受けた。

「その際、聞きかじった方法で呪詛返しを行った。」
 その言葉に陰陽師は眉をひそめる。
「呪詛返し?危険です。素人がやっていいことじゃない。」
「そうですね。だから、呪いは私に移り切らなかった。姉の右手首から先は、今もほとんど動かない。私に移ったのは、身体中に痣が出ると不調が起こるということだけ。そして、それは利き腕である左手を中心に、不定期に発症する。」
 気だるげに千家は息を吐いた。時間の無駄だったな、とでも言いたそうだ。
「呪いというのは、正しい方法で解呪しないと解けなくなることは、お分りなんですね。」
「無論。だから、もはやあなた方に話しても詮無いことだと申し上げたのです。」
「詮無い?・・・もしかしてその術をかけた人間と言うのは――」
 吐き棄てるように、千家は言った。
「もうこの世にはいません。術者も、依頼した本人も。人を呪わば穴二つ、とはよく言ったものです。」
「死んだ・・・千家先生に呪いを移したときに?」
「いえ。それから少し経ってから、それぞれ別のとき、別の場所で、と聞きました。」
「術者や依頼人が死んでも解けていないとなると、厄介だな・・・」
 陰陽師二人は腕を組んで唸った。

 恋人になってまだ間もない中知った、千家に降りかかる呪い。それはかつて彼が、姉を守るために払った代償だった。
(しかし今なお、伊織先生は苦しめられている。そしてそのことをお姉さんは知らない・・・)
――恐らくもっと大きかったであろう呪詛の影響が、弟の犠牲により軽減されているであろうことを。
 彼女が無事家元を継いでいたなら、千家はきっと違う道を歩んでいたのだろう。夢だってあったのかもしれない。明確に敵がいると分かっている世界を渡っていく覚悟は、並大抵のものであったはずがない。
 それでも姉のために呪いを自ら受ける、千家の家族を思う気持ちを知り、京一郎は改めて彼に惹かれ、また少しだけ彼女への羨望を覚えた。

 静かに息を吐き、千家は出された紅茶を啜る。
 つられて茶菓子に手を伸ばした京一郎は、彼の受け皿を持つ手の位置に気づいた。
「あ、でも伊織先生。左手の調子、戻ったんですね。・・・良かった。」
「何を言って――・・・」
 カップを置きながら千家の表情が固まる。
「どうかしたんですか。」
「・・・左手が動かなくなると、いつもなら丸三日はろくに物も持てない。しかし、考えてみれば今朝、着付けに不自由を感じなかった・・・。」
「不具合が始まったのは、いつでしたっけ?」
 天現寺橋の質問に、京一郎が答える。
「一昨日の夜です。私が見ていました。」
「一昨日・・・となるとまだ一日半しか経っていない。なにか、最近変わったことは?」
 特に・・・、と言いかけて、千家は口を噤んだ。
「思い当たることがあるんですか?」
「いや。・・・しかし・・・」
「伊織先生、何でもいいから言ってみてください。」
「だが・・・、まさか、・・・な・・・」
 言葉を失った千家は、京一郎を見つめる。
 また降りる沈黙。
「お茶、入れ替えましょうか。少し失礼します。」
 気を利かせた天現寺橋と上大崎が席を外す。
 応接室の戸が閉まると同時に、千家は京一郎を抱き寄せた。
「ちょ、伊織先生!」
 事情を知っているとはいえ、天現寺橋たちに見られたら恥ずかしい。京一郎は慌てて引き離そうとするが、千家はひしと抱いたまま動かない。
「・・・どうしたんです?急に。」
 まだ戻ってくるな、と心の中で念じながら、小声で訊く。
「・・・帰る。」
「えええ?!」
 やっと身体を離した千家の顔を覗き込むと、らしくなく表情が浮かない。
「伊織先生・・・?」
「帰るぞ、京一郎。」
 千家は立ち上がり、京一郎の手を引っ張って応接室を出た。
「まだ話は途中なのに!」
 京一郎が騒いでいると、上大崎が盆を片手に給湯室から出てきた。
「あれ、お帰りですか?」
「急用です。失礼。」
 千家は言葉短にエレベーターへ京一郎を押し込む。
「今日はお忙しいところありがとうございました。解呪法を調査して、また連絡します。」
 閉まる扉の向こうから天現寺橋の口が、また、と言うのが見えた。

「伊織先生、私は午後から講義なのでここで。」
 渋谷駅で別れようとすると、千家は首を傾げた。
「何時からだ。」
「13時からですけど」
「ならばまだ余裕があるな。一度うちへ来い。」
「え、あの、キャンパスは駒葉なんです」
「・・・朱門の方ではないのか。いい。それなら大学までバイクで送る。」
「カフェとかじゃだめですか?」
「駄目だ。」
 有無を言わさず、千家はタクシーを止めた。

「お帰りなさい、あら柊さんも。」
「茶は要らない。」
 外套も脱がず、出迎えたトメを押し除けるように自室へ戻ると、京一郎を引き入れた千家は障子戸をぴしゃりと閉めた。
「あの、伊織先生?」
 そしてコートを取り上げ、服を脱がせ始める。
「っ何するんですか?!」
「少し黙っていろ。」
 シャツのボタンを全て外すと、まるで点検でもするように身体を見回す。
 首筋、胸、背中、腕、・・・。細胞まで覗き込まれているのではないかと思うほど凝視する。
 居たたまれなくて京一郎は身を捩った。
「ねえ、いお――」
「前回の教室以降、どこか痛んだり、熱が出たりということはなかったか。」
「・・・いえ、特段・・・」
「先日の会合の後は?」
「特に、ないですけど・・・」
「そうか。」
 今度は京一郎の腕を片方ずつ持ち上げて、指を絡めて握る。
「腕や指、足の使用に不具合はないか。」
「別に・・・」
 千家は少し安心したように溜息をついた。その様子に、京一郎はひとつ思い当たって口にしてみる。
「・・・もしかして、私に不調が移ったんじゃないかと思ったんですか?」
「・・・・・・。」
 無言は肯定なのだろう。
(気遣ってくれたんだな。)
 京一郎は微笑んだ。
「だったら大丈夫ですよ。ここずっとすこぶる快調です。熱も頭痛も、ついでに便秘もありません。」
「・・・そうか。」
 しかし千家はやはり浮かぬ顔のまま、京一郎にシャツを着せかけた。
「・・・どうしたんですか?貴方らしくない。いつもより早く治ったんでしょう?良かったじゃないですか。」
「・・・治ったのだろうか。」
 言うと今度は姿見の前に立ち、彼は乱暴に己の衿の合わせ目を開く。
 あのおぞましい痕は、なくなっているようだ。恐らく背中も腹も腕も、消えているのだろう。
 京一郎はシャツのボタンを留めながら、千家が首元の髪を掬い上げるのを覗き込んだ。
「あ・・・」
 白い膚にひとつだけ残り咲く紅の花。
「これは、お前がやったのだったな。」
 鏡の中の千家に見つめられて、顔が熱くなる。しかしこんなときいつも、からかおうと口の端を上げるはずの彼の顔はどこか硬い。
 はっきりしない淡い表情が、らしくない。
 なにやら不安になって、京一郎は千家の袂をそっと掴んだ。
「・・・伊織先生、早く良くなった理由に思い当たることがあるんですよね。私にも、教えてください。」
「それは、・・・・・・」
 言い掛けて、千家は口を噤む。
 紅い瞳はいつもどおり静かだ。けれどその視線には戸惑いと、やはり何かへの諦めが含まれるように思われて、京一郎は返事を促そうと口を開けたが、答えないと決めているかのように千家は目を逸らした。
「午後から駒葉だったか。付き合わせて悪かったな。約束どおり送ろう。着替えるから少し待っていてくれ。」

 キャンパスには講義開始時間より少し早く着いた。
 京一郎は大学の食堂で一緒に昼食を摂らないかと千家を誘ってみたが、用事があるからと断られた。先ほど聞き損ねた話を、本当はもう一度、聞いてみたかったのだが・・・。
「伊織先生、あの、」
 フルフェイスをトランクにしまう千家に声をかける。
「ん?」
「・・・あの、・・・」
 何か言わなければ、と思う。何も言わずに別れてしまうと、また会えなくなりそうな、そんな気がする。
「どうした。」
 少し笑いながら、千家は京一郎の頬に指の背で触れた。
 口元は微笑みを湛え、声は甘い。けれど、ゴーグルの奥の瞳は憂いに曇っていて。
 せめて意地悪く細められていたのなら、こんなに心がざわつかないで済むのに。
「・・・・・・。」
 言葉を探す京一郎の唇を、千家の親指が撫でる。
 何も言わないでいい、とでも言うかのように。
 そして二輪に跨ったまま京一郎の方へ身体を伸ばすと、額にそっと口付けて、彼は去っていった。

  朱門はお華の教室方面。駒葉は渋谷よりも西側のようです。

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