コヒステフ 19 善界草 -サイド:アイ- 


「陰陽師とやらを呼んだのは、貴方ですね。」
 相手は苦い顔で俯く。
「私の不調について根掘り葉掘り聞かれました。姉の連絡先を教えたのも貴方ですか。」
 視線を流してやると、彼は驚いたように否定した。
「ふぅん。それではうちの者かな。いえ、私のことを気に掛けてくださってのことであるのは承知しています。謝らないでください。」
 しかし彼は済まなさそうな表情を変えない。
 そして少しの沈黙の後、おずおずと尋ねてくる。先の話とは別件で、かつて姉の家元就任を妨げた人間について。
「ええ。最近知りました。亡くなっていたんですね。」
 こちらが落ち着いていることで意を決したように告げた彼の言葉には多少驚きを禁じ得ないが、千家は表に出さず頷いてみせる。
「貴方の叔父上様だったのですか。それは、ええ。もちろん知りませんでした。」
 彼は憂鬱な表情で溜息をつき、あれは本当に残念なことだったと呟いた。家元就任直前の姉の急病、ひいてはそれ以降の千家姉弟の持病の原因が、その叔父に関係があるのではないかと長年気にしていた、とも。
(ふぅん。鋭いな。)
「・・・そうですか。だが仮にそうだとしても、貴方が気にすることではないでしょう。私の不調も姉の後遺症も、貴方のせいではないのだから。」
 彼は一度千家の祖母のファーストネームを口にし、慌てて"先代"と言い直した。その名を呼ぶときの彼の瞳はいつだって、少しだけ少年のように純粋に、少しだけ歳相応に諦念を浮かべて潤む。祖母と彼とは親子ほどの歳の差があったはずだが、好いた惚れたには関係ないらしい。こういう顔をする人間は正直、嫌いではない。
「祖母をそのように親しみを込めて呼んでくれる人も、近頃はかなり減りました。貴方の力添えがなければ私もここまで来ることはできなかった。感謝しています。」
 千家の謝辞には誰もが口にする賛辞と謙遜を前置きに、しかし彼は思い掛けない凶報を仄めかした。
「・・・私の生けた花に触れて?先日のあの場に偶然いた私の生徒も作品を近くで見たようですが、何も言っていなかったな。・・・陰陽師も。」
 軽く京一郎に言及すると、彼は少し嬉しそうに微笑んだ。物置から出た後、時間差をつけて宴の場に戻るため手洗の辺りで別れるのを見られていたらしい。うっかりしていた。
「あぁ、ご存知でしたか。そうです。春頃から通うようになって。」
 京一郎が花に触れた時には、先に倒れた女性の時とは異なり、特に何も起こらなかったという。ただ、その場で何かを感じたのか、きょろきょろしていた、と。
・・・なるほど。それが彼の言うとおり、呪いや怨念めいたものによるのだとすれば。
 京一郎は時折変に勘の鋭いところがあると思っていたが、やはり何かしらそちらの方面に力を持っているということだろう。だからこそ、陰陽師とも知り合った。
 そうなれば様々な点で合点がいく。
(・・・恐らく長年苦しめられた呪いを癒すことができる、という点についても・・・。)
「・・・あぁ、失礼。少しぼんやりとしてしまいました。最近寝不足なもので。ええ。体調は問題ありません。明日の展示もご心配なく。恐らく不調は出ないでしょう。先日復調したばかりですから。」
 君に原因があると考えているわけではない、他にあると思って今回陰陽師を呼んだのだ、これだけは知っておいて欲しい、と彼は弁解するように言った。
「分かりました。今後も陰陽師先生方の協力を仰ぐとしましょう。私としても、生けた花が原因で問題が起こるのは不本意ですからね。こう見えて、私は花を愛していますから。」
 彼は少し笑ってから表情を戻し、くれぐれも身体を大切に、と繰り返した。
「・・・分かっています。貴方がこうして私たちへ心を砕いてくださっていること、知ればさぞや祖母も喜んだことでしょう。本当に、感謝していますよ、S藤さん。」
 少し気の抜けた微笑みを浮かべ、千家はその場を辞した。
 彼を信頼しきっているわけではない。だがこれまで陰に日向に様々な援助をしてくれた事実は揺るがない。仇とも呼べる人間と血縁だったことは意外だったが、彼の様子から呪いのことまで知っているようには見えなかったし、恐らく事件とも無関係だったのだろう。
 此の期に及んでなぜそんなことを告げてきたかは判らないが、陰陽師に調査を依頼したということは、彼の叔父がそういう類の人物と関わっていたらしいことを薄らと思い出したのかもしれない。

 タクシーの車窓からごちゃごちゃとした街並みを眺めながら、千家はこのごろの身の回りの変化に思いを巡らす。

 思えば温かな雨の降るあの夜、パトロンに呼ばれて酒に付き合った帰り道、酔い潰れた京一郎を見つけたのが始まりだった。
 当初は気付きもせず、仮に気付いたところで放っておくつもりだったのに、トメに尻を叩かれ渋々背に負ぶい、ずぶ濡れで邸に帰り着いた頃には、なぜか自ら介抱してやるかという気になっていた。私がやりますから、という平岡の申し出も断って。
 濡れた服を脱がし身体を拭いてやっても起きない学生には、随分と神経が太いものだと呆れもしたが、それ以上も以下も、特段の感想はなかった。なんら感情を揺さぶられることなく浴衣を着せて布団に入れると急に睡魔に襲われて、自分は髪を拭くことも風呂に入ることもしないうちに寝てしまったらしい。
 朝起きたら風邪を引いていた。酷い頭と喉の痛みを覚えながら自室に戻り、日課どおり花を生けた時の心の穏やかさにはしかし、我ながら少し驚いたものだ。家人も、他人のいる部屋で寝るとは、と不思議がっていた。
 その学生が華を習いたいと現れたのは意外だった。寝顔しか見ていなかったから、あの時の彼であるとは言われるまで気付かなかった。
 わざわざ菓子折りを持って挨拶に来たこと、千家が花を生けるところを見て興味を持ったという飾らない言葉には好感を持てた。それでも当初は、若い男性の入会でさらなる客寄せ効果も期待できるかくらいにしか思っていなかったのだ。
 あるとき気紛れで着物をくれてやったら、懐いて毎回部屋にまで来るようになった。家人ですら自室に入れたくないのに、いつの間にか懐に入り込んで寛ぐ彼を、千家は猫のようだと思った。
 うっかり触れてしまったのは予定外だった。見つめ返してくる熱を帯びた瞳になにかを暴かれそうな気がして、だから、からかってみた。
 そう、引き込まれそうになったときは、彼の初心さをからかえば己の心を見つめずに済む。そうやって予防線を張っていたはずなのに。
 ぎりぎり微妙な距離を保っていたはずだった。
 にもかかわらず京一郎は、持ち前の好奇心と気の強さで暴き、狼狽え、そして衝動のまま口付けた。
(あそこではっきりと拒絶しておけば、ここまで踏み込んでくることもなかったのだろうか。)
 千家は考える。
 あのとき、拒絶できただろうか。
(――否。)
 できなかった。
 できるわけがない。
 何故ならあのときのくちづけは、あまりに甘美だったから。
 行為としては全くの素人で、おそらく聞きかじった知識に頼り思い切り吸われたから、刺すような痛みがあっただけだ。そこまでやらなくても痕は付くぞ、と教えてやろうかと思うほどに。
 しかし何故か、抗えなかった。
 何を以って甘いとしたのか、今にしても不明瞭で、あの感覚を的確に表現する言葉を千家は知らない。
 ただそれを、不思議に思った。
 そしてまた、少しきつめに躾けておこうと思った。
 その気も無いのに進むと、どうなるのか。
 こちらの都合も少しは考えろ。
 拒絶されると思ってやったことだった。
 しかしというかやはりというか、抗うことを忘れたように京一郎は溺れた。
 初心ゆえに一層際立つイノセントな情欲にこちらまで共に溺れそうになって、だから帰らせた。もう、来ないかもと思った。
 案の定次の週、彼は千家の自室に来なかった。
 これで終わった。もう会うこともないだろう。束の間の恋愛お遊戯。久し振りに、悪くないと思った。荒涼とした心の底に、一抹の潤いを与えてくれた。
 ぎらつく目を伏せ研いだ爪を隠して侵攻するだけでない毎日を、一瞬夢想できた。それだけで、十分だ――。
・・・だが教室で、目立たないよう体を小さくして正座している京一郎を見つけたとき、己の心がわからなくなった。
 そんなにも会いたいと思っていたのか、彼に。
 こんなにも嬉しいのか、彼がまた来たことが。
 家元を継ぐことにしたあの日から、利用できる人間には媚びることも諂うことも厭わなかったが、家族が無事でいること以外、誰かの存在に喜びを感じることなどなかった。ましてやまだ二十歳やそこらの学生の存在に心を揺さぶられるなど・・・。
 この情調をどう処理すべきか。千家は戸惑った。
 相手は生徒で学生で、しかも男だ。様々な邪魔立て嫌がらせを乗り越え、やっとメディア露出も増えてきたここで、万一何か不都合が起こっては、これまで少しずつ積み上げてきた足場が崩れてしまう。
 そうならないためには、どうすべきか。
 これまでと同じく、予防線を張り直せばよい。愛されるべき師として、皆に優しい千家先生として。
 だからこの胸襟に湧くものは、博愛と変わらない筈だったのに。
 彼の作品から、知ってしまった。
 京一郎は、こちらの気持ちを知りたがっている。見上げて、途方に暮れている。
 そして実際、他の生徒が誰もいない広い教室で、千家を見つめていた。熱く、濡れた瞳が。
 誘われて、ついまた溺れそうになったところで、トメの絶妙な邪魔に救われた。しかし彼女の余計な世話によりタンデムで送る羽目になった。
 マンションまでの道程は、少しだけ揺らいだ気持ちを落ち着かせてくれた。
 そう、京一郎は慣れない二人乗りに震えていたから、いつものようにからかって、そして去ればいい。これでうまくやれる。問題ない、と千家は思った。
 その後、約束していたレストランへ向かい、数月振りに会った姉から言われたのだ。
「ねぇ、好きな人できたでしょ。」
 何のことだと訊くと、「女の勘」と訳の分からない応えが返ってきた。
 パトロンも依頼者もメディアも生徒も皆好きだが、と返すと、彼女は千家とそっくりな紅い瞳で意地悪く笑った。
「ふぅん。」
 それ以上は追及してこなかったが、左手にワイングラスを揺らしながら、彼女は終始にやにやしていた。
 いつになく不愉快になって予定より早く帰宅し、洗面所でふと見上げた顔に、千家はぎょっとした。
 鏡の中の自分は、姉に恋心を言い当てられて淡く染まった頬をむくれさせたままだったから。
 信じられない。
 こんなこと、あるわけない。
 ポーカーフェイスを何より得意としていたはずなのに。
 そしてさらに、そのとき初めて気付いた。
 そういえばこの間、予兆が現れたにもかかわらず不調は起こらなかった。
 あの痣が出たら、いつもは瞬く間に身体中に拡がって左手の自由が奪われるはずなのに、京一郎が見つけた痣はすぐに消え、代わりに彼の付けた痕はそれこそ今回の教室の前日まで薄ら残っていた。見慣れすぎていため、京一郎のキスの痕であると千家が認識していなかっただけで・・・。
 こんなこと、今まで一度だってなかった。
 いったい何が起こっている?
 これまでは少しだけ他より親しい師弟でしかなかったはずの京一郎との距離が、僅かにずれ始めている。そしてほぼ時を同じくして、起こるはずの不調が止まり、おそらく今回はこれ以上何も起こらないだろう。
 このタイミング、この符合に、意味があるのか、ないのか。
 しかし今更考えても無駄だ、と千家は思う。
 何故ならこの現象を生み出した張本人は、随分と前に死んでいたのだから。
 どうやったら治るのか、あるいはどうやったら防げるのかなど、今更知る必要はない。
 何故ならこの痛みこそが千家を動かす原動力であり、あの日から抱いてきた、怒りにも復讐にも似た前進への動機だから。
 これが無くなってしまったら、痛みも苦しみも消えてしまったら、これまで屈辱を噛み締め阿媚し諂諛しそしてのし上がってきたことへ、意味を与えられなくなってしまう。
 だから、千家はそれ以上考えることをやめた。
 無邪気に慕ってくる危うい距離の弟子とは、関係を崩さずただ危ういままにいようと決めたのだ。
 というのに。
 よりによって、今度は唇を奪われた。縁側でうつらうつらしていると横に座る気配がしたから、またなにか悪戯しようとしているとは思ったが、再び大胆な行動に出るとはさすがに思っていなかった。
 そして、爆発した彼は追い詰められ遂に告げてしまった。危ういまま、どちらつかずの不安定なシーソーの上にいるはずだったのに。
 だから千家はこの告白をあやふやにするため、張り詰めた雰囲気漂う廊下からいつもの自室へ京一郎を誘い込もうとした。しかし、彼はそれを拒絶とみなし、去ろうとした。
(あの時、京一郎を去るがままにしておくべきだったか・・・。)
 去る者は追うべきでなかったか。
 追わずにいられたか。
(・・・否。)
 なかなか部屋に入ってこない京一郎に痺れを切らして出てみると、ふらふらと帰ろうとしていた。手を掴むと、振り払われた。少し、傷ついた。
 逃げられないように拘束して、先の告白の真偽を問うた。
(あのとき京一郎の告白を誘発したのは、誰でもない私だ。あれが何を言うかなんて、本当は問い詰めずとも分かっていた・・・)
 ぽつり、ぽつりと滲み出る言葉が、体に浸み込んでくる。目の前の追い詰められた小鹿の喘ぎを、心は拒絶しない。どころかもっと欲しい。それはつまり。
――そうだな、姉さん。確かに貴女の言うとおりだ。
 彼の心が真であることを確認したうえで、先日タンデムで送ったときの去り際にしたようにまた謎をかけてやる。
 我ながら、卑怯だ。
 管理できるようにしか相撲は取らない。こちらの支配下にあるのなら負けも厭わない。
 そうだ。なぜなら、求めたのはお前だ。危ういままだったものを、確たる危険に変えたのは、お前なのだ。であるならもう一度。私を得たいのならもう一度、求めてみろ。
 そして京一郎は請うた。
 千家は与えた。
 関係性が、変わった。
 激しい雨に閉ざされた、二人の声しか聞こえない部屋で、静かに。
 そう。
 求められたから、与えた。そのはずだった。
 好きだ、という言葉はあくまでツールなのではなかったか。
 主導権は、この恋の重要性は、こちらがコントロールできるはずだった。
 しかし。
 その言葉は縛るように、不思議と千家を満たした。そして京一郎の名を声に出すと、くちづけとはまた異なって身体が甘く疼いた。
・・・いつの間にか心の行き先は、知る範囲を超えていた。
 思えばあの宴の席で陰陽師が京一郎にちょっかいを出したのは、彼と二人きりにする機会を設けようとしたがために違いない。目的は不明だが、千家が何かしら不興に思うことを見越して。
 そしてまんまと引っかかった。その先では逆に京一郎から誠を問われたわけだが、その感覚を、心地良く感じた。
 妬心など面倒だと思っていたのに、控え目に見える恋人が己にはこうして独占欲をぶつけてくることを、不思議にも嬉しいと思った。
 己はこんな考え方をする人間だっただろうか。
 千家は自問する。
 他人の感情を武器として道具として分析することはあっても、正面から受け取って味わうことが、これまでにあっただろうか・・・。
 だがあのとき、心から、愛おしいと思ったのだ。
 だから、誠が疑わしいと思うなら、舌を噛みちぎればいいと言った。喩えでなく、本心から。
 そして、くちづけはやはり、甘かった。
 癖になる。溺れる。
・・・それでもいいか、と思った。

(いま思えば、京一郎のくちづけが甘いのは、呪いを癒すからだったのだろう。)
 癖になった。溺れている。
――彼との関係性が変わって、まだ日も浅いというのに。
 今だって欲しい。控え目なくせに気の強い恋人に、甘い睦言を浴びせて蕩かして請わせたい。くちづけを誘いたい。
――否、きっと。本当はあの雨の夜から。

 窓の外の眺めは緩やかに速度を落とし、見慣れた日本家屋の門前で停まる。
(・・・・・・だが。)
 タクシーを降りた千家は、空を見上げた。
 身体中に、血が巡るようにある想いを、遠く彼方へ散らすように。
(もう、会うこともあるまい――)

 遅すぎたのだ。千家の人生の舞台に京一郎が現れるのは。
 痛みを失くして生きていけるような生き方を、してこなかったのだから。
 ただひたすら邁進するしかなかったこの歩を緩める、刺し殺すように花と舞ってきたこの手に温もりを与える、優しいくちづけに振り向くことができる時期など、とうに過ぎている。
 それだけのこと。
・・・だから、心は痛まない。
   ・・・・・・心は、痛まない――――。

  S藤はとりま「えすふじ」とでも呼んでいただければ。

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