コヒステフ 20 たとえ雪中花でも、


 天現寺橋から連絡があった。
 確認したいことがあるから、千家を事務所に連れてきて欲しいということだ。
 京一郎は早速彼の携帯に連絡をしてみたが、いくら掛けても繋がらない。20回どころか40回くらい鳴らしても出ない。もちろん留守録の設定はされておらず、向こうから掛かってもこない。
(忙しいのかな・・・)

 数日して教室に行くと、いつもと違って離れへ続く木戸が閉まっていた。日にちを誤ったかと確認するが、やはり京一郎の間違いではないようだ。仕方なく、気後れしながら正面玄関の扉を叩く。
 出てきたのは平岡だった。
 教室は当分お休みです、と彼は事務的に告げた。理由を聞くと、家元多忙のため、という。
 ちょっと会って話したいと伝えると、人と会っている余裕がないから難しいとの回答。いつまで、と訊くと、未定と返された。
 彼の部屋に上がって待ちたい、とは流石に言えなかった。千家との関係については家人も与り知らぬはずで、だからおいそれと恋人の権利を振りかざすわけにはゆかない。
 それでも、せめてどこに出掛けているのか知りたい、と食い下がると、不審そうな顔で彼は言った。
「お伝えできません。申し訳ないが、お引き取りください。」

 次の週、京一郎が再び教室に行くと、「千家流華道教室」という木の札の横に、「しばらく休みます」と達筆で書かれた紙が貼ってあった。
 携帯にかけても教室にかけても、千家が電話に出ることは、無かった。

 連絡が取れなくなった。
 駒葉で別れてからだ。もう、十日以上になる。
 あのとき、嫌な予感を押し殺して彼が去るのを見送らず、せめてデートの約束くらい取り付けておくべきだった。そうすればまだ、つながりを保てたかもしれないのに。
 千家の仕事は教室以外フリーランスであるようだから、どこに行けば確実に会える、ということもない。生涯学習系のスクール講師をしていないか探してみたが、過去の単発講習くらいしか見つけることができなかった。
 いくら多忙とは言っても、急に恋人と音信不通になるものだろうか。せめて、これから忙しくなるから今後は当分電話で話そう、とか、いついつ頃には落ち着くからそれ以降に連絡する、とか、そういった共通認識を作っておくものではないか。
(伊織先生は面倒くさがりのようだけれど、突然連絡を途絶えさすような人とは思えない・・・。)
 そもそも、これまでにだって急に教室が休みになることはあった。そういう時は必ず、教室から連絡があったものだ。今回についてはたまたま連絡が漏れたのだろうと平岡は言っていたが・・・。
 こんなときに限って、華道仲間の奥様方にも連絡ができない。彼女らの多くは近くに住んでいるので、これまでは教室周辺などですれ違うこともあったのに。特に必要性も感じていなかったから、連絡先を交換している人もいない。

 天現寺橋のことがあったから、初めは毎日朝と晩に携帯へ電話をかけてみていたが、それが何日も続くとだんだん気持ちが萎んで、少しずつ思考が後ろ向きになってゆく。
(無視されているのだろうか。)
(いや、そんなことはきっとない。)
(では、なぜ連絡してこない?)
(何かわけがあるはず。)
(恋人に言えないわけとは何だ。)
(伊織先生は社会人だから、学生とは違う。)
(社会人は、学生の恋人をほったらかしにするものか?)
(そもそも男友達だったらそんなに頻繁に連絡し合ったりしないものだ。)
(我々はただの友達だったというわけか。)
(恋人だって、忙しくて連絡できないこともあるだろう。)
(携帯にも教室の方にも、何度も連絡をしている。こちらからの連絡を知りながら一度も向こうから反応がないことについては、どう説明する。)
(それは、だから・・・)
(知っていて、敢えて連絡を返さないというのは、つまり。)
(・・・・・・私を無視、している・・・?)
 マイナス思考がループする。

 駒葉で別れたときの千家の眼差しが、ふいに蘇った。あのときは、また次に会ったらいつもの彼に戻っているだろうと、さして気にも留めなかった。
 思えば上大崎の事務所で最近変わったことはと問われたとき、何かに気がついたように彼は京一郎を見たのだ。その視線は気になったものの、そのうちきっと語ってくれるだろうと楽観していたのだが・・・。
 そう。あのときの彼は、普段と様子が違った。戸惑い、憂い、そして諦めを、その一挙一動が仄めかしていた。
(あぁ、何であのとき、もっと強く聞かなかったんだ。)
 もし、千家の中での揺らぎが、連絡を取れない数日の間に固まっていたのだとしたら。
 たとえば何か、京一郎に言えないような事実が判明して、そのために連絡を途絶えた、とか。
 あるいはやはり、京一郎の存在自体が彼にとって疎ましいものになった、・・・とか。
 もう、取り返しがつかないのではないかと、背筋が凍る。
 でなければ――
「まさか・・・!」
 先日治って間もない不調が彼を襲っているのではないだろうか。
 左手が使えない状態では、稽古をするに不都合だ。だから、教室を休みにしているのではないか。
 それにしたって、この間の話では物も持てないというのは3日ほどだったはず。時期を定めず休むとなると、通常よりも症状が重いのでは。
 教室に行ってもどうせ門前払いであることは分かっている。とにかく今は、千家の無事を確認したい。京一郎は再び電話を手に取った。
「はい。千家流華道教室です。」
 出たのはトメだった。
「生徒の柊です。お世話になっております」
「あらあらこんにちは。この間いらしたんですってね。ごめんなさいね、せんせ、忙しくなっちゃって。」
「あの、伊織先生は、・・・」
「今日もお出かけなの。最近ご機嫌も斜めでね。」
「あ・・・・・・じゃあ、体調を崩していらっしゃるわけではないんですか・・・?」
「ええ。ご心配かけてしまったわね。せんせにも言っておきますね。」
「はぁ・・・」
「今日はね、伊勢天の催し物のお花をつくりに行ってるから、新宿にお買い物に行ったら会えるかもしれませんよ。」
「本当ですか!?」
「柊さんが応援しに行ってくれたら、ちょっとはご機嫌治ってくれるかしらねぇ・・・」
「ありがとうございます!行ってみます!!」

 千家が倒れているわけではないことが分かって、京一郎は胸をなでおろした。
 そのうえ、思いがけず居場所を聞けた。新宿伊勢天など縁のない場所だが、調べてみると自宅からさほど遠くはなさそうだ。
 突然押しかけて迷惑ではないだろうか、とも思ったが、トメに行ってくれと言われたということにすればいい。なにより、会いたい。やっと掴んだ彼につながる糸口なのだ。これを手放すわけにはいかない。

 早速マンションを出たところで、携帯が鳴った。天現寺橋からだ。
「あ、もしもし。」
「京一郎くんかい。いま、どこに居る。」
 挨拶もなく、いつになく緊迫した声。
「自宅の前、ですけど・・・」
「千家先生はどうした。」
「最近、連絡が取れなくて・・・」
「なんだって!・・・もう、何してるんだ君は!!」
 苛立ちを隠さない天現寺橋の様子に、京一郎は戸惑う。
「え・・・?」
「今、彼はおそらく・・・危険な状態だ。」

* * * * *

 早く、早く。なぜこんなときに限って電車が遅れている。
 気持ちが早って、新宿参丁目で降りるべきところを四谷参丁目で降りてしまったから、よけい時間が掛かっているというのに。
――この間上大崎のビルで会ったとき、彼に症状が現れたら分かるようにちょっとした仕掛けをしておいたんだ。今それが反応している。しかも、何か不穏な感じがする。僕は別件で新宿にはすぐに向かえないから、とにかく君だけでも先生のそばへ行くんだ、いいね――
 天現寺橋の言葉が、脳内でぐるぐる回っている。
 やっと現れた電車に飛び乗る。
(焦っても仕方ない。落ち着け、落ち着け・・・!)
 エスカレーターを駆け上がり、改札を出るとすぐに百貨店の入り口が見えた。
 確かトメは、催し物の仕事だと言っていたはず。催事場の階を確認し、エレベーターに乗る。
 準備中の扉をそっと開けると、スタッフらしき人が数人で打ち合わせをしていた。
「あの、すみません。千家流華道教室の者ですが、家元はおりますでしょうか。」
 厳密に言えば教室の生徒なのだが、すらすらとこんな言葉が出てくることに、京一郎は我ながら少し驚いた。
「お世話になってます。千家先生ならそこで作業なさってますよ。入らないようにって言われてるので、そっとノックしてください。」
 軽く会釈して、ひっつめ髪の女性が指さした奥の扉を叩く。
 返事はない。
 勢い来てしまったが、会うのは数週間ぶりだ。扉を開けるのを、京一郎は躊躇った。
 ここまで来て怖気付くなんてみっともないけれど、振り返った千家が冷やかにこちらを見下ろす様子が目に浮かんで、勇気を萎えさせる。
「・・・伊織先生」
 扉の外から怖々声をかけてみるが、やはり反応がない。
(・・・どうしよう・・・)
――何してるんだ君は!!
 天現寺橋の声が耳にこだまして、はっとした。
(そうだ、何しにここに来たんだ私は。しっかりしろ!)
「京一郎です。入ります。」
 声を張り上げて、京一郎は勢いよく扉を開けた。

  伊勢天って、百貨店というより、エビの天ぷらみたいですね。

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